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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.161 (2003/04/27)
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 □ 町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本』
 □ 田口ランディ『聖地巡礼』
 □ 坪内祐三『新書百冊』
 □ 金沢創『他人の心を知るということ』
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●543●町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本
   ──『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』(洋泉社:2002.9.9)

 切通理作さんが『論座』(2003年1月号)の「今年の収穫 私が選ぶ3冊」のな
かで、「町山さんの文章は批評の核だけがあり感想を水増ししていない」と絶賛し
ていた。副題に「Understanding Cinemas of 1967-1979」とある。

 『俺たちに明日はない』(67)から『地獄の黙示録』(79)まで、「映画がたん
なる娯楽ではなくて、人生経験の一つだったころの映画」──『卒業』(67)『20
01年宇宙の旅』(68)『猿の惑星』(68)『イージーライダー』(69)『フレンチ
・コネクション』(71)『ダーティハリー』(71)『時計じかけのオレンジ』(71
)『タクシードライバー』(76)『ロッキー』(76)『未知との遭遇』(76)とい
った「ニューシネマ」の作品群──について、表層的な感想を述べるのではなく、
完成した「映画だけでは見えない意図や背景、いわゆるサブテキスト」を探るため
にこの本は書かれた。

 「絵画の研究がスケッチや習作、X線で見える描き直しの跡を調査するように、
シナリオの草稿や企画書、関係者のインタビュー、当時の雑誌記事などに当たって
裏付けを取」った製作過程をたどることで、「作品の表面に直接は描かれない作者
の意図、もしくは作品の背景」を調査したのがこの本だ。

 ──取り上げられた映画のほとんどすべてを、日本上映時、同時代の「作品」と
して映画館で、それも友人と連れだって観た。その体験の一つ一つは、今でも鮮明
に甦る。本書を読んで、多くの謎が解明され、あの時代の「核」のようなものがあ
らためて理解できた。それ以後のハリウッド映画(著者はそれを「製品」と呼び、
「作品」と区別する)は、たいがいビデオで、それも一人で観た。内容はほとんど
記憶に残っていない。

●544●田口ランディ/森豊・写真『聖地巡礼』
                    (メディアファクトリー:2003.4.17)

 『ダ・ヴィンチ』連載時の、小さな活字と窮屈なレイアウト、モノクロ写真が醸
しだしていた、どことなくマイナーな裏稼業を思わせる秘めやかな雰囲気が、ゆっ
たり組まれた活字とたくさんのカラー写真で明るく小綺麗に編集された単行本では、
すっかり様変わりしていて、少しとまどう(モリリンこと森豊さんの写真は、単行
本の最大の収穫)。

 飛び入りの超能力者やシャーマンを交えた「聖地開発事業団」の行状記に加え、
随所に、ランディさんらしい語彙(水=魂のバイブレーション、水の記憶、力と繋
がる、水=海は世界をつなぐ、人間のOSのヴァージョンアップ、森や山の「生殖
器」=土地と人間意識が接触できる場所、等々、ほんとはどれもランディさんのオ
リジナルではなくて、ランディさんが呼びよせた不思議な人たちが発する言葉)と
「考察」がちりばめられている。

《私は私が生きるために聖なる場所が必要だ。魔法と祈りが必要だ。それは現実と
は表と裏の関係である。どんなに裏の物語が荒唐無稽でも、それが裏の物語である
ことを自覚していれば、表と裏は矛盾しない。/表と裏は、ふたつでひとつだ。》
(233頁)

《だけど、本当はね、人間って他のことを何も考えていないとき、脳の一番奥の方
が一番働いているんだと思う。意識じゃなくて無意識が動き出して、そして、魂が
活性化してるんだと思う。/意識の考えていることは所詮は、損得勘定だ。だけど、
体を使って夢中になっているとき無意識が働いていることは、損得じゃない。私の
心そのもの。どうしたら自分にとって一番気持ちいいか、っていう答えそのもの。
体のリアルへと自分を導いてくれる。それは考えじゃない、もう行いとして、次の
瞬間には自分に降りて来ることだ。》(254頁)

《「聖なる場所」それはたぶんアクセスポイントだ。人間の想像力は様々な次元に
世界を創造した。亀裂に、穴に、磐に、水に、いたるところにゲートがある。その
場所に行くのは人間だけであり、人間が強い意志をもって扉を叩くとき、ゲートが
開く。》(340頁)

 ──ランディさんの旅の同行者の一人、「神戸のSさん」が、あんたは櫛稲田姫
に似ていると言う。「その人は、どういう女性なんですか?」という問いへの答え
が面白い。「うーん、どんな男も受け入れてどんどん混血にして世界を平定する、
オ○コの神様みたいなもんだな」。

●545●坪内祐三『新書百冊』(新潮新書010:2003.4.10)

 日本版ペイパーブック=新書の思い出で綴られた坪内祐三の半生記。本読みなら
だれでも、こういった書物と読書をめぐる自叙伝への魅力に抗じ難いのではないか。
でも、他人に読んでもらい、同世代・近接世代の読者の共感を誘い(シブい本のラ
インアップ、とりわけ冨山房文庫への賛辞や、開高健の『声の狩人』や安岡章太郎
の『アメリカ感情旅行』といったすっかり忘れていた新書への言及など、いたると
ころ共感あり)、さらに、「読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、
特に若い人たちに伝える」ためには、熱意と自制心と編集上の工夫が必要で、その
点、さすがは坪内祐三、百冊の新書のサワリとキモの紹介・引用を、もう少し、と
いうところでさっと切り上げ、楽しげに筆を進めながら、読者をしっかりと自分の
関心領域にとりこみ、終わってみれば、新書による日本文化史を仕上げているのだ
から、これは相当な力量である。

 あとがきに記された、本というメディアとの関係で区分された二十世紀日本の四
つのサイクルをめぐる考察が面白い。──第1期(00〜25)、本はまだ限られた人
のものだった。第2期(〜50)、円本や岩波文庫の登場に始まる教養主義的読者層
の誕生。第3期(〜75)、教養主義的読書の大衆化。第4期(75〜)、サブカル的
読書が主流となる。そして新世紀を迎え、文化としての読書(サブカルもやはりカ
ルチュー=文化だった)は変質した。《つまり読書という文化の大きなサイクルが
終わった。/ただしその終焉は、逆に、新しいサイクルの始まりであるかもしれな
い。》

●546●金沢創『他人の心を知るということ』(角川oneテーマ21:2003.4.10)

 著者がコミュニケーションについて考える際の原風景は、学部生の頃、京大霊長
類研究所を訪れ、一人でチンパンジーを観察していたときの経験にある。

 一頭のメスのチンパンジーが近づいてきて、傍らの草を引き抜くと、金網ごしに
著者のほうへ差し出してきた。著者がその草をつかむと、彼女は手を放す。試みに、
著者が彼女の真似をして、草を差し出してみると、今度は彼女がその草をつかんで
自分のものにしようとした。このやりとりは四、五回繰り返された。ヒトとチンパ
ンジーのあいだに暗黙のルールが出来上がり、相互に相手の意図を感じあい、著者
はチンパンジーの意図的な行為に「心ある存在」を感じ取った。

 この経験が、著者のコミュニケーション観を決定した。コミュニケーションとは、
意味や「本当に言いたいこと」を言葉という「ビン」に詰め込んで手渡すことでは
ない。「コミュニケーションとは賭けである。そこで賭けられているのは、他者の
心の世界だ」(144頁)。自分(著者)、他者(チンパンジー)、共通のモノ(傍
らの草)という「三項関係」を基礎として、「他者が今、何を考えているかをメッ
セージの受け手も推測するし、送り手も受け手が何を知っているかを考えながら互
いの心の世界を推測しあう、共同作業」(212頁)こそが、コミュニケーションな
のである。

 コミュニケーションにおいて大切なことは、正確に相手の意図を推測することで
はない。(「本当に言いたいこと」なんて、実はない。)まじめに真剣に取り組ま
なければ、遊びは成り立たない。それと同じで、コミュニケーションという賭けに
おいて最も大切なのは、誠実さである。

《失敗すれば何かを失うこの賭けは、日常のおしゃべりでは、あまり行われないの
かもしれない。しかし、もし、相手の意図をなんとしても知らねばならないなら、
我々は、明確で真剣な賭けを行わなければならない。そして、賭けが誠実に真剣に
行われたとき、他者が、単なる目の前の人間であることを超えて、自分自身の中に
人格をもった心ある存在として立ち現れる。たった一度でも、真剣な賭けをへた他
者であれば、その存在は今現在身体があろうがなかろうが、一つの心をもった存在
として、自分の心の中で動きつづけるように私には思われる。今現在、その身体が
物理的にあるかないかにかかわらず。》(224頁)

 ──本書を読み進めながら、眩暈のような神秘感にとらわれていた。それは、自
分の心の中にある相手と相手の心の中にある自分、そしてそこに相手と自分が共通
に見ているモノが介在する「三体問題」がもたらす入れ子式の眩暈(「相手の心の
中にある「自分の心の中にある「相手の心の中にある「モノ…」」」」)であり、
私の心は実は私の中にあるのではなく、私と他者とモノの世界に遍在しているので
あって、コミュニケーションが成り立つそのつど、その時に、心ある存在の片割れ
として屈折してくるのではないかとか、本書の最後で述べられている「死後も自分
の心の中で動きつづける心ある存在=他者」(あるいは「死後も他者の心の中で動
きつづける心ある存在=自分」)とは、端的に言えば「魂」のことなのではないか、
といった類のものだった。

 著者は、「誰かの話がわかる」「こちらの意図が通じる」といった出来事は、こ
の宇宙に存在するもっとも神秘的な出来事だ、と書いている(7頁)。本書を読ん
で、「コミュニケーション」が日常に存在する奇蹟に思えてきたのなら、本書の役
割は果たされたことになる、とも(10頁)。著者が言う「神秘」と私が感じた神秘
とが、はたして同質のものなのかどうかはわからない。

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