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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.164 (2003/05/18)
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 □ ハンナ・アレント『人間の条件』
 □ ハンナ・アレント『過去と未来の間』
 □ 佐伯啓思『「市民」とは誰か』
 □ 宮本憲一『公共政策のすすめ』
 □ バーナード『経営者の役割』
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今回は、保坂和志さんや小泉義之さん、池田晶子さんや永井均さんの「新作」を取
り上げるつもりでしたが、思わぬ用事ができて、手つかず。で、急場しのぎに、過
去の文章を掲載することにします。
 

●550●ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫:1994.10)

 アレントの思想の根幹をなすのは、全体主義と大衆社会への徹底的な批判、そし
て人間の自由に立脚し、複数の人間の意識的な相互活動から織りなされる「公的な
もの」による新しい社会の「始まり」の構想である。『人間の条件』は、そのよう
な思想を体系的かつ詳細に叙述した主著の一つである。

 アレントはまず、人間の基本的活動力として、労働(labor)・仕事(work)・
活動(action)の三つを掲げる。それぞれ、生存のために必要な消費財の生産(労
働)、有用性と耐久性をもつもの、つまり消費に抗する道具や器具、美的永続性を
もつ芸術作品などの人工物の製作(仕事)、談話すなわち言語によるコミュニケー
ションや英雄的個人の偉業(活動)を典型とするものである。

 これらのうち、アレントが重視しているのが第三の類型、すなわち言論と実践を
通じて「私とはだれか」(アイデンティティ)を他者の前に明らかにしつつ、多数
性の条件に羈束された人間社会への参入を果たし、人と人との関係の中から新しい
価値や意味を生み出していく、人間の自由に立脚した「活動」である。その典型あ
るいは理想型は、いうまでもなく古代ギリシャのポリスにおける政治生活であった。

 古代ギリシャ世界から抽出された「ポリス(都市空間)=公的領域」と「オイコ
ス(家空間)=私的領域」との区別は、中世ヨーロッパにおける「教会=天上的世
界」と「世俗=地上的世界」へと推移する。そして、近代になって「社会的なもの
」という第三の領域が現われ、公的領域と私的領域との原理的な区別を解消してし
まう。

 産業と商業の勃興による「社会」の出現は、西洋近代における「労働する動物の
勝利」がもたらした現象であり、その実質は国民全体にまで拡大された「オイコス
」にほかならない。すなわち、社会という新しい領域の出現によって、古典的二分
法によれば私的領域に属する「経済」(個体の維持にかかわる機能)が公的領域を
制覇し、その結果、政治は「公共生」を喪失し、「労働」の論理(生命の必要の論
理)に立脚した「家政」へと変質していった。

 こうして、公的領域と私的領域は「社会的なもの」によって制覇され、近代的な
意味での公私の観念が生み出されていく。やがてもたらされることとなったのが、
「必要」を超える無制約の「欲望」に支配された社会である。それは、「活動」が
成り立つための前提条件(人間社会の「多数性」、いいかえれば個人間の差異とし
ての個性)を圧殺する画一主義的な大衆消費社会であり、「ついには世界の物が、
すべて消費と消費による消滅の脅威に曝されるであろうという重大な危機」が支配
する社会であった。

 以上が、現代社会へのアレントの診断である。それでは、このような状況下にあ
って、いかにして「公共性」を恢復することができるのか。いいかえれば、いかに
して「活動」を再構築すべきか。この点に関してアレントが示唆する処方箋は、言
語を媒介とする人々の相互作用を可能ならしめる場の復活、すなわち古代ギリシャ
のポリスにも比肩しうる「公的空間」の創出である。

《正確にいえば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家で
はない。むしろ、それは、共に行動し、共に語ることから生まれる人々の組織であ
る。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るというこの目的のた
めに共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこ
にいるかということとは無関係である。「汝らのゆくところ汝らがポリスなり」と
いう有名な言葉は単にギリシアの植民の合言葉になっただけではない。活動と言論
は、それに参加する人びとの間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいか
なる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。右の言葉
はこのような確信を表明しているのである。》

●551●ハンナ・アレント『過去と未来の間』
                (引田隆也・斎藤純一訳,みすず書房:1994.9)

 ハンナ・アレントの文章には“こく”がある。といっても、私は邦訳和文でしか
知らないのだが、それにしても濃厚だ。一文一文に長い思索の痕が重層的に折り畳
まれていて、透かし読みや流し読みを許さない。それでいて文章としての論理と結
構が緻密に設えられていて、時間をかけてそのリズムに馴染んでくると、そこから
途方もなく強靱で雄大でそれでいながら繊細かつのびやかな思索の息づかいが洩れ
てくる。一度この経験を味わうと、ちょっと離れられなくなる。

 私の場合、アレントの思想や学的営為の内容よりも、まず叙述と思索の生理のよ
うなものに惹かれてしまう。たとえば本書の、ローマ的精神がもつ強靭さと持続性
について述べたくだりに次の文章が出てくる。私には、そこでいわれる「創設の原
理」をアレント自身の文章と思索にあてはめることができるのではないかと思える。
少なくとも「ローマ的精神がもつ並外れた強靭さと持続性」に匹敵するものを持た
ない者には、本書のような書物は書けないだろう。

《共和制の開始から実質的には帝制の終わりにいたるまでローマの政治の中心には、
ひとたび何かが創設されるとそれは以後すべての世代を拘束するという意味で、創
設の神聖さに対する確信が揺らぐことなく貫かれていた。政治に携わるということ
は、何よりもまず、ローマの都を保ち続けることを意味した。それゆえ、ローマ人
は植民地に移り住むにあたって、ギリシア人のように自らの母市たるポリスをあら
ためてその地に創設できなかった。ローマ人が為しえたのは、起源の創設に付け加
えることであり、こうしてイタリア全体、挙句の果ては西洋世界全体が、さながら
全世界がローマの後背地以外の何物でもないかのように、ローマを中心として統一
され治められた。》

《このローマ的精神がもつ並外れた強靭さと持続性──あるいは政治体の創造にあ
たって創設の原理に寄せられたただならぬ信頼──は、ローマ帝国が衰退し、ロー
マの政治的・精神的遺産がキリスト教会に引き渡されたとき決定的な試練にさらさ
れ、そして、その強靭さと持続性を身をもって示した。ローマの遺産の継承という
およそ現実的で世俗的な課題に直面することによって、教会はきわめて「ローマ的
」となり、政治的事柄に関してすっかりローマ的思考に染まってしまったため、キ
リストの死と復活は一つの新しい創設の礎とされ、その上に途方もない耐久性をも
つ新たな人間の制度が樹立されることになった。》

●552●佐伯啓思『「市民」とは誰か』(PHP新書:1997)

 著者は本書で、ヨーロッパの市民概念の重層性について論じ、その起源をなす古
代ギリシャの都市国家におけるそれを「シヴィック」と、近代国民国家におけるそ
れを「シヴィル」とそれぞれ名づけている。ここでいう「シビック」とは、ポリス
における公的関心や共同利益という次元から出でくるもので、日本語の「公民」に
近いのに対して、私的権利や私的関心などから出発した近代的な「シヴィル」は、
むしろ「私民」とでもいうべきものを指している。

《われわれ戦後の日本人は、もっぱら、近代的な「市民=シヴィル」を進んだもの
として受け入れようとしてきた。「市民社会=シヴィル・ソサイエティ」は、われ
われが西欧から学んだ理想のモデルであった。しかし、実際には、ヨーロッパにお
いては、近代的な「市民=シヴィル」の背後に、確実に古代的な「市民=シヴィッ
ク」がある。……ヨーロッパ人は誰も自分を「市民」だなどということは意識しな
いであろう。しかし、それにもかかわらず、「市民意識」というものをわれわれは
ヨーロッパ人に確実に感じることがある。これは「市民=シヴィック」の精神がい
ちいち論じる必要もないぐらいに、身体になじんでいるからであろう。ここにヨー
ロッパの歴史の、あるいは精神の習慣の力を感じ取ることは容易である。》

 近代ヨーロッパにおける「市民=私民」(そこには、自由な市場システムのもと、
ひたすら私利私欲を追求する合理的・打算的な経済人の一面が潜んでいる)の背後
にはりついた古代的な「市民=公民」の精神。これを一言でいえば、個を超える公
共的な事柄への関心に根ざしたもの、つまり具体的な経験を通じて歴史的に形成さ
れた「公共性」の精神にほかならないだろう。

 しかし、このような精神の習慣としての市民意識、すなわち「市民精神」は西欧
固有のものではない。佐伯氏は、晩年の福沢諭吉が「痩我慢の説」で、一国の独立
を支え文明の基盤をなすものは一身の独立であり、その根本は日本古来からの精神
の伝統としての「士風」(一家、一国の存亡の危機において、敗北を恐れず死を賭
して抵抗する気風、すなわち痩我慢)にあると唱えたことに注目している。

《むろん、それを日本の「市民精神」だ、などという気は毛頭ない。しかし、西欧
の「市民精神」の同位対応物とでもいおうか。「市民」ではなく、むろん「私民」
でもなく、いわば「士民」のようなものとでもいうべきであろうか。福沢のいう「
上流士人の気風」は、文脈は異なっているものの、西欧における「市民精神」に本
来、対応すべきものであったのではなかろうか。》

 佐伯氏が主張しているのは、「日本古来の精神」の再興などではない。現代日本
で日常語として使われるようになった西欧由来の「市民」や「市民社会」という言
葉を、表面的にとらえ抽象的で皮相な理念としてまつりあげるのではなく、「その
背後で息づいている、歴史の積み重なりが届けてくれるある種の精神」を探り当て
ることなのである。ここでいう「ある種の精神」こそ、個を超える公共的な事柄へ
の関心という意味での、生き生きとした「公共性」の精神であった。

 「私民」が闊歩する戦後日本の社会を更新するためには、西欧の市民精神を改め
て移植しなおす必要はない。かといって、明治以前の精神的伝統(の良質な部分)
へと復古することも不可能だろう。いまここから、現代の政治・経済・文化状況の
ただ中から、具体的な経験の積み重ねを通じて新しい精神の習慣を、つまり「公共
性」の精神を築き上げていくしかない。佐伯氏の議論は、そのような実践を曇らせ
るイデオロギー化した「市民」概念を、その重層性や歴史性を腑分けすることによ
って鍛え上げるための基礎作業を試みたものである。

●553●宮本憲一『公共政策のすすめ』(有斐閣:1998)

 いま公共政策で問われているのは「公共性とはなにか」である。著者はそう指摘
し、現代日本は「政官財共同体の生み出した公共政策の危機」に直面していると書
いている。そしてこれとは対照的に、「次のシステム」へ向けた未来の展望を告げ
る動きとして宮本氏が挙げているのが、住民や自治体、協同組合、NPOなどの新
しい主体による公共政策への取り組みである。

 たとえば、過疎化した農山部での「過疎を逆手にとる」試み(地域に独自の産業
や文化を求める内発的発展への志向)とその都市部への波及、高齢者福祉や環境問
題への地域のボランティア組織の主体的な関わりなど。

 宮本氏は、このような「次のシステム」をめざす方策の一つとして、「市場性と
ボランティア性をそなえた協同組合」(高齢者協同組合、労働者協同組合、環境協
同組合等の法人化された市民団体)を公共政策の主体の一部に組み入れる制度づく
りを提唱している。

 具体的には、コミュニティ段階での議会(例:イタリアの地区住民評議会)や協
議体(例:ニューヨーク市のコミュニティ・ボード。59のコミュニティごとに5
0人の無給の委員と3人の有給の事務局員で構成)といった「参加の制度化」を進
めること。

 さらには、公共財と民間財の中間に位置づけられる準公共財としての「混合財」
(エネルギー、交通、都市建設、高等教育、医療、福祉、情報など、公共性を担保
するための一定の規制的枠組みのもと、市場原理を活用して自由に競争・発展させ
るべきもの)を自治体や協同組合、NPOによる供給管理に委ねること。

 こうした分権と協同の主体づくりを進め、「協同セクター」を公共政策の枢要な
担い手として位置づけることを通じて、立法・行政・司法の三権に分権と参加の地
方自治を加えた四権の「チェック・アンド・イノベーション」(制御し改革する)
による新しい民主主義社会(分権型協同福祉社会)がもたらされる。そして、やが
ては「維持可能な発展」という人類共通の課題を解決する社会(サステイナブル・
ソサエティ)が実現される。

 ――以上が、宮本氏の描くシナリオである。

 しかしながら、維持可能な社会へと至るには、環境と資源の保全を進める経済社
会システムの構築が不可欠である。そのためには、環境税の導入といった経済的手
段だけでは足りず、大量生産・流通・消費・廃棄という現代社会のシステムそのも
のを変革すること、つまり欲望(消費)と労働(生産)のあり方を根本的に変えて
いかなければならない。宮本氏はそのように指摘した上で、次の三人の識者の所説
を紹介している。

▼見田宗介『現代社会の理論』:人々が大量消費よりも朝焼けの美しさを選択する
ように欲望がかわれば、未来社会は滅亡ではなく、サステイナブルな社会になる。
▼ワイツゼッカー『地球環境政策』:これまでの資本に雇用されて働く労働が次第
に減って、たとえば市民農園で家族のために楽しく働く労働のように、市場制度と
無関係な労働がふえていく。
▼都留重人「『成長』ではなく『労働の人間化』を!」:所得を稼得するために働
く「労働」から美や社会の尊厳を実現するための「仕事」にかえていくことで、維
持可能な社会が実現する。

 宮本氏は最後に、このような理論は、不況や失業が進む現代では夢物語に聞こえ
るかもしれないが、長期的に見れば必ずこうした傾向が生まれてくるのだと指摘し
ている。

 そして、公共政策は持続可能な社会への変化(欲望と労働のあり方の変革)をひ
きおこす条件づくりをめざすものでなければならず、そのためにも、住民がその文
化水準と自治能力を高め、受益者としてではなく主権者としての役割を果たすこと
ができる条件づくり(参加の制度化と協同セクターによる公共政策の遂行)を進め
ていかなければならないと述べて、本書を締めくくっている。

●554●バーナード『経営者の役割』
         (山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳,ダイヤモンド社::1981)

 バ−ナ−ドは組織を社会的創造物として、生きている状態にあるものとして見る。
彼はこのことを、ゲシュタルト心理学に依拠して、「人間が関与するかぎり、全体
はむしろその部分の総計とは別のものである」という仮構、言い換えれば組織がそ
れ自体「実在 entity」であるという仮構をもって表現する。

 ここでいう仮構とは、人間生活の場において限定された範囲で有用性の規準に照
らして適用される「概念」であって、自明の理すなわち普遍性をもった真理として
扱われる科学上の仮構である公理とは異なる。それは「非論理的であるが高度に知
的な精神過程」によって感得されるべきものなのであって、形式論理的操作の対象
となる空疎な虚構ではない。このような意味で、仮構すなわち〈概念〉は「リアル
」なものである。

 実在としての組織は生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えており、そこ
に力を供出する人々に「言葉で説明できないような劇的、審美的な感情」(p.xxxiv)
を経験させる。バ−ナ−ドはそれを「組織感 the sense of organization」、 「
共同体意識 communal sense」あるいは「全体感 the sense of the whole」と表
現する。

 諸部分がその独自性を失わず全体との弁証法的対立を経て一つの実在のうちに融
合しているとき、そこにはかつてレヴィ=ブリュルが未開人の原始心性を説明する
ために提唱した「融即律 principe de participation」に似た原理が作用している
であろう。このような融合の最高段階において協働をめぐる自由意思と決定論の相
克はパラドキシカルな関係をとり結び、人々は神との合一を意味するキリスト教カ
トリックの儀式である聖体拝領が象徴する「精神的結合 communion」の状態へと移
行するであろう。

 バ−ナ−ドの信仰告白ともいうべきこのような記述は、組織を生きている状態に
おいて実在と見るリアルな仮構から論理的に導出される結論なのであって、決して
神秘を語っているものではない。バ−ナ−ドが諸要因の錯綜体である協働現象を考
察するために採用した方法は、混沌の中に形式的抽象的な「体系 system」という
「概念」を構築し可能なかぎり明晰に記述することを通じて体系のうちに捕捉され
ない残差の存在を示し、かかる残差と体系との相補的な関係から実在としての組織
という仮構を創発させようとするものであった。

 それは認識の方法であるとともに「組織づくりの技法 the arts of organizing」
でもある。バ−ナ−ドの方法はあくまでも論理的意識的思考に裏付けられたもので
あって、神秘的要素の非論理的な受容に基づくものではない。またそれは、多様性
を単一の要素に還元し均質なタブロ−の上に量的差異として表示しようとする論理
への非合理的な退行とは無縁であって、むしろ多様性を質的差異において「括握」
し多様性を産出するための実践的技法なのである。仮構がリアルなものとなるのは
認識者・実践者の能動性ゆえである。

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