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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.167 (2003/06/08)
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 □ 斎藤慶典『デカルト』
 □ 永井均『倫理とは何か』
 □ 茂木健一郎・田谷文彦『脳とコンピュータはどう違うか』
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●562●斎藤慶典『デカルト 「われ思う」のは誰か』
           (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.5.25)

 序章でいきなり、本書はデカルトと私(齋藤)が交わした対話の記録だ、対話と
は「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、「死んだもの」が再
び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるの
だ、と書いてある。これはデカルトが書き残した書物を読むこと、いや書かれたも
のを読むこと一般の比喩のように見えるが、そうではない。実はそれこそが、方法
的懐疑の極点に立ったデカルトがほんとうに考えていたことを証しする言葉なので
ある。斎藤氏がデカルトの内に見てとった「たった一つ」の主題とは、そこにおい
て「私」と「神」という二つの主題が一つに収斂していく次元にかかわるものであ
った。

 まず、「絶対に疑いえないもの」としてデカルトが見いだした「私」について(
第一章)。斎藤氏によると、デカルトの「思考する私」とは、それを通して、そこ
において、ものが見える「媒体」として機能するもの、すなわち「「見えること」
そのことであるような何か、それ自身が「思考すること」そのことであるような事
態」を言うものであった。しかし、方法的懐疑の極限においては、そのような「思
考=私」そのものもまた欺かれている可能性がある。だがそれがどういう事態なの
かは、もはや「私=思考」には理解できない。そうした思考不可能なものに直面し
た「私」、つまり思考の限界に立ち尽くす「思考」が紡ぐ言葉は祈りの言葉に似て
いる、と斎藤氏は言う。

 次に、「思われたもの」(観念)の起源、つまり「思うこと」の外部の可能性を
めぐるデカルトの思考について(第二章)。斎藤氏はそこで、デカルトが与えた三
つの神の存在証明のうち、神の無限性に基づくもの──「「私」という「思うこと
=思考すること」の有限性の内に「無限」なる神の観念が与えられているとすれば、
そのような無限は有限な「私」のどこを探しても見当たらない以上、「私」の外に
その「起源」を有することは明らかだ」「すなわち、「無限」なるもの(つまり「
神」)が「私」の外に存在する」──に着目して、次のように書いている。

《ここでデカルトは、観念から外部を推論しているのではない。そうではなく、「
思うこと」が一個の全体として存立していることを見て取ることそのことが、「無
限」が痕跡としてその「思うこと」に「触れて」いることなのだ。「思うこと」の
端的な存立(これが第一章で明らかにした「われ思う」の「われ」すなわち「私」
の内実だった)と、そこに「無限」が「触れて」いることとは、コインの両面のよ
うに切り離しえないのであり、両者は同じひとつのことなのである。》

 こうして「私」と「神」は一つの主題となった。斎藤氏によれば、それは「よき
生」をめざす徹底したエゴイスト(私)のみが世界の外部という絶対的な他者(神
)に直面する次元を開いていくことと重なっている。そこにおいて「思うこと」は、
死んだもの=ありえないもの=存在ですらないものへ向けて祈りの言葉を差し出す
こと(死者との対話)、つまり「愛すること」と同義であると斎藤氏は結論づける
のだが、この「エゴイストの愛」をめぐるデカルト=齋藤の思考が十全に展開され
ることはない。

 ──本書では示唆されるにとどまった「たった一つの主題」について、たとえば
永井均著『倫理とは何か』で展開される猫のアインジヒトの「エゴイストの愛」を
めぐる議論と接続させてみると面白い。永井氏はそこで、デカルトに由来する「私
」の二つの存在様態(独我論者とエゴイスト)に即した「語り方」の構造上の同型
性(独我論やエゴイズムが真理であるとしても、だれもが独我論者やエゴイストで
あるべきだと主張することはできない)は世界の存在構造に基づくものであるとし
た上で、語りえぬこと(思考の限界)については黙ってやるしかないとアインジヒ
トに言わせている(ここには「神」も「祈り」も出てこない)。

 蛇足を加えると、檜垣立哉氏は『ドゥルーズ』で、「生命系」のドゥルーズと「
情報系」のデリダを「ヨーロッパ的な思考の二つの究極的なモデル」と評している。
論証抜きで覚書だけ残しておくと、デカルトの「私」は「生命系」に、「神」は「
情報系」につながっているように思う。これに養老孟司「人間科学」の基本テーゼ
(生命=変化、情報=同一)を組み合わせたり、郡司ペギオ‐幸夫「生命理論」の
存在論=方法論(たとえば「個物・個物的作動領域・潜在する世界」の三項関係)
を導入するのも興味深いと思うが、これはまた別の機会に。

●563●永井均『倫理とは何か──猫のアインジヒトの挑戦』
                (哲学教科書シリーズ,産業図書:2003.1.31)

 『〈子ども〉のための哲学』は、第一の問いが「ぼくはなぜ存在するのか」で、
第二の問いが「なぜ悪いことをしてはいけないのか」だった。第一の問いについて
は、『翔太と猫のインサイトの夏休み』で、猫のインサイトが縦横に論じていた。
第二の問いに答えるために、永井均さんは新しい「哲学猫」(49頁)、アインジヒ
トをうみだした。(第二の問いをめぐっては、すでに小泉義之さんとの共著『なぜ
人を殺してはいけないのか?』がある。そこで永井さんは、アインジヒトを彷彿と
させる議論を展開していた。)

 いま「問いに答えるために」と書いたけれど、アインジヒトが本書で示す最終的
な回答──《悪事は黙ってただせざるをえない──これが「なぜ悪いことをしては
いけないか?」という問いに対する本当の答えだ。つまり「答えとして語るべき言
葉が原理的にありえない」という答えだ。原理的になくなったとき悪になるんだよ。
「悪 vs 善」の論争がない理由も同じだ。悪を悪の方向で正当化する言説などある
わけがないんだ。なぜなら、言葉とは、本質的に、他者──つまり他人か異時点の
自分──と語り合うためのものなのだから。そして、それが道徳的善の意味なのだ
から。》(231頁)──は、ただそれだけを黙って拝聴しても、答えを得たことに
はならない。

 かといって、アインジヒトが、M先生(実はアインジヒトの、そして永井均の分
身)の講義を聴講する新入生の裕樹君や千絵さんを相手に繰り出す語録──たとえ
ば、われわれはすでに「社会契約」後の存在で、だから「契約前と契約後を対等に
見通すような観点に立つことはできないのかもしれない」(77頁)とか、「本当の
利己主義者が他人にも本物の利己主義になって欲しいと思って、そう呼びかけたく
なるのは、その人のためを思うからなんだよ」(エゴイストの愛,152頁)とか、
「俺であるという性質が普遍化可能であるということこそが倫理の基本だと思うね
」(192頁)とか、「道徳が、徹頭徹尾、権力現象であることを忘れてはいけない」
(196頁)とか、「つまり俺は、社会とその中での個人といった観念に基礎をおい
て発想すること自体を拒否するのさ」(203頁)──に、いちいち唸ったり、蒙を
啓かれたりしても、本書をよく読んだことにはならない。

 永井さんは「はじめに」でこう書いている。「この本が対象としている読者は、
いかに生きるべきかという問いを考えているが、それを道徳的な問いに解消したく
ないと思っている人である。」「私は、私の人生において直接感じた問いしか問う
ことができない。まさにそれこそが私の理解するところの哲学ということの意味な
のである。」──だから、この本をよく読むということは、「いかに生きるべきか
」という問い(『〈子ども〉のための哲学』での分類によると、それは「青年の哲
学の根本課題」だった)を生きることそのものだし、その答えを得るということは、
よく生きることそのものなのだ。

 ──ところで、本書のなかでただ一度、千絵さんが関西弁になる(198頁)のは
どうしてだろう。

●564●茂木健一郎・田谷文彦『脳とコンピュータはどう違うか
  究極のコンピュータは意識をもつか』(ブルーバックス,講談社:2003.5.20)

 コンピュータ・サイエンスの歴史と基本的なアイデア、意識の謎をめぐる脳科学
の基礎知識と現在の混迷がコンパクトにまとめられた入門書。それ自体独立した内
容を持つミニ・エッセイを随所に挿入するなどの工夫が施されているし、文章も手
抜きがない。決して水準を落とさず、しかも軽い読み物としてまとめあげるにはか
なりの力量が必要だったろう。

 でも、読み終えて不満が残るのは、身体性や環境との相互作用の問題などはスペ
ースの関係で議論できなかったと「あとがき」に書くくらいだったら、最初からそ
ういうテーマも組み入れた編集方針を建てればいいじゃないかと、といったことや、
そもそも意識の問題を科学的に扱うための知識の蓄積や方法論の開発が致命的に遅
れている(もしかしたら原理的に不可能なのかもしれないけれど)こと以上に、意
識の問題を問題として取り上げる視点、というか自然観に対する徹底的な反省が欠
けていることにあるのではないかと思う。

 私が見るところ、それは第一に「物質」とはそもそも何か、第二に「主観的視点
」と「客観的視点」という分岐は自然においていかなる事態なのか、最後に「ある
ものがあるものであること」(同一性・安定性)と「新しいものが生み出されるこ
と」(生成・変動性)とはどのような関係にあるのか、また主観・客観との関係い
かん、という三つの問題にかかわることで、実はこれらの問題については本書でち
ゃんと触れられている。

 しかし私が問題にしたいのはむしろそのこと(それは茂木氏だろうと思うが、著
者がこれらの問題の所在に気づいていること)で、たとえば、科学者が知識として
持っているのは「実はこれらの物質の振る舞いを説明するために私たちの脳が作り
出した概念だけであって、記述の対象となっている物質自体がいったいナニモノで
あるか、私たちには想像することもできないのである」(76-77頁)とか、「ニュ
ーロン活動は脳の外の観察者の視点からは「安定」しているが、脳内のニューロン
の関係性から見れば「変動」していることになるのかもしれない」(182頁)とか、
それ自体はきわめて正しく鋭い指摘なのだが、たぶん哲学者か誰かの問題感覚が、
その問題が語られる文脈抜きでそのまま密輸入されていて、だから著者がおそらく
自覚せずに抱いている自然観、というか問題を問題として設定する枠組みのような
ものは、まったく無傷なままなのだ。

 どこがどうだからそういう評価になるのだ、と問われても、これこれしかじかだ
からこうだと明示して言えない。全体の印象といったきわめて無責任な物言いでし
かない。だけど、このあたりのことで苦しみ抜いた跡は文章を読むかぎりうかがえ
ないし、だから啓蒙書・入門書にふさわしく、蒙が啓かれ、それまで考えてみるこ
とさえできなかった問題圏に入門したという実感がない。

 ──感覚的クオリアは知覚に(したがって「物」と「物自体」に)、志向的クオ
リアは想起に(したがって「過去」と「過去自体」に)関連づけることができると
すれば、そして、中島義道氏が言うように、知覚ではなく想起こそが「心身問題」
のモデルであって、それを知覚の場面で論じるから誰も答えられないことになる─
─「心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける
現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こ
す張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を
求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです」(『時間を哲
学する』)──のだとすれば、先の三つの問題は一挙に異なった文脈に移行する。

 たとえばこのような議論との接続を試みることで、ブレイクスルーへの手掛かり
が得られるのではないかと思うのだが、これもまた別の機会に。

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