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■ 不連続な読書日記 ■ No.157 (2003/03/30)
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□ 佐々木能章『ライプニッツ術』
□ デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ『ポパーとウィトゲンシュ
タインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』
□ アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして〈神〉を見るか』
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●528●佐々木能章『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する』
(工作舎:2002.10.10)希代のネットワーカー、ライプニッツ。その射程は、千年に一人とも言われる哲
学者にして数学者、法学者、歴史家、等々の諸学の「編集」から外交官として活躍、
さらには本書第3章「発明術と実践術」で詳細に論じられる計算機の発明家にして
図書館員、鉱山開発者といった実用面に至るまで、およそ森羅万象、人知の至るか
ぎりの広範な圏域に及ぶものであった。しかしライプニッツの創造性の秘密は、「
ネットワーク」というどこか神の視点を思わせるところがある言葉よりもむしろ「
リンク」(現代版アルス・コンビナトリアとしての)というキーワードでもってと
らえる方がよりアクチュアルに解明できる。「ライプニッツの思想に本質的とも言えるような表現手法がある。これを「リン
ク」と呼んでみよう」(275頁)。『モナドロジー』はライプニッツのリンク集な
のではないか(279頁)。──本書はこの斬新かつ刺激的な着想に導かれて、まず
第1章「発想術」でライプニッツの考え方の基本とも言える連続律や、類比の方法
(図と地の絶えざる反転としての)を一瞥し、続く第2章「私の存在術」では、個
体(モナド)と世界(予定調和)との往還運動(相互リンク)としてのライプニッ
ツ哲学と、その往還がもたらす緊張関係に対するリスク・マネジメントとしての保
険論に説き及び、第4章「情報ネットワーク術」で、リンクの哲学としてライプニ
ッツの活動を「裏から」覗き見る。《リンクを張るという営みは、あるものとあるものとを結びつけるということだけ
ではなく、「結びつける」という働きそのものを生み出している。(略)リンクは
新しいネットワークを築くことによって新しい空間と時間とを生み出すのである。
まさに、事象の新たな秩序がそこには見いだされる。そしてそれは新しい事物を生
み出すことでもあるのだ。
情報はその場所を固定してしまうと産出能力を失ってしまう。たえず揺り動かす
ことが必要だ。ライプニッツが書物に対してとったさまざまな試みは、情報の沈殿
物である書物を掻き乱すことによって情報を浮き上がらせようとするものであった。
(略)ライプニッツはあらゆる場で情報の掘り起こしに努めていた。それは新しい
意味を探り、新しい世界を生み出そうとする試みであった。》(286-287頁)フォイエルバッハは、スピノザの哲学は望遠鏡でライプニッツのそれは顕微鏡だ
──《スピノザの世界は、神性という無色なガラスであり、われわれがそれを通し
て一つの実体が放つ無職の〈天の光〉以外の何物をも見つけないような媒体である。
ライプニッツの世界は、多角形の結晶体であり、自分に特有な本質を通して実体が
放つ単純な光を無限に雑多な〈光の富〉の中で多様化し且つ暗くするようなダイア
モンドである。》(『ライプニッツの哲学』)──と述べた。この二つの世界が相
互にリンクを張ること(もしくは類比=図地反転の継続)こそ、スピノザやライプ
ニッツの同時代とも言える(ただし、何かが反転している)現代の課題なのではな
いか。●529●デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ『ポパーとウィトゲンシ
ュタインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』
(二木麻里訳,筑摩書房:2003.1.23)哲学には未解決の問題があるか。いや、そもそも哲学には「問題」(プロブレム
)があるのか。ウィトゲンシュタインにとって哲学の目的は「蠅とり壺にはいりこ
んだ蠅に、出口をしめしてやること」であった。それは「謎」(パズル)を解くこ
とに等しい。『論理哲学論考』のころのウィトゲンシュタイン(ラッセルによれば「ウィトゲ
ンシュタインT」)なら、言語のかくされた構造に注意すれば謎は解けると言うだ
ろう。後記のウィトゲンシュタイン(同じく「ウィトゲンシュタインU」)なら、
哲学はフロイトの精神分析のような「言語による治療」にほかならないのであって、
言語の表面に注目することで謎は解ける(「哲学の目的の一つは、潜在的に無意味
であるものを、はっきりと無意味なものとしてしめすことにある」)と答えるだろ
う。《では哲学とは、それを生計のつてにしようと思っているひとにしか用がないのだ
ろうか。みずからの幻影である〈深遠さ〉というぬかるみに陥ちこんでしまう人間
にしか関係がないのだろうか。ギルバート・ライルの表現をかりると、蠅とり壺に
おちたことのない蠅に、うしなうものはないことになる。だがいま紹介した考えか
た[哲学の問いとはパズルであって、問いをときほぐすということは、「すでに存
在していたもの、つまり言語がじっさいにどうつかわれているかを思いだすことに
すぎない」という考えかた]は、わたしたちすべてのなかに住む〈哲学者〉とたた
かうのに役だつと、ウィトゲンシュタインUであればいうだろう。じっさい、わた
したちはほぼまちがいなく蠅とり壺におちる。それが言語の性格なのである。大学
で講義する哲学者になるひとこそすくないが、わたしたちはだれでも台所のテーブ
ルで、居酒屋の片隅で、哲学者である。》(298頁)だが、ポパーはこのような考え方にはくみしない。たとえばウィトゲンシュタイ
ンUが書いた『哲学探究』について、ポパーは次のように語っている。《ウィトゲ
ンシュタインが語っていることに、なにも異議はありません。だって異議をとなえ
るようなことが、なにも語られていないからです。正直に白状すると、この本には
退屈しました。あくびをしすぎて涙がでるほど、ね。》(303頁)ポパーにとって、帰納法や確率や因果関係や無限の概念(潜在的無限と現実的無
限)、あるいはロック由来の一次性質と二次性質の区別は、まぎれもなく哲学の「
問題」だった。「わたしたちがどう支配されるか、社会がどう構成されるか」も、
これらにおとらず哲学者がとりくむにふさわしい「問題」であった。《もしウィトゲンシュタインがただしいなら、哲学とは「最善の場合でも、辞書編
集者にとってかろうじて役だつものにすぎない。最悪の場合には、お茶を飲みなが
ら興じるのに最適な娯楽にすぎない」。一九四六年十月二十五日の午後、クラブで
会合がはじまる四時間前、ラッセルとポパーはいっしょにお茶を飲んでいる。ティ
ーテーブルをはさんで、哲学とはそんなのではないよ、と意見が一致していたかも
しれない。
じっさい、たとえば目前には国際問題をかかえた現実世界があった、H3号室の
議論のはげしさを十分理解するには、そのうしろにある政治的な枠組みを見とおさ
なければならない。一九四六年とは、どんな年だったのだろうか。ファシズムの脅
威はようやくおさまったばかりで、もう冷戦がはじまっていた。哲学者は政治にか
かわるべきだろうか? ポパーも、ラッセルも、こたえはおなじではっきりしてい
た。「かかわるべきである」。》(305-306頁)──以上は、第一八章「哲学的パズルという「謎」」からの抜粋である。それが
本書のエッセンスだ、などと言うつもりはない。(私自身は、ウィトゲンシュタイ
ンにとっての「問題」は、パズルとしての謎ではなくて答えのない謎、そもそも言
葉でもって問うこと自体がなりたたない「エニグマ」としての謎だったのではない
かと、若干の異和感を覚えている。)二木麻里さんが「訳者あとがき」で書いているように、このノンフィクション作
品は、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとカール・ポパーの二重評伝」「群
雄割拠する二十世紀前半の哲学界をえがく、ぜいたくな絵巻」「ウィーンとユダヤ
の民の近現代史」の三通りの読み方ができる。いずれの読み方においても、この本
は第一級の作品である。なにより面白いのは、二人の異星人のような哲学的人生とその情熱を、「火かき
棒」事件(ポパーとのはげしい応酬に際して、ウィトゲンシュタインは真っ赤にや
けた火かき棒をふりかざしたとされる)という「象牙の塔のおとぎばなし」に託し
てあますところなく叙述しきった点である。このことを本書全体を通じて十分に味
わいつくしてこそ、先の抜粋は意味をもつし、「火かき棒」が象徴するもの、そし
て「火かき棒」事件に託した著者たちのメッセージが鮮明になる。《大きな問題にたちむかうときは、たんにそれがただしいからと主張するだけでは
たりない。どうしても情熱がいる。いまはもう、そういう知的な焦燥感は霧のよう
にきえてしまった。寛容性、相対主義、自分の立場を決めることをこばむポストモ
ダンな姿勢、不確実性の文化の勝利、これらすべてをかえりみれば、火かき棒のよ
うな事件はもうおこらない。それにおそらく、いまではあまりにも学問の専門化が
すすんでいる。そして高等教育の内部にもあまりにたくさんの運動や分裂がある。
重要な問題は失われつつあるようにみえる。》(366-367頁)●530●アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体
験のブレイン・サイエンス』(茂木健一郎監訳,PHP研究所:2003.3.28)「神経」という語は「神気の経脈」を略して造られた翻訳語で、初出は『解体新
書』。神経すなわち「神気の経脈」を英語に逆翻訳すれば‘spiritual pathway’、
つまり「神の通い路」である。本書の第一の仮説は、スピリチュアルな体験(絶対者との合一体験、超越体験そ
の他の神秘体験)には神経学的な根拠がある──神秘体験は過去の「現実」の出来
事と同じレベルのリアリティをもっているのであって、それは混乱した心の産物(
幻覚や妄想や夢)ではなく、「安定した、明晰な心の中で起きた、適切で予測可能
な神経学的過程の結果である」──というもので、このことを著者たちは「神があ
なたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」とか、
「神が実在し、われわれにその存在を明かす場合、彼が顕現する場所は、複雑に絡
まりあった神経経路か、脳の生理学的構造の中以外には考えられない」といった言
葉で表現している。これはまことに「神経」という語の由来にかなった考え方だ。脳の構造とアーキテクチャをめぐる水際だった解説を踏まえて、まず著者たちは、
先史時代の人類の実存的不安(死への恐怖)から「神話」が創造される神経学的過
程と、神(超越者)との合一や集団の一体感を身体に刻印する「宗教儀式」の発生
過程の生物学的側面を解明する。そして、本書の白眉ともいうべき「瞑想」による
超越体験の脳科学的説明(神秘的合一体験をもたらす神経学的機構は、自己の感覚
を作り出しそれを空間内で位置づける脳の方向定位連合野に情報が入ってこなくな
り、自己と非自己の区別があいまいになることにある)と進化論的説明(神秘的合
一体験の神経生物学的機構は、性的反応のための神経回路の転用によって進化して
きた可能性がある)を経て、最後に「宗教」の起源(神の発見)に迫る壮大な仮説
(神話)をうちたてる。《宗教が誕生するきっかけを作った超越状態が、神経学的にリアルであることに、
ほとんど疑問の余地はない。このような現象が起こり得ることは脳科学によって予
言されているし、われわれを含む複数のグループの画像研究によってフィルムにお
さめられているからだ。この発見は、深遠な疑問を提起する。われわれの神秘体験
は、ニューロンの一時的な激しい発火にすぎないのだろうか、それとも、一般の経
験と同じように、脳は実在する何かを知覚しているのだろうか? 脳は、物質的存
在を超越し、より高次の実在を経験する能力を進化させてきたのだろうか?
神秘家たちはたしかに、そのようなリアリティーを経験したと主張している。そ
れは、われわれが一点の曇りもない信頼を寄せている物質世界よりもさらにリアル
な存在の領域であり、そこには、空間の感覚がなく、時間の経過もなく、自己と宇
宙との間に明瞭な境界がないという。ならば、神がそこに実在する余地は十分にあ
る。
従来の科学と常識は、そんなことはあり得ないと告げていた。実際、われわれも、
「リアルなものはすべて物質世界の中にあり、物質世界よりもリアルなものはない
」という仮定から研究をはじめた。ところが、最新の科学は、われわれを驚くべき
結論へと導いた。それは、神秘家たちは実際に何かと出会っていたのかもしれず、
われわれの心に備わる超越体験のための神経学的機構は、真に神的なものの究極の
リアルさを垣間見せるための窓なのかもしれないという結論だった。われわれをこ
の結論に導いたのは、信仰ではなく、演繹的な推理である。》こうして、著者たちは本書の第二の仮説へと読者を導いていく。それは、「神秘
家たち」の一人であるエックハルトが直観的に理解していた神経学の根本原理の一
つ──「われわれがリアリティーだと思っているものは、脳が作り出すリアリティ
ーの解釈にすぎない」──にかかわるものだ。(「心は脳を必要とし、脳は心を創
造する」。脳の神経活動はリアリティを作り出し、心はそれを解釈する。脳と心は
「同じリアリティーの二つの見方」であり、その関係は海水と波の関係に似ている。
)すなわち、ヒトは絶対的一者との神秘的合一状態へいたる才能を遺伝的に受け継
いでいるのだが、そのためには「心を利用して、心を超越しなければならない」、
つまり「自己の気づきを持たない心」が存在しなければならない。この第二の仮説
から導かれるのは「現実よりもリアル」なものの存在可能性であって、「神の存在
証明」ではない。物質と精神の究極的な一体性そのものでもない。《夢がそれを見る人の心の中にあるように、リアルでないものは、よりリアルなも
のの中にあるにちがいない。絶対的一者が本当に主観的・客観的なリアリティーを
超越しているなら(つまり、自己の主観的な意見や外部の世界よりもリアルである
なら)、自己と世界は絶対的一者のリアリティーの中にあり、ひょっとすると、そ
れによって創造されたのかもしれない。
ここでもまた、絶対的一者の実在を客観的に証明することはできない。けれども、
脳の構造と、何がリアルで何がそうでないかを脳が判断する方法についてのわれわ
れの理解からは、絶対的な高次のリアリティーや力の存在には、少なくとも、純粋
に物質的な世界の存在と同じ程度の合理的可能性が認められると言ってよい。》──実に刺激的な「実験神学」の書だ。本書を読んで私が想起したのは、D.H.
ロレンスが古代ギリシャ人のいうテオス(神)について述べた言葉だった(『現代
人は愛しうるか』福田恆存訳)。ロレンスは、「ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれ
がなんでも神となるのだ」と書いている。たとえば咽の渇きそれ自身が神であり、
「水に咽をうるおし、甘美な、なんともいえぬ快感に渇きが医されたならば、今度
はそれが神となる」。そして「水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、
その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象する」。「だが、こ
れは決して単なる質ではない、厳存する実体であり、殆ど生きものと言ってもいい。
それこそたしかに一箇のテオス、つめたいものなのである。が、つぎの瞬間、乾い
た唇のうえにふとたゆたうものがある。それは《しめり》だ、それもまた神である。
初期の科学者や哲学者にとっては、この《つめたいもの》《しめったもの》《あた
たかいもの》《かわいたもの》などはすべてそれ自身充分な実在物であり、したが
って神々であり、テオイ[神々]であった」。私の勘違いでなければ、ロレンスの
テオス(神)とは本書のリアリティのことであり、監訳者の茂木健一郎氏さんが「
あとがき」で言及しているクオリア(質感)のことである。また、『エックハルト説教集』(田島照久訳)に出てくる「ワインが樽を容れる
のではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその
内に体を保有するのである」という言葉も想起した。本書第3章の注に「物質的な脳とは無関係に存在する「魂」というものがあり、
これを通じて神がわれわれに語りかけてきたとしても、脳が関与していない以上、
認知可能な意味があるとは考えられない」という文章が出てくる。魂のことは神経
学の埒外であるということなのだが、たとえば言語は魂なのではないか。あるいは
言語(魂)を含む物質概念を確立すること、そしてこの「概念を具体的なものに変
換すること、簡単に言えば、現実感や真実味などの性質を付与する」具象化の作業
が、ブレイン・サイエンスの課題なのではないか。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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