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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.160 (2003/04/20)
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 □ 田辺繁治『生き方の人類学』
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『言葉の外へ』に収められた「一種の“「『技の記憶』人間論」試論”」で、保坂
和志さんは、「記憶を「一人一人の脳の中だけにある」としないで、「土地にある
」とか「家にある」と言ってしまった方が、すっきりする」と書いています。(「
家にある」記憶で、最近完結したばかりの「カンバセイション・ピース」を想起し
た。)

《「技の記憶」で重要なのは、それを遂行する原理は人間の側にあるのではなくて、
自転車なら自転車の特性、土なら土の特性、舞踊なら舞踊の動きの特性にあること
だ。そこには“近代”的な意味での“個”はないけれど、“人間”はある。》
 

●542●田辺繁治『生き方の人類学 実践とは何か』
                     (講談社現代新書1655:2003.3.20)

 「だって、そういうことになっているから」としか言えない場合がある。たとえ
ば「オフサイドはなぜ反則か」と尋ねられても、ちゃんと答えられない。オフサイ
ドがあるからサッカーのゴールが「奇跡」になるんだと答えたところで、それは一
種の後知恵でしかなくて、じゃあ「100対99」のゲームがサッカーじゃないかとい
うと、そういうことにはならない。(ルールの起源を問う趣旨なら話は簡単で、「
中村敏雄さんの本を読んでくれ」で済む。)

 オフサイド・ルールのないサッカーはサッカーではない。それは「バスケッカー
」(バスケット+サッカー)とでも呼ぶしかない別のスポーツだ。私がサッカーの
選手だったら、たぶんそう答えるだろう。(ラグビーの選手だったら、「バスビー
」とか「ラグケット」。)それがピッチの上での「生きられた経験」であり、サッ
カー選手にとってのフィジカル・リアリティだからだ。

 そのような、もはやあたりまえすぎて言葉で説明できない知識のことを、著者は
「実践知」と呼ぶ。(齋藤孝さんだったら、「技化」された知識と言うだろう。保
坂和志さんなら、「技の記憶」と言うところだ。)

《知識は本に書かれたようなモノではなく生きた身体に宿っている。このように実
践の外部ではなく実践そのものに内在する知を、この本では実践的な知識、すなわ
ち〈実践知〉と呼んでおこう。私たちの日常生活のあらゆる場面で働いているのは、
この実践知にほかならない。私たちは知識を操作しているのではなく知識を生きて
いるのである。》(14頁)

 たとえば読み書き能力、リテラシーを考えればいいだろう。(ハブロックの『プ
ラトン序説』には、ホメロス的な記憶された言葉からプラトン的な書かれた言葉、
イメージ思考から概念的思考への身体化された「実践知」の変遷が生き生きと叙述
されている。)

 中島敦の「文字禍」に、次の文章が出てくる。

《一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い
一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そうい
う音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。
(中略)単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か
? ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。魂によ
って統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれ
を統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来よ
うか。》

 エックハルトは「ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、
体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである」と語った。こ
こでいう「魂」あるいは「文字の霊」、つまりバラバラなものに一つの規則(音と
意味)を与えるものこそ実践知である。

 それでは、実践知は「社会のなかでいかに発生し、いかに機能し、伝達されてい
くか」(247頁)。著者はまず理論編(第1章〜第3章)で、ウィトゲンシュタイ
ンの「言語ゲーム」(生活形式=共有された慣習のなかでの反復訓練)とブルデュ
ーの「ハビトゥス」(実践の発生母胎)、そしてレイヴとウェンガーの「実践コミ
ュニティ」(参加・交渉・協働といったアクティブな相互行為=社会的ゲーム)の
概念を紹介し、実践のもつ反復性(過去の再現と身体への刻印)と歴史性(変動と
組織化)を摘出する。

《…すべての人間実践は境界を作り、それを再生産している。ウィトゲンシュタイ
ンの生活形式を基盤とする言語ゲーム、あるいはブルデューのハビトゥスを共有す
る集団や階級的な社会空間の存続は、まさに実践が紡ぎだすこの境界性によって維
持されている。実践が行われている場所には外部と内部があり、実践にともなう考
えやり方、概念、専門用語や符牒など、つまりレパートリーによってへだてられて
いる。したがって、すべての実践コミュニティは境界をもつことによって存続し、
それ自身の固有の歴史をもつことになる。》(136頁)

 ついで民族誌編(第4章・第5章)では、北タイの霊媒カルトとエイズ自助グル
ープの事例にそくして、実践コミュニティにおける「権力ゲーム」と「自己の統治
」の契機を抽出し、最後に(第6章)、晩年のフーコーの思想に準拠しながら、よ
り良い生=新しい生き方を創造する実践の技法──「世界に対する多様な関係を構
築していく〈自由の実践〉、すなわち生き方の探求」(220頁)としてのアイデン
ティティの形成、あるいは「主体の多様な転換、すなわちアイデンティティ化」(
246頁)を可能とする場としての実践コミュニティ──を構想する。

 齋藤孝さんによると、野口三千三が考案した体操の要諦は、からだを液体化する
こと、「水の入った革袋に骨や筋肉が浮かんでいる状態をイメージし、揺さぶりを
増幅すること」にある(『からだを揺さぶる英語入門』)。組織を「液体化」(あ
るいは「ワイン化」)し、「世界に対する多様な関係」の構築や「主体の多様な転
換」(「自由の実践」)を可能にする「革袋」(あるいは「樽」)としての「実践
コミュニティ」を叙述すること。それが、著者が構想する「生き方の人類学」のテ
ーマである。本書は「組織のための整体術」の本だ。

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