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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.166 (2003/05/31)
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 □ 池田晶子『14歳からの哲学』
 □ 小泉義之『レヴィナス』
 □ 小泉義之『生殖の哲学』
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●559●池田晶子『14歳からの哲学──考えるための教科書』
                       (トランスビュー:2003.3.20)

 永井均さんは『倫理とは何か』で、猫のアインジヒトに「もし十五歳から二十九
歳までを若い人と呼んで、三十歳から六十五歳までを大人と呼ぶなら、哲学ができ
るのは、それ以前かそれ以後の、しかしそれに近いほんの一瞬だけなんだ」と語ら
せている。小泉義之さんは『レヴィナス』で、「他者のために内臓を曝け出し肉体
を捧げること」という過剰な倫理を語ったレヴィナスが、それにもかかわらず長生
きした(享年八十九歳)ことに読者は躓くと書いた。そして、池田晶子さんが本書
で「存在の謎」についてともに考える読書として想定したのが十四歳。

 この年齢というのは、社会経験の総量にではなく(それもある、だから池田さん
は本書の第三部を「17歳からの哲学」とした)、身体ないし肉体の存在様式に着
目したものだろう。それは、たとえば保坂和志さんが『言葉の外へ』で、「哲学と
は、「世界を実感したい」という熱意の産物だったのではないだろうか」と書いた
時の身体の感度や体熱、あるいは小泉義之さんが、何のために生きるのかという問
いに関して、「おそらく、私たちは、問いに対する答えそのものを身をもって体現
化し肉体化して生きている。いわば、答えは、身体ないし肉体に書き込まれている
」(『レヴィナス』)と書いていることとつながっているはずだ。

 考えるということ、言葉について、自分とは誰か、死をどう考えるかといった「
原理」的な事柄から、社会と規則、理想と現実、友情と恋愛と性愛といった「現実
」にかかわる事柄へ、そして宇宙や歴史、善悪や自由、人生の意味、存在の神秘と
いった「真理」にかかわる事柄まで、池田さんの語り口は終始一貫、独断的である。
徹頭徹尾、観念論者(「人は、思うことで、何もかも思った通りにすることができ
る」)として、精神=言語至上主義者(「精神は、考えて、自由になるためにこそ
存在しているんだ」)として振る舞っている。

 「人は、個に達するほど天に通じることになる。この宇宙は、なぜかそういうつ
くりになっている」とか、「人生を生きる価値は、やっぱり明らかに存在している
んだ。/どういうわけだか、この宇宙はそういうつくりになっている」とか、どう
してそんなことが言えるんだ、と巧みに「若い人」の反撥を誘いながら、しかし、
世の「大人」が口にすることのない真実(「存在するということは、存在が存在す
るということは、これ自体が驚くべき奇蹟なんだ。存在するということには意味も
理由もない、だからこそ、それは奇蹟なんだ」)を語っている。

 ──私事だが、満七十歳で死んだ父親が、糖尿と肝臓病で苦しんだ晩年、しきり
と「生まれて死ぬ、なら生まれて来なければいい」と怪訝そうに口にしていた。ど
う応じればいいのか判らず(今から思うと、どう応じるべきかなどと悩む必要はな
かった)、聞き流してしまった。池田晶子さんには、ぜひ『六十六歳からの哲学』
を書いてほしい。
 

●560●小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』
           (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.3.25)

 レヴィナスは人間を神の家畜と考えていた。この凄まじい人間認識を真正面から
受け止めるため、『全体性と無限』を〈繁殖〉で終わるべき書物として読み抜くこ
とを目指したのが本書だ。著者はあとがきにそう書いている。

 レヴィナスは、さまざまな道徳的経験の下に「人間の根源的な事実」が横たわっ
ていることを指摘した。それは「私が他人を食べ物としないという事実、あるいは、
私が食べ物としないものが他人であるという事実」である。倫理にはこの事実以上
の根拠や基礎付けは不要である。レヴィナスの倫理の核心は、「自分のために生き
ることが、肉体の次元においては、また、労働の次元においては、他者のために生
きることにもなってしまっている」ところから一切の事柄を考え直すことにある。
「肉体の次元」とは、私が身体的主体(認識主観・行為主観)として能動的活動を
行うことではなく、他者のための食べ物になりうる肉体を私が養い維持することだ。
そして「労働」とは、肉体の代わりに贈与できるものを生産する営みのことである。

 他者のため、人類のために生きる。とはいえ、私は死ぬ。私やあなたは無に帰す
る。しかし、人間は無に帰さない。ここで働いているのが生殖である。馬が馬を生
むように、人間を生むのは人間であって神ではない。人間が死ぬのは、人間が新た
に人生を始めるものを生むからである。肉体の愛において、愛はその肉体を食べよ
うとするわけではない。愛撫を通じて、愛する者は未だ存在しない「崇高な食べ物
」を、未だ存在しない肉体を求めている。愛撫される肉体には、やがて消滅するも
のの死の影だけではなく、未だ存在しないものも宿っているのだ。「死にゆくはず
の肉体に触れながら、他者のために生きるとはいかなることかが問われている」。

 ──従来の哲学と倫理学は、人間が人間を生むということについて、重く深く考
えることをしてこなかった。「繁殖性を存在論的カテゴリーに昇格させなければな
らない」。小泉氏はレヴィナスのこの問題提起を真っ正面から受け止めようとする。
「繁殖性を受肉の意味として受け止めながら生きて死んでゆく」次元において、何
のために生きるのかという問いに対する答えが「来るべき他者のために生きて死ぬ
」であるとして、では「来るべき他者」とは何か。レヴィナスの思索の限界が、そ
の祖述に徹した本書の限界だ。

●561●小泉義之『生殖の哲学』
             (シリーズ・道徳の系譜,河出書房新社:2003.5.30)

 本書の第三章(「未来と生殖をめぐって」)に「昔、埴谷雄高と廣松渉は、革命
家たらんとするものは、子どもを生んではいけないと語っていた」というくだりが
出てくる。小泉氏は続けて「革命は未来に関わるのに、そのときに人間が生きてい
るべきかどうかについては何も考えていなかった。若きマルクスの理念であった「
種の解放」について何の展望ももっていなかったわけです」と、生殖に関して反動
的であった「革命家」を揶揄している。そういえば埴谷雄高に「単性生殖」という
短い文章があった。革命家たる男子は子どもを生んではいけないが、女子には処女
生殖という未来を展望する途が残されているというわけか。(「単性生殖」にそう
いう趣旨のことが書かれているわけではありません。)

 単性生殖(処女生殖)に関連して、第一章(「未来からの視線─生命・自然」)
では、原罪の罰である死から逆算して問い返すなら、「セクシャリティとは区別さ
れる有性生殖という生殖方式そのものが原罪に相当することになる。こう解するこ
とで、古代からのキリスト教神学は、一挙に現代的な意義を帯びます」と述べられ
ている。これを読んで想起したのが、グノーシスの色濃い異端の書『トマス福音書
』の次の一節。「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内
のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にし
て、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一
つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の
代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのと
きにあなたがたは、[御国に]入るであろう」(荒井献訳)。

 彌永信美氏は、『「私」の考古学』に収められた「魂と自己―ギリシア思想およ
びグノーシス主義において」で、この『トマス福音書』の記述やグノーシス主義の
シュジュギアー(合一)体験から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)に
よる単性生殖へと議論を進めていた。小泉氏がいう「古代からのキリスト教神学」
はグノーシスを含めて考えなければならないのであって、そうだとするとその「現
代的な意義」とは、クローン技術を身につけた現代のデミウルゴス(創造主)をめ
ぐる神学的思考に対するものにほかならない。

 小泉氏は第二章(「生殖技術を万人のものに─「交雑個体」を歓待する」)で、
クローン技術によって「生殖に男性は不必要になるのである。これは途方もないこ
とである」と書き、「人間なる生物は、肉の歓びを介するのでなければ、生殖に到
らないようなそのような生物として自らを形成してきたのである。クローン技術は、
こうした人間の前史を終焉させる。いずれ人間は、クローン技術の力能を体験し思
考することを通して、現在の肉の歓びを純粋な友愛に転化し、現在の生殖を純粋な
子どもへの愛に転化させることであろう」と未来を予言している。

 これはほとんどミシェル・ウエルベックの『素粒子』の世界である。一神教の誕
生という第一次形而上学革命、自然科学がもたらした第二次形而上学革命、そして
クローン技術がひらく第三次形而上学革命。そこでは「人間のアイデンティティを
作り上げる重大要素である男女の差異」が失われる。しかし「生殖方法としてのセ
クシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しない」。それどころか、「ちょ
うど、胚形成の歳クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特
定されたところだった。人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭の
表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく
行き渡らせることがいくらでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエコノミ
ーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚が
もたらされるに違いない」(野崎歓訳)。

 ──生命と自然について、ラディカルに思考すること。やるからには価値を転倒
し、価値を創造するまで徹底的にやること。こうして、未来の生殖をめぐる小泉氏
の思考は人間の外部へ、「来るべき他者」(『レヴィナス』)へ、すなわち「現行
の人間とは異なる品種・人種、「交雑個体」、別の生命体」へと向けられていく。

 附録。埴谷雄高全集第四巻『永久革命者の悲哀』(講談社1998.9.20)所収の「単
性生殖」。

 処女マリアという考え方が千年以上も続いてきたヨーロッパには、処女生殖につ
いての関心が、想像以上に深いらしい。それは関心というより、奇跡を渇望する永
遠の心といった方が好いかも知れない。
 ところで、先頃、イギリスで処女生殖騒動とでもいうべきものがあつて、私は海
を隔てた遠くから興味をもつた。
 単性生殖は下等動物には多く見られるが、脊椎動物では魚ぐらいになり、哺乳動
物では殆んど絶無だいわれる。私達は鶏が所謂無精卵を生むのを知つているが、こ
れは孵化しない。ところで、騒動は、一医学誌につぎのような記事が揚げられたこ
とにはじまる。もし人類にそれが起つたとしてもそれは甚だ稀である。それは六つ
児の誕生と同程度に稀であり、僅か三十二億千二百八十万回に一度起るだけである。
……これが、騒動の発端になつた。
 人類に於ける処女生殖の子供は、無論、女の子である。その子は、(父親がない
のだから、)ただ母親からの遺伝子のみをうけて、恐らく、母親にそつくり生き写
しであろう。そして、或る雑誌がさらに読者に向つて、こういう申し出をした。こ
の国に男性との接触なしに赤ん坊を生んだ女性が或いは十人位かそれ以上いるかも
しれない。自身の生んだ娘が処女生殖と信ずる女性は申し出られたい。彼女は権威
ある医者の検査にゆだねられ、インチキは許されない。検査は厳重である。もし事
態が正しいと認められたら、彼女とその娘は医学の歴史を飾るだろう。ところで、
私が遙か離れた極東の島から、息をのんで、成行きを眺めていると、私を失望させ
ないためかのように驚くべし、三人の女性の申し出があつた。彼女たちは著名な医
者の検査にゆだねられたとまでは報道されたが、その検査の結果は勿論、なんら報
告されていない。
 私がたいへん好きな文章に、キェルケゴールのこういう文章がある。
 「人も知るごとく、イギリスの某処に一つの墓がある。それは別段見事な記念碑
があるとか、乃至は、周囲の配置が物悲しいとかいうので珍しいわけではなく、た
だ『最大不幸者』と小さく刻まれているその墓銘が風変りなのである。此の墓を発
ばいてみたところが、内には死骸の影も形も止めなかつたということである。死骸
のなかつたことを不思議とすべきであろうか、それとも墓を発ばいたことが、より
多くふしぎであろうか。」
 われわれは、処女生殖の娘を生んだと信じて三人もの女性が申し出てきたことを、
不思議とすべきであろうか、それとも、人間に於ける処女生殖など信じてもいない
くせに、三十億万が一、あり得るかも知れないと頭蓋の何処かの隅でわずかに思つ
て数人の医者が真面目な顔付きで検査している光景がより不思議であろうか。
                     ─―「近代文学」昭和三一年六月号

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