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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.162 (2003/05/03)
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 □ 東浩紀・大澤真幸『自由を考える』
 □ 東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で』
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●547●東浩紀・大澤真幸『自由を考える 9.11以降の現代思想』
                    (NHKブックス967:2003.4.30)

 本書の粗い要約。──権力による自由の抑圧・排除といった二項対立的図式に基
づく、あるいは(身体の規律訓練を通じて道徳的な主体を形成する権力といった)
個人の内面的イデオロギーに照準する古典的な権力論もしくは自由観をもってして
は、もはや現代における権力と自由をめぐる問題について有効な批判的言説を紡ぎ
だすことはできない。たとえば、住民基本台帳ネットワークや国民総背番号制の問
題に関して、そこでいったい何が抑圧されることになるのかと問われても、せいぜ
い犯罪の自由・権利といった漫画的な答えしか出てこない。

 現代の権力は、内面のイデオロギーや思想、利害関心やそれらの表現に対して非
常に寛容で、充分な多様性と自由を認めている。排除の機制が働くのは、人間の生
物(動物)としての生存にかかわる部分、つまり安全で快適な生活にかかわる部分
だけだ。かつてマルクスが賃労働の問題をめぐって「疎外」という概念を発明した
ように、「僕らは何を失ったのか」という問いをめぐる人文的な「概念の作業」が
必要である。

 それでは、現代の権力状況に抗しうる「新しい自由」の概念とは何か。それは、
単なる自意識の問題には還元されない「私が私である」ことの根拠、もしくは古典
的な主体=主権観のもとでは「無」であるしかない「私」──いつ他者になってし
まうかもしれない弱い受動的な「私」、偶然的で交換可能な「私」(=anyone)、
単一の他者への愛や共感と普遍的な連帯とを媒介するもの──を指し示す概念で、
大澤真幸はこれを「根源的偶有性」と名づけ、東浩紀は「匿名性の自由」と呼ぶ。

 たとえば大澤真幸は、アマゾン・ドット・コムが特定ユーザーの購買履歴に基づ
き図書を推薦するシステムと、スターリン体制下での「自白」とをパラレルに論じ
て、現代の権力の不気味さを表現している。

《言ってみれば、先ほどのスターリニズムでもアマゾン・ドット・コムでもいいん
ですが、そういうところで「客観的に」お前はこういうものだ、と言われることに
よって、細かな「理性の狡知」に僕らはからめとられているわけですよ。つまり、
お前は何も記憶していないかもしれないが、いたる所に入りこんでいる「理性」の
立場から見れば、お前は「客観的には」こういう存在であると言われてしまう。な
ぜこういうことになっていくのかというと、人間には自分にとって疎遠なものでも
引き受けてしまう本質的な特徴があって、それが社会学の言葉で言えば「偶有性」
、東さんの言葉で言えば「確率的な側面」なわけです。つまり人間は他でもありう
るという部分を必ずもっているので、その部分を通してどんなに疎遠なものでも引
き受けることができるんです。それが権力に濫用されているという構造なんでしょ
うね。》(79頁)

 東浩紀は、「固有名」対「確定記述」という対立軸ではとらえられない「匿名性
」の概念をめぐって、次のように語っている。

《いずれにせよ、確定記述はデータにすぎないし、データの集合では人の固有性は
把握できない。これが、近代哲学の、というか、一般的な思想や文学の前提です。
しかしそれは間違いかもしれない。今までデータから固有性を再生できなかったの
は、私たちの技術や制度が追いついていなかったからだけかもしれない。高度な情
報技術に支えられる管理型社会というのは、そういう可能性を考えさせる。
 僕が行いたいのは、こういう状況だからこそ、誤配可能性を育てる必要があるの
ではないか、という提案です。今までは匿名性は、社会空間の複雑さと情報の追跡
可能性がアンバランスであるために、特に意図しないでも確保されていた。だから
こそ固有名の感覚も生まれていた。しかし、後者の精度が飛躍的に上がってしまっ
たため、今そのバランスが壊れている。その結果、誤配可能性の量(なるものが計
測できるとして)がきわめて低くなり、人々は自分が固有の存在だと感じられなく
なっている。僕はその状況を憂えているわけです。》(191頁)

 ──両者に共通するのは、現代の権力の現実の方が批判・理論よりはるかに先行
している、という認識である。だからこそ大澤は、権力を出し抜き、それよりさら
に先へ行くための「論理」の模索にこだわり、東は、両者の議論の原理的な一致を
認めつつ、そのような大澤の「弁証法」を批判し、実践的側面にこだわる。理論的
爆破(権力のパラドクシカルな自己転変)か工学的構築か。この微妙な「対立」が
議論に緊張をもたらし、けっして「理論ゴッゴ」に終わらない本書のアクチュアリ
ティを生み出している。

 付記。大澤が提示する「工学装置としての神」のメタファーが面白い(199頁)。
古典的な神は、そのメッセージの恣意性こそが人間からの隔絶性(絶対的な超越性
)を示す証拠だったのだが、現代の工学的な装置は、かつての神が担っていたその
ようなネガティブな属性(超越性を示すポジティブな属性へと反転しうる属性)を
すべて取り除いた神になっている、というものだ。これは思いつきだが、この指摘
と、永井均が『本』(講談社)に連載中の「ひねもすたれながす哲学」で論じてい
る神の問題とを接続することで、本書の議論の着地点が見えてくるのではないか(
「新しい自由」の概念=「独在性の私」?)。

●548●東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で
  ──全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』(集英社新書:2003.4.22)

 文学や思想の言葉が社会的現実と乖離し、いまやその有効性が急速に失われつつ
あるという絶望。東はこの「批評家的な問題意識」への応答を迫って、「9.11
問題」や「八○年代問題」を提起する。これに対して笠井は、それはなにも九○年
代以降や9.11以降に生じたものではない、僕は六○年代前半から悩まされてき
たんだ、と自身の全共闘体験をもって応じる。議論はすれ違いの様相を呈しはじめ
る。第6信、第7信で、「歴史的」(笠井)対「工学的」(東)の理論的交錯が一
瞬かいま見られるが、ついに東がキレて、往復書簡は不穏でキナ臭い匂いに包まれ
る。このあたりから、がぜん面白くなる。結末を知りたくて一気に読み切る(ほと
んど小説を読む感覚で)。

 読み終えて、東が言う「文学や思想の言葉」とはいったい何なのかと考える。世
代や住処、つまりは身体レベルでの「体感」の違いが「文学や思想の言葉」には反
映している。性や暴力や死をめぐる身体的想像力に支えられて、時代のリアリティ
に対する認識、つまり「文学や思想の言葉」は紡がれる。その意味でも、「僕は、
あと数十年はこの国で生きていかねばならないのだから」、「世界をより良くする
ため」に、まず正確な状況認識が必要だと言いたいのだ、笠井さんのシニカルでニ
ヒリスティックな議論や回顧譚につきあっているヒマはない(とは書いていないが
)、という東の言葉は、ナイーブだけれど心を撃つ。「それぞれ二人が固執してい
る六○年代と八○年代の時代経験の意味を、もう少しきちんと噛み合わせることが
できたら、この往復書簡も違うような展開を辿ったかもしれません」という笠井の
言葉に、共感する。

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