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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.170 (2003/06/28)
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 □ 中沢新一『神の発明』
 □ アラン・ソーカル/ジャック・ブリクモン『「知」の欺瞞』
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●575●中沢新一『神の発明 カイエ・ソバージュW』
                   (講談社選書メチエ271:2003.6.10)

 講義録「カイエ・ソバージュ」シリーズ──旧石器人類の思考から一神教の成り
立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破
することをめざした野放図な思考の散策──全五冊のハイライトとも言える本書で、
中沢新一は「神のマテリアリズム(唯物論)」を試みた。

 それは「神(ゴッド)の観念」の出現を、マルクス・エンゲルスの顰みに倣って
「自然史の過程として」探求しようとするもので、中沢氏が議論の出発点に据えた
「マテリアル」とは脳、それも認知考古学が想定する現生人類の脳──スイス・ア
ーミー・ナイフのようなネアンデルタール人の「特化型」の脳ではなく、認知的流
動性をもった「一般型」へと進化した現生人類の脳(スティーヴン・ミズン『心の
先史時代』)──である。

 ホモサピエンス・サピエンスの脳=心の内部の出来事としての超越、つまり「内
在的超越」(スピノザ)という現生人類の心の基本構造をもとに、「超越性」の発
生、つまり人間の心が神を発明する物質的=精神的プロセスを明らかにすること。
具体的には、日本古語の「モノ」が含意する「タマ」や「カミ」、つまり精神的な
ものと物質的なものとの界面で立ち上がる「半‐物質」的な「スピリット」を「心
の胎児・心の原素材」として、そのトポロジー変形を通じて「多神教宇宙」が、つ
いで「唯一神」が出現するプロセスを解明すること。

 中沢氏一流のほとんど名人芸の域に達した軽やかでのびやかな語りが堪能できる
本書は、唯一神の誕生という「スリリングな話題」に関する部分が「抑圧」の一語
で片づけられていて、やや説明不足の感を拭えない点を除き、知的刺激と興奮に満
ちた、新しい学──観念論と唯物論、心の科学と物質の科学がひとつにつながるレ
ベルを示す「二十一世紀の思考」、あるいは一神教の成立、科学革命に続く第三次
の「形而上学革命」をもたらすもの──の可能性を予感させる学術エンターテイン
メントである。

 とりわけ興味深いのは、キリスト教の三位一体の教義のうちに「情報」(父と子
の同質性)と「生命力」(聖霊の増殖する力)という二つの機構を抽出し、それら
を「生命」と「経済」と「神」の三位一体的関係をめぐる議論へと敷衍した上で、
生命力=増殖力としてのスピリット(精霊・聖霊)の未来を透視する終章だ。(そ
れは、「カイエ・ソバージュ」シリーズ最終巻のテーマを予言するものなのだろう
か。)

《しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはい
けません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、原初のみず
みずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能
性を失ってはいません。そこにはまだ、はじめて現生人類にスピリット世界が出現
したときとそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいもの
が出現する可能性をもった場所と言えば、そこにしかありません。私たちはそこに、
来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。》

 ──ところで、本書の全編にわたって繰り広げられる人文知と科学知との比喩的
重ね合わせ、たとえば、スピリット世界から多神教宇宙への精神力学的過程を物理
学の「対称性の自発的破れ」の概念でもって説明したり、多神教的な神々の宇宙の
基本構造「高神‐来訪神」を、ラカンの心のトポロジー論を援用して「トーラス型
‐メビウス縫合型」と表現しているところなどは、それがほとんど本書の魅力と可
能性の中心であるだけに、アラン・ソーカル(『「知」の欺瞞』)流の批判への無
防備さが気になる。

 しかし、よくよく考えてみると、本書の全編、というより「カイエ・ソバージュ
」シリーズ全体が、まさにソーカル流の一見妥当な外観をもった批判に対する、よ
りスケールの大きな回答になっている。

●576●アラン・ソーカル/ジャック・ブリクモン『「知」の欺瞞』
                      (田崎晴明他・岩波書店:2000.5)

 ソーカルたちが本書で企てている二つのこと──つまり人文・社会科学系の著者
たち(というよりポストモダンの思想家たち)の数学や科学的概念の濫用の指摘と
認識的相対主義批判──は、実のところまったく別の事柄なのではないか。(つい
でに書いておくと、曖昧な文章への批判もこれらとはまた別の次元の話だと思う。)

 ソーカルたちが本当に試みたかったのは「エピローグ」にあるポストモダニズム
批判なのであって、そのためにこれほど延々と引用と揶揄を重ねる必要はなかった
のではないか。(ついでに書いておくと、数学や物理学の概念が間違って引用され
ているとしても、そのことと文章が意味不明あるいは無内容であることとは、これ
もまた別の話だと思う。)

 そして「はじめに」に記されている著者たちへの批判はほとんどあたっているの
ではないか。これに対するソーカルたちの反論にはあまり説得力がないのではない
か。(付言すると、パロディであろうが贋作であろうが、いったん公にされ読者に
受容された論文はもはや著者の思惑を超えたものだ。たとえ、後になって『知の欺
瞞』に書いたことはこれもまたパロディだったとソーカルたちが明かしたとしても、
だからといってこの書物の「価値」が減ずるわけではない。)

 ──と、否定的な書きぶりに終始したものの、最終的にはソーカルの努力に一票。
(だからといって、たとえばドゥルーズやガタリの面白さがいささかなりとも減ず
るわけではないし、精神とトポロジーにはなんの関係もない等々とソーカルたちが
論証もなく決めつけているのに対しては、岡潔がかつて語ったという、数学は自然
科学の粋ではない、精神科学の粋なのだ云々という言葉がいやがうえでも重くかつ
すがすがしいものに思えるとだけ書いておこう。)

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