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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.168 (2003/06/22)
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 □ 辻井重男『暗号』
 □ 小浜逸郎『無意識はどこにあるのか』
 □ 中島義道『孤独について』
 □ 川田順造『聲』
 □ 西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』
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怠け癖がついて、文章を書く根気が続かない。で、また、過去のものをいくつか。
 

●565●辻井重男『暗号』(講談社選書メチエ)

 著者によれば、古来、暗号は「秘匿」を目的としてきたが、現代の暗号はさらに
「認証」(署名、相手確認、情報が改竄されていないことの証明等)の機能をもつ。
そのために発想されたのが「公開鍵暗号」という奇想天外ともいえる概念で、これ
は人類が二千年以上にわたって使用してきた古典的・近代的な暗号システム(共通
鍵暗号)の概念を覆えす画期的なものであった。

《一人のユーザーが、公開鍵と秘密鍵の二種類を用意し、公開鍵はすべてのユーザ
ーに公開して、どのユーザーにも、その公開鍵で、自分宛の暗号文を作成してもら
うのである。届いた暗号文を平文に戻す(復号する)には自分だけが秘密保管する
暗号鍵を使う。》

 ここで、ある公開鍵で作成した暗号文はこれと対になる秘密鍵でのみ復号化でき、
またある秘密鍵で作成した暗号文はこれと対になる公開鍵でのみ復号化できるので
あって、これが公開鍵暗号の「秘匿」機能の仕組である。いま一つの「認証」機能
の方は、たとえば次のような手順で果たされる。

 AがBに署名付の親展メールを送信する方法。Aはまず自分の秘密鍵を使って平
文を暗号化し、さらにBの公開鍵を使って暗号化する。この二重に暗号化されたメ
ールを受け取ったBは、まず自分の秘密鍵を使って復号化し、さらにAの公開鍵を
使って復号化し、平文を復元=解読する。

 この暗号システムには、意識と無意識、表現と解読、自己と他者の錯綜した関係
を解明する(利用可能なものとする)文法のようなものが潜んでいる。ただし、こ
こでいう「文法」は、ある一組の公開鍵と秘密鍵を作製するアルゴリズムとはまっ
たく異なるものである。

 ──現代社会で生きていくうえで、それが実際面であれ観念世界であれ、暗号の
こと、とりわけ「公開鍵暗号」への深い洞察が欠かせない。私はそう思う。本書は
その有益な入門書である。

●566●小浜逸郎『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)

 小浜氏は本書で、フロイトによって叙述された「実体論的な無意識概念」の批判
的読み替えを通して、「ありのままのこの生の現在に寄り添う「無意識」を語る方
法」をめぐる「基礎的・原理的な」考察を加えている。

 小浜氏は、「無意識は同時性においてその主体の意識の対象とならないからこそ
無意識なのである」という。というのも、論理的にいって「無意識と呼ばれるもの
が実際にあらわれる場合、それは常に意識に寄り添うかたちで、ある意識に気づか
れるという仕方であらわれる」からであり、その意味で「無意識とは、どこまでも
意識的な事件であり、意識自身が自分を越えたものを意識させられるという現象で
ある」からだ。

《無意識は、「後の」または「他者の」意識によって無意識として「気づかれる」
ことで初めて意識のなかで存在を許される。それは現にそれが働いていたと見なさ
れる時点においては、主体にとってそれをそれとして措定することが原理的に不可
能なのである。》

 このような議論を経て小浜氏は、「無意識とは、現在の実存の断面における、意
識性を越えたすべての自己関係性のあり方に対する一般的な命名と考えるべきなの
である」とし、この自己関係性のあり方を条件づけるものとして、そして無意識を
構成する条件として、「他者性」「身体性」「時間性」の三つの概念を抽出してい
る。

《他者と身体と時間は、人間がそれとともに生きており、それを生きており、それ
によって生かされていながら、まさにそのためにそれについて究極的には意識の把
握をはみ出すような生存条件である。それらの存在にあまりに馴染んでいるがゆえ
に、それらの存在性格を自体的に意識化できないというこのあり方が、私たちの意
識の本質を、不安という様式で染め上げている。言いかえると、意識が不安そのも
のであるという事実は、私たちの生きられる無意識が、これらの三つの馴染み深い
生存条件をその欠くことのできない内包としている事実と呼応しているのである。》

 以下、本書第四章で。小浜氏は主として他者性と時間性の軸を中心に、「無意識
」が人間の具体的な生を支えているあり方について論じている。(記憶の問題をは
じめとする時間性としての無意識の問題は、いずれ書かれるべき後書に委ねられて
いる。)

 そこではいくつかの興味深い議論が展開されているのだが、そのうち、身体をめ
ぐる考察──外部世界との「遠距離的な関係」における知覚や運動にかかわる身体
の根源的な無意識性(メルロ=ポンティ)に対して、「身体が外界との接触面で快
楽や苦痛の受容器であったり、情念の座であったり、自覚されない臓器的活動を通
じてたえず存在の根底的な基盤である安定性や、意識の「浮遊性」や「超越性」を
かたち作っていたりする側面」に着目した身体論、とりわけ三木成夫の「臓器的」
身体論と浜田寿美男の発達論的身体論を踏まえた「臓器としての無意識」という考
え方──が刺激的であったことを記録しておこう。

●567●中島義道『孤独について』(文春新書)

 思いきって『孤独について』を読んで以来、すっかり中島氏の文章のファンにな
ってしまった。いま、思いきってと書いたのは、「生きるのが困難な人々へ」とい
うサブタイトルに抵抗があって、刊行された時から気になっていながら、すぐには
手が出せなかったからだ。

 このあたりの心の葛藤をもう少し詳しく書くならば、できあいの人生論や悩める
人向けの生き方のノウハウ本などを必要とするほど、私は弱い人間でも神経が参っ
ているわけでもなくて、社会や他人や自分にちゃんと適応して「明るく」生きてい
るのだけれど、ただちょっと思うところがあって「孤独」をめぐる高尚な哲学談義
に触れ人生の深みを味わいたいだけなのに、「生きるのが困難な人々へ」などと表
紙に書かれていては、その動機が誤解され痛くもない腹を探られる不本意な事態に
さらされ困惑する、といったところだろうか。

 ついでに書いておくと、以前『ソフィーの世界』が評判になっていた頃、中島氏
の『哲学の教科書』が書店に平積みにされていたときも、また、その続編ともいえ
る『哲学の道場』が刊行されたときも、傍目で気にしながら、あまりに生々しいも
の(密かに遂行されるべきもの)が露骨に表現されているように思えて、なぜか手
に取るのがためらわれたことを思い出す。(それにしても私は、なにゆえに身構え、
いったい誰に対して体裁を繕っていたのだろう。)

 さて、はじめて接した中島氏の文章は、その臆面と仮借と「品」のなさ、そして
(まるで太宰治と坂口安吾が束になって書いたかと思わせる)尋常ならざる表現力
で、私を圧倒した。ふつう「真っ当な」神経の持ち主ならば、自らのぶざまな生涯
の悲惨と恥辱と「栄光」をあからさまにぬけぬけと細部にたちいって書き連ねたあ
げく、書けば書くほど憂鬱になり多くの人を傷つけざるをえないことを熟知してい
るとまで述べたあとで、次のような大見えを切った文章は書けないだろう。

《にもかかわらず、なぜ書くのだろうか? 自分を救うため? それのみではない。
たぶん、生きるのが困難な多くの人々に──綺麗ごとではなく──私の「血の言葉
」でメッセージを送りたいからなのだ。》

 私は、中島氏の「血の言葉」にすっかり魅了されてしまった。そこには「哲学病
」におかされ、逃げ出すことも治癒すること(哲学することをやめること、あるい
は哲学の問題に対する最終解答を見いだすこと)もかなわぬと自覚した人間が、《
「たったひとりで私はこの広大な宇宙の中に生まれてきて、たったひとりで私はこ
の広大な宇宙の中で死ぬのだ」ということを骨の髄まで自覚しながら死にたい》と
いう思い一点にすべてを凝集させるに至った「潔さ」が、名状し難い迫力で表現さ
れていたのだ。

 そして、もしかして「私哲学」や「自伝哲学」といったジャンルがありうるとす
れば、つまり、日常生活や他者との関係や社会的実践といった事柄の総体である「
私の人生」そのものから切り離すことのできない哲学の文章がありうるとすれば、
それはたぶんこういったかたちのものになっていくのではないか、と思いついた。

 考えてみれば、そもそも(病気にもたとえられる、というより病気そのものであ
る)哲学の営みは、「私」の感覚や生きる態度と切り離すことはできないものだろ
う。そして、文章を書くということが公共的な表現の営みであるかぎり、哲学の文
章は、「私の人生」(「私の孤独」というべきか)そのもののうちに問題と素材を
見いだしこれを公共的な哲学的対話の場へと繰り出していくこと、すなわち「私哲
学」にかぎりなく近づいていくものだといっていいと思う。実際、中島氏も次のよ
うに書いている。

《非常に簡略化して言いますと、哲学とはあくまでも自分固有の人生に対する実感
に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語に
よるコミュニケーションを求め続ける営み、と言えましょう。》(『哲学の教科書』)

●568●川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)

 詩誌『現代詩手帖』に連載、単行本は「歴程賞」を受賞。本書に収められた兵藤
裕己氏の「解説」によると、レヴィ=ストロースは「多様にとられた視座や構図と
いい、また文学的な美しさに富んだくだりと、学術的考察の交錯といい、驚くべき
豊穰さをそなえた名著です。……『聲』は必ずや古典になるでしょう」と、川田氏
あての私信で絶賛しているとのこと。

 この、読者の頭と心と身体を沸き立たせ、区画され矮小化された記憶と意識と生
命を解き放ち、霊的ともいうべき自在かつ奔放に躍動する(広大で深遠でそれでい
て軽やかな)世界へと誘う書物について、私には評言めいた言葉を繰り出すことな
どできない。ただ圧倒され、ただ感嘆し、ただ陶酔するのみ。ここから切り出され
るべき「概念」は無尽蔵といってもいいだろう。

●569●西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店)

 平凡社から出ている叢書「ヒストリー・オブ・アイディアズ」第12巻に『神の観
念史』があって、その冒頭に「神について考える人間の能力は、自分の考えを書く
という仕方で記録する能力よりも以前からあるという点は重要である」(S.G.F.
ブラントン「神の観念──先史から中世まで」)と述べられている。

 また、本書『聖なるヴァーチャル・リアリティ』の「はじめに」で、著者は「最
も根源的な問い」として、「ヴァーチャル技術が跳梁発展する二一世紀において、
聖性はいかにして、どこに宿るのか?」と書いていた。

 神の観念が文字というヴァーチャルなメディアに宿るもの(聖性)に先んじてい
るのだとすれば、つまり数万年このかたその構造に変化のない人類のニューロン・
ネットワークのうちにあらかじめ神の観念が宿っていたのだとしたら、神について
人はどのような言語でもって語ることができるのか。あるいは、預言者たちのうち
に、とりわけイエスのうちに宿った「神の言葉」を人はどのようにして伝達するこ
とができるのだろうか。

 このような問いにとりつかれた私にとって、この濃い憂愁の漂う本書は尽きない
ヒントに満ちていた。たとえば次の文章。これは決して過剰な予見ではない。

《要するに、もともとヒトのうちにあった権力欲や攻撃性が、コンピュータによっ
て増幅されていくのが問題なのである。コンピュータは本質的に、ヒトの権力への
希求、つまり環境世界を秩序化し、支配したいという欲望を外部化した装置である。
それは抽象化・形式化・非身体化というヴェクトルばかりでなく、人々のミクロな
権力欲を身体的にみたす、というヴェクトルを含んでいる。ヴァーチャル・リアリ
ティはまさにそのための装置となりうるのだ。/二一世紀サイバースペースの実相
を予見するとき、〈市民〉とよばれる人々のひそかな怨念[ルサンチマン]にもと
づく権力欲を引き受ける奇怪な教団の姿がほの見えてくる。そして、その〈聖性〉
を利用して安定した利潤をあげ、教団を経済的に支える〈資本〉の脂ぎった相貌も
また浮かんでくる。両者のグロテスクな共存関係こそ、われわれがもっとも警戒し
なくてはならぬものではないか。》

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