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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.169 (2003/06/22)
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 □ 桜井哲夫『戦争の世紀』
 □ 岡真理『記憶/物語』
 □ 木村重信『はじめにイメージありき』
 □ 東浩紀著『存在論的、郵便的』
 □ ミリアム・シルババーグ『中野重治とモダン・マルクス主義』
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●570●桜井哲夫『戦争の世紀』(平凡社新書)

 第一次世界大戦の本質はいまだ解明されていない。ある書物にそう書かれていた。
桜井哲夫氏も本書で、この戦争はヨーロッパ社会に根底的な変化をもたらし「精神
の危機としての二◯世紀」を生み出したのであって、われわれを拘束し続ける今日
の政治的問題へとつながる決定的な出来事であったにもかかわらずそもそも誰もが
納得しうる戦争勃発の決定的要因ですら定まっていないのが実情だと書いている。

《つまり、諸国間が織りなしている様々な関係の網の目が、いつしか機能不全とな
って切断されるに至ったのだ、と考えるほかはないということだろう。誰もがこれ
ほどの惨劇が生み出されることなど、考えてもいなかった。そして、おそらく、こ
の事態を生み出した要因の一つは、二◯世紀が生み出した「速度」だと見なすこと
も可能である。》

 桜井氏はまた機関銃の出現が生み出した塹壕戦こそが第一次世界大戦で姿をあら
わした近代戦の姿であり、「塹壕体験は新たな共同体(戦士の共同体)体験となり、
その一体感(崇高なる沈黙の共有)が戦後のファシスト運動の基盤となってゆくの
である」と指摘している。

 そして、ひとり、この戦争が何を失わせたのかを的確に論じた人物がいた、それ
はヴァルター・ベンヤミンその人であるとして──ジョルジュ・ソレルとベンヤミ
ンという二人の思想家の出会いの意味を「二◯世紀の政治的にして神学的問題をめ
ぐる二つの傾向の対決の先取り」であったと規定した今村仁司氏(『ベンヤミンの
〈問い〉』)の議論を念頭におきながら──1933年に書かれた「経験と貧困」を取
り上げている。

《「経験」の崩壊は、世代間の断絶を生み、人と人との間の関係を変化させ、「経
験」や「文化的遺産」から切り離された無機質な文化を生み出し始める。第一次世
界大戦は、国民総動員の名のもとに、どこを切り取っても等質で、固有の経験や文
化を喪失した「国民」、すなわち、オルテガ=イ=ガセットの言う「大衆」、ハイ
デガーの言う「ダス・マン(世の人)」を生み出した。/かくて第一次世界大戦は、
それ以前の社会や文化から世界を切断してしまった。以後の世界を特徴づけるのは、
「痕跡」を消した文化である。ベンヤミンは、バウハウスの建築や作家シューアバ
ルトが描いた移動可能なガラス住宅は、人が住んだ痕跡を消してしまうことに注目
する。人の住んだ歴史(痕跡)が、一切残らない住居。それこそは、二◯世紀とい
う、無機質な科学技術文化を発展させ歴史意識(経験)を消し去ろうとしてきた時
代の象徴とも言えるかもしれない。/なればこそ、ベンヤミンは、歴史のなかで打
ち捨てられてきた廃物、屑を収集し、死者の叫びを共有化する道を歩むことになる。
おそらく、彼はそこに、第一次世界大戦における膨大な死者たちの存在を意識して
いた。だが、彼は、ドリュ=ラ=ロシェルやマルセル・デアとは異なって、塹壕共
同体の「死者への崇拝」から政治的崇高性(民族と祖国のために死ぬ)へと向かう
回路を切断し、民族や国家を越える(「法を越えて」)、つまり近代国家を越える
道を模索し続けることになるだろう。》

 本書が投げかける問いは重い。

●571●岡真理『記憶/物語』(岩波書店)

 著者は、物語が話者に身体化された母語で語られるのに対して、小説の言語は学
校教育で修得された書き言葉という「別の言語」なのであって、小説とは「言語を
異にする読者」によって読まれるもの(翻訳可能なもの)であると述べている。

《小説は,小説という虚構の空間に〈世界〉を構築する.エドワード・サイードは,
なぜ,イスラーム世界で「小説」という文学形式が誕生しなかったかと自問し,そ
れについて自らこう答えている.イスラーム教徒にとって,世界の創造とは神のみ
に帰属する行為であり,被造物である人間が,神が創造した世界とは別の世界を創
造/想像することは,「ビドゥア」(bid'a イスラームから外れた行い)と考えら
れたのだ,と.》

 岡氏は続けて、小説は近代によって可能となったのだが、同時に近代という時代
それ自体が小説的な語りを要請したという。

 ──身体に根ざす物語。物語(観念)の無意識(再現不可能なもの)を虚構の空
間のうちに表現する(翻訳可能なものとする、というより翻訳「のみ」可能なもの
とする)小説の働き(自動翻訳機械もしくは時間製造機としての精神による、音楽
にも似た働き?)。あるいは、奴隷の哲学によって開示されたもの(たとえば魂)
をめぐる思想、端的にいって植民地の思想としての歴史哲学?

《植民地主義の侵略によって,祖国にいながらにして,自分たちが帰属するはずの
大地から疎外されていくという不条理,近代という時代が,そこに生きる人間たち
にもたらすトラウマ(精神的外傷)──その不条理さゆえに言葉で名づけ,「経験
」として飼い慣らし,過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力,そうした,
言葉では語ることのできない体験,〈出来事〉を,物語として語るという時代の要
請を,小説は自らの身に引き受けたのではないだろうか.言いかえれば,小説の語
りには,そうした出来事の不条理な分有の可能性が賭けられているのではないだろ
うか.

 だが,それは,言葉では語りえないものが,小説であればにわかに,言葉で語る
ことができるようになるなどということではない.むしろ,ここでわたしが示唆し
たいのはそれとは反対のことである.〈出来事〉というものが本質的にはらみもっ
ている再現することの不可能性,それをいかにしてか語ることによって,小説はそ
こに,言葉では再現することのできない〈現実〉があることを,言いかえれば〈出
来事〉それ自体の在処を,指し示すのではないか.言葉によって,もし,すべてが
説明されうるのなら,小説なるものが書かれなければならない致命的な必要もない
だろう.》

●572●木村重信『はじめにイメージありき』(岩波新書:1971)

 ロゴスに先立ち、文化一般の先行条件となる「イメージの機能と意識の発達との
関連」をテーマとしたこの書物は、読み返すたびに新たなインスピレーションと刺
激が得られる名著で、もし岩波新書から一冊を選ぶなら(私の場合は)これ。

 その真骨頂は「原始美術の諸相」(副題)をめぐる簡にして要を得た具体事例の
紹介にあるのだが、ここでは最終章の叙述から理論的エッセンスを抽出しておく。

 まず、結論から。──著者は、旧石器時代人と新石器時代人の表象作用(美術)
の違いを「オブジェからシンボルへの展開」と表現し、次のように要約している。
 
◎旧石器時代の美術─イメージの自動的投影(客観化)としてのオブジェ
《きわめて具体的で現実主義的な呪術を信じた旧石器時代の人びとは、自然対象を
知覚し、記憶のなかに保存し、それを自動的に投影した。その意味でイメージはあ
くまでも現実そのままに保持され、いきおいその様式はリアリスティックとなり、
生命的となった。したがってそれは常に単独で孤立した形象としてあらわされ、そ
こにはなんの構図意識もなかった。[引用者註:このようにして客観化されたイメ
ージが「オブジェ」である。]古い絵の上に新しい絵が無秩序に重ねられ、岩盤が
平らに整えられず、情景描写がないことなどが、その端的なあらわれである。》

◎新石器時代の美術─イメージの抽象化としての観念=シンボル
《ところが新石器時代になると、人びとは見たり触れたりする現実的対象のほかに、
それらを支配する、見えない超越的存在を意識するようになった。そうすると人び
との関心は、当の対象自体から離れていき、現実的対象のばらばらなイメージが、
何らかの意味で統一され、超越的な空間にはめこめられる。このことは逆にいえば、
対象の可視的な現実性が犠牲にされて、新しい観念的空間の意識がうまれたことを
意味する。[引用者註:このようにイメージから抽象されるものが「観念」である。
]従ってこの空間では、現実的対象の形態や色彩は変形されざるをえず、そこに存
在するものはもはや現実的対象ではなく、観念的なシェーマの中に分解された対象
となるほかはない。かくして一種の抽象的な図形が作られ、またコンポジションが
うまれるのである。[引用者註:このようにして形象化された観念が、というより
形象とともにある観念が「シンボル」である。]》

 ついでに、現代へとつながるシンボルの発達過程について。──著者は、新石器
時代美術における象徴化によって成立した超越的存在が、単なる偶像にとどまらず
具体的な空間を求めるとき、そこに「神のすまい」としての建造物がうまれ、現実
的空間から遮断された別の空間=自由な空間の意識が発達し、さらにこの意識が観
念性の度合を高めることによって「キリスト教のような非常に絶対主義的な宗教」
を生むに至ると述べている。

◎思想の象徴としての言語の形象化=文字の発生─あるいは美術史としての精神史
《象徴による形象化の能力の発達は、やがて知的な面における論理の発達をも促し、
文字の発生へとみちびいた。(略)…人びとが現実を表象しうる象徴を確立しうる
限りにおいてのみ、思想の象徴としての言語はその形をとりえたのである。イメー
ジの働きを基礎にして、何らかの象徴的な思考が可能となり、その結果として宗教、
哲学、科学などが諸々の思考形式として、後から起こったのである。その意味でド
ヴォルシャック(オーストリアの美術史家)の「精神史としての美術史」、すなわ
ち精神あるいは知性の発達史としての美術史というテーゼは、「美術史としての精
神史」と言い改められねばならない。》

●573●東浩紀著『存在論的、郵便的』

 昼食のあと少し固いめの本を読みながら、うつらうつらしてきたら十分かそこら
の仮眠をとるのが日課になっています。いつだったかの『アエラ』の特集でサラリ
ーマンの午睡が話題になっていましたが、私の場合もうかれこれ十年以上も前から
の習慣なので、そうと気づかぬうちに流行の先陣を切っていたわけです。
 
 以前、東浩紀著『存在論的、郵便的』を二月かけて読んだのも、そういった夢う
つつの中での出来事で、これがまた実に心地よい体験でした。もちろん、読み方が
読み方なので、細部に立ち入ってのきめ細かな意味をつかむことはもとより全体の
結構もたよりなくはかなげだった(あくまで読者の側の話)のですが、そうである
にもかかわらず淀みないスピードでずんずん読み進めることができたのです。(「
純粋消費」などという言葉がもしあるとすれば、それはちょうどこのような快楽を
もたらす経験をさすものなのかもしれません。)
 
 『週間東洋経済』(1999.2.13)の書評欄では、「80年代初頭に出た、浅田彰の
『構造と力』のように、早熟な思想家の処女作は、著者の意図を遥かに超えて時代
の行方を予言する。本書もまた、21世紀における市場社会の“脱構築”を冷徹に予
告しているようだ」(古田隆彦氏)と紹介されていました。私にとっては後半やや
意味不明の評言でしたが、「市場社会の“脱構築”」という言葉の内実をどう構成
するかによっては、評者のいわんとすることがわからないでもないような気もしま
す。
 
 いずれにせよ、七◯年代以降のデリダはなぜあのような奇妙なテクストを書いた
のか(暗号のようなテクストでもって何を語ろうとしたのかではなく)を終始一貫
してテーマに据え、後半に進めば進むほどますます抽象度に磨きがかかる文体や「
……である。どういうことか。」といった歯切れのよい叙述のテンポでもって、「
高密度でビット数の高い音楽のような哲学」(PLAYBOY[1999.2]掲載のインタビ
ューにおける東氏の発言)に仕上げた力量は並みではありません。

●574●ミリアム・シルババーグ『中野重治とモダン・マルクス主義』
                       (林淑美他訳,平凡社:1998)

 私は本書を、ベンヤミンについて立ち入って叙述された箇所にとりわけ関心を寄
せながら読み進めていった。やや生硬な訳文ゆえ意味のとりにくいところもいくつ
かあったけれども、ベンヤミンの批評活動が展開された当時のヨーロッパの文化状
況を大正期日本のそれと重ね合わせながら、中野重治という今日ではマイナーな存
在となった文学者の思想的軌跡を追いその「救済」をめざす刺激的な書物だった。
(もっとも、中野重治がマイナーだというのは一般人の発想であって、本書が主な
読者層として想定しているその筋の人にとって、中野はけっこう重い存在なのだと
思う。)

 ところで本書については、石堂清倫氏が『月刊百科』(平凡社:1999.4)に収め
られた「僕は、グラムシを支持するようにこの本を支持します──『中野重治とモ
ダン・マルクス主義』を読む」という文章の中で非常にいいことを言っていると思
うので、少し長くなるけれど以下に抜き書きしておく。
 
《シルババークさんは、非常にいいことを言っていると思うんです。それはこうい
うことだと思うんです。マルクスは若いとき『聖家族』を書いていて、僕は学生の
とき訳したことがあるんですが、戦後もういっぺん訳し直して岩波文庫から出した。
その中でマルクスは、プルードンが言っていることをブルーノ・バウアーの一派が
批判するのに対して、プルードンを擁護するんです。「もしエドガール氏がフラン
ス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は
後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうと
ころを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであ
ろう……」。これをグラムシが何度も引用しているんです。それに似た論理を、シ
ルババークさんが採用していると思うんです。グラムシが獄中ノートで、そこのと
ころを引いて、プルードンがフランス語で言っていることと、カントやヘーゲルが
ドイツ語で言っていることは、同じ対象を意味しているんだ、プルードンの言葉は
観念哲学の言葉に、観念哲学の言葉はフランス語の社会主義運動に相互翻訳できる
んだ、ということを繰り返し言っているんです。カントは神様の首をはねた。同じ
ことを、ロベスピエールは、国王の首をはねることで実現している。非常におもし
ろい論文で、これをシルババークさんに送ろうと思うんです。あなたの言っている
ことは、グラムシはこういうふうに表現しています。僕はグラムシを支持するよう
にあなたを支持します、と。中野重治は、文学の言葉で言っているわけだけれども、
日本の国民の思想を変革の道に導き入れていくために、彼がもっとも妥当だと思う
言葉を選んで書こうとしたのが、中野の詩であり、小説であり、評論だと思うんで
す。そういうふうに僕はシルババークさんの言葉を受け取ります。》

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