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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.163 (2003/05/11)
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 □ サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
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恥ずかしい話だけれど(別に恥ずかしがるがる必要などないのかもしれない)、私
は『ライ麦畑でつかまえて』を最後まで読み切っていない。手にしたことすらない
とは言い出しかねて、友達にばれないよう野崎孝訳を密かに入手し、こっそりと読
み始めてはみたたものの、いまひとつ面白くなくて、早々に放り投げてしまったの
は、たしか二十歳をとうに過ぎた頃のこと。それ以後、なぜかしらサリンジャーに
対する「後ろめたさ」のようなものを感じ続けてきた。

村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、ずいぶん前から刊行されるの
を心待ちにしていて、今度こそ、果たせなかった「宿題」をやり遂げようと思って
いたのに、いざ書店に山積みされているのを前にすると、これも屈折した感情のな
せるわざなのだろう、思いもよらなかった『ナイン・ストーリーズ』を手にしてレ
ジに向かっていた。──初めてのサリンジャー体験は、それはもう筆舌に尽くしが
たい鮮烈で強烈な印象を、私のうちに刻印してしまった。
 

●549●サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳,新潮文庫)

 訳者の野崎孝氏は「あとがき」で、本書に集められた作品は「いずれも極めて巧
緻な技巧をこらした逸品ぞろい」で、「作者の鋭敏で繊細な感覚と緻密で周到な計
算が造り上げた作品は精巧を極めたガラス細工のようで、無骨な手で無神経に扱お
うものならたちまち壊れてしまう」と書いている。ここに見られる形容句や比喩の
重ね着が空疎な評言ではなかったと納得させるだけの実質を、サリンジャーが自ら
選りすぐった九つのショート・ストーリーは秘めている。

 それらの作品はいずれも「巧緻な技巧」もしくは「緻密で周到な計算」の痕跡を
むきだしにした、どこか痛ましさすら感じさせる外観のうちに作者の「鋭敏で繊細
な感覚」を生々しく露呈させ、その不安定で危うい構成や作品の中ではけっしてそ
れとして語られることのない外部の示唆──それはヨーロッパでの戦争体験という
過ぎ去った汚辱の記憶かもしれないし、やがて到来するだろう「普遍宗教」という
愛の出来事の予兆かもしれない。あるいはそれらが現在という神経症的な時のうち
に折り畳まれていることそのものなのかもしれない──をもって読者の緊張を強い
る。

 あたかも砕け散った器の九つの破片がつかの間の鋭い残光を発し、損なわれ失わ
れた全体(無垢なるもの・無傷なもの・聖なるもの)の恢復への激しい希求ととも
に消滅するさまを目撃してしまったかのように、読者は「技巧・計算」と「感覚」
が造り上げた壊れ物としての九つの逸品(完璧に造形された断片)を前にして名状
しがたい不安に襲われる。

 サリンジャーが求めてやまなかったもの、言葉では語ることのできない尋常なら
ざるもの、つまり論理(エデンの園でアダムが食べたりんごの中に入っていたもの
:「テディ」)をもってしては解明できない精妙なもの(たとえば本書のエピグラ
フに掲げられた白隠禅師の「隻手の声」の公案が問うもの)へ向かって、「シー・
モア・グラース」(見えないものを見よ、鏡を通じて──この言葉は後に書かれる
グラース家の長兄シーモア[Seymour]の物語を予告している)という「バナナフ
ィッシュにうってつけの日」で少女シビルの口を通じて告げられる戒律に従って、
読者はひたすら凝視し思考することを強いられるのである。

(ところでシビルの名は、シーモアがその冒頭の一節「記憶と欲望を混ぜ合わし」
を引用するエリオットの「荒地」のエピグラフ、ペテロニウスの小説「サティリコ
ン」からの引用に出てくる齢七百歳の巫女シビラを想起させる。ちなみにサリンジ
ャーは「バナナフィッシュにうってつけの日」に先立つ「倒錯の森」の作中詩で、
荒地の地下に葉を茂らせる木のイメージを語っている。

 そういえばシーモアは木にとらわれて自動車事故を起こした。この世=荒地に剥
き出しにされた木が記憶と欲望にとらわれた孤独な人間の神経症的な存在をあらわ
しているのだとすれば、豊饒な地下のイメージはサリンジャーが希求した完全なも
の=聖なるものの所在を示している。──それはやがて壊れた腕時計のイメージを
介して、輪廻転生する循環的な時間もしくは永遠の相へとつながっていく。)

 たとえば「エズミに捧ぐ」のラスト、送られて来る途中でガラスが壊れてしまっ
たエズミの父の腕時計を手にしているうち、サリンジャーその人を思わせるX曹長
は「陶然とひきこまれてゆくような快い眠気」を覚えた。《エズミ、本当の眠気を
覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機──あらゆるキ─ノ─ウがだ、
無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。》

 この「無傷のままの人間」という言葉は「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」で
語られる「経験」(突然現われた太陽が秒速九千三百万マイルの速度で飛んできて、
後には二重の祝福を受けた琺瑯の花園が微かな光を放っていた)を経て、インド人
の生まれ変わりの少年と論理に縛られたアカデミックとの対話を綴った「テディ」
に出てくる「神秘的な経験」(六歳のときミルクを飲んでいる赤ん坊だった妹を見
ていて、テディは「妹は神だ、ミルクも神だ」「すべては神だ」と知った)へとつ
ながっていく。

 そして最後に「バナナフィッシュにうってつけの日」の忘れがたいラスト、シー
モアの自殺のシーンへとつながっていく。そこでは生と死が反転する。テディがシ
ーモアへと転生していく不可視の回路。それこそサリンジャーが本書に収められた
九つの短編小説を通じて探求しつづけた聖なるもの(損なわれた全体の恢復)への
通路にほかならない。

(ところで壊れた腕時計とテディの経験は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のラ
スト、回転木馬に乗った妹フィービーを見守るホールデンの姿へとつながっている。
ここで「回転木馬」が直線的な時間から循環する時間への転換をもたらす宗教的体
験の象徴であることは見やすい。何よりも「見守る」という行為はあの「シー・モ
ア」の戒律と響きあっている。──こうして『ナイン・ストーリーズ』は聖なるグ
ラース家の物語へと接続していく。)

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