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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.155 (2003/03/09)
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 □ 大庭健『私はどうして私なのか』
 □ 野村一夫『インフォアーツ論』
 □ 鈴木道彦『プルーストを読む』
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●519●大庭健『私はどうして私なのか』(講談社現代新書:2003.2.20)

 この人が書いているのは私のことだ。詩や小説を読んでいてそう思う時がある。
そんな思いと出会うことが文学を読むことの意味だと思い込む時期がある。どうし
てこの人は私のことを知っているのだろう。親も友人も恋人も知らない私のことを
確かに分かってくれる人がここにいる。それがある文学者のファンになる読者の心
理だ。あるいは、この人が演じているのは実は私のことだ、自在に複数の人物を演
じわけているその一つ一つが私のヴァリエーションであり私の可能性なのだと思え
ることがある。役者や俳優のファンになるとは、そういう思いにリアリティを感じ
ることである。

 では、ここに出てくる「私」とはなんだろう。それは大庭健さんが本書で批判し
ている「他に同類のない内なる自分」(212頁)──「「無比の個性」の表出に酔
うロマン派の詩人の作品に顕著に表れてきた」願望(213頁)がもたらしたもの、
固有名によって指示される手垢のついた薄汚れた一人物とは独立の「何物によって
も汚染されていない、ピュアな自分」(214頁)──のことなのだろうか。

 そうかもしれない。私探しや多重人格ばやりの近年の社会事象に対する「ジャー
ナリスティック」な「時代批評」(215頁)の観点からは、そう言えるのかもしれ
ない。しかしそうだとしても、そのような意味での「ピュアな自分」は、少なくと
も「〈私〉の存在の比類なさ」(永井均)や「なぜ私は世界にひとりしかいないの
か」(山内志朗)といった哲学的な「謎」をめぐる議論に出てくる「私」とはまっ
たく関係がない。

 大庭さんによれば、私であること、つまり自分を意識するようになることは、他
人とのかかわりや言語の習得と概念的に不可分である。そして、フレーゲに準拠し
ながら、そのようにして成立した自分を共通の指示対象とする固有名(何野誰兵衛
)や記述句(何々をした人)と、「私」という代名詞(指標語)との意義(センス
つまり対象の与えられ方)の違いをめぐる議論を展開する。「内なる自分」とは、
固有名や記述句と指標語の意義の違いを指示対象の違いと取り違えた結果紡ぎ出さ
れたお話にすぎないというのである。

《指標語「私」の指示対象は、自分の死という究極の非在に向かって、他者の経験
という絶対的な非在からのはねかえりの中で、生成し存続する。「私」という指標
語を用いて自分のことを意識して‐いる、という存在は、自分の死・他者の経験と
いう究極の非在のはざまで、時の間・人の間での描写の重なりあいとして析出し、
さまざまな実践的な関係の結び目として存続する。
 このように、そのつどさまざまな思いが、自分の死・他人の経験という非在の両
極のはざまで一つのまとまりを得ていくとき、そうした思いは、「私が思うに」と
いう形をとる。そして「私の思い」と刻印づけられた思いは、そのつど他者にたい
する態度・行為の理由となる。もちろん、「私」という指標語の指示対象は、そう
刻印づけられた思いを抱いている人物、すなわち、そうした思いを理由にして行為
する人物、大庭健である。大庭健とは独立の、大庭の「内なる自分」なるものは、
指示対象と意義をスリかえた所産でしかない。》(211-212頁)

 最後に大庭さんは、「指標語「私」の指示対象は、あなたが言う「あなた」とし
て与えられる」(203頁)のであって、それは他者の呼びかけに対する応答、つま
り「呼応可能性という意味での、責任の主体としての、この私」(223頁)のこと
であると議論を進めていく。

 私は、本書での大庭さんの議論にほぼ同意できる(正確には、そんなこと言われ
なくても判っている)。そして、その上でもう一度確認しておきたいのは、大庭さ
んの議論は──「私」という語の指示対象と意義のスリかえに気づかぬまま「ピュ
ア」を気取ることが、「八○年代以降の、…粗野にはオウム、繊細には独我論、と
いった一連の事象」とほとんど同根だ(215頁)というときに念頭におかれている
のだろう──永井均さんの「独我論」や、山内志朗さんが『ライプニッツ』で論じ
ていた「孤独なモナド」の問題とはまったく関係がないということだ。(私見では、
少なくともドイツの初期ロマン派の詩人の作品に顕著に表れている「願望」を、そ
れは私のものだと思う読者の感覚ともたぶん関係がない。)

 保坂和志さんは『言葉の外へ』に収められたコラムの中で、「言語哲学というの
は理屈の勝った子供がそのまま大人になったようなもので、明らかに間違っている
ことは誰にでもわかるけれど、その間違いを指摘するとなると骨が折れる」(16頁
)と書いている。「分析哲学にいかれた」大庭さんが「言語の哲学・思考の哲学に
棹さして考えることに徹した」(226頁)という本書を読んで、実は私もこれに似
た感想を得た。

 でも、大庭さんの議論が「間違っている」とは思わない。むしろ、大庭さんは「
自分の死・他者の経験という究極の非在のはざま」で思考を営み、その全プロセス
を言葉で叙述することで、そのような営みがそもそもいかにして成り立っているの
かという問い、つまり「私」を含む世界の存在構造の謎という哲学の問いが発生す
る現場を地均ししているのだと思う。それどころか、そのような問いを問うことの
意味が、実は「謎を生きること」そのものであることさえ示唆している。

 もし「間違っている」としたら、それは本書がすぐれた「時代批評」の書(もし
くは擬似哲学退治の本)であってそれ以上ではないことを、大庭さん自身が気づい
ていないことだろう。

●520●野村一夫『インフォアーツ論 ネットワーク的知性とはなにか?』
                     (洋泉社新書y079:2003.1.22)

 インターネットを始めたばかりの頃は、見知らぬ他人から届いたメールの言葉に
過敏に反応した。微妙な非難や悪意のニュアンスを嗅ぎとったときの、心の襞の奥
深くに浸透していくあの嫌な感じ。他人の敵意が生のカタチで、むきだしにされた
裸の心につきささっていくようなショック。質料ぬきの形相そのもののような、こ
れまで決して接することのなかった他人の生の声がメールの文章には託されていて、
それが防御のしようのない凶器のように思えたものだった。その反面、善意や好意
のこもった言葉には、わけもなく有頂天にさせられた。それはまるで使徒が伝える
福音(グッド・ニュース)のように私を更新し、ひととき素直で幸福な気分にして
くれた。

 今ではすっかり鈍感になって(ネット社会の「モナド」として一人前になって?
)、メールの言葉が凶器になったり福音になったり、メビウスの輪のように反転す
ることはほとんどなくなった。──社会学サイト「ソキウス」の作者として、イン
ターネット初心者時代の私にとって「神々」の一人だった野村さんが、本書の第一
章と第二章で縦横に論じている「ネットの言説世界」の表目=光(市民公共圏)と
裏目=影(ことばの市場経済)の対比は、これとはもちろん別の次元の話だけれど、
経験者なら誰でも事実として知っているネット社会の実相を鋭く鮮やかに記述した
出色の社会学的エッセイである。

 とりわけ、マス・コミュニケーション理論(「沈黙のらせん」「培養効果」等々
)を応用して、マス・メディアとしてのネットの影響力を分析した第二章後半が新
鮮で説得力に富んでいるが、なんといっても本書のハイライトは、ネット社会の影
を光へと転じる情報教育のあり方を論じた第三章(インフォテック=情報技術の原
理に基づく「情報工学帝国主義」批判)と第四章(インフォアーツ=情報学芸力=
ネットワーク的知性の原理に基づく「眼識ある市民」論)にある。続く第五章と第
六章は、それぞれインフォアーツ的な情報主体論と情報環境(共有地)論である。

《…私は何も情報工学やリベラルアーツがいらないと言っているのではないし、否
定するつもりもない。結論から言えば、図と地の転換が必要なのである。つまり、
現在はインフォテックという画用紙(=地)にユーザーの情報能力(=図)を描い
てしまっている。図と地の関係が逆転しているのだ。インフォテックに適応する能
力開発ではなく、インフォアーツのための「わざ」をこそ構想すべきではないのか。
インフォテックは、あくまでもその「わざ」の一選択肢にすぎないことを明確にし
ておきたい。》(112-113頁)

 これは「技術がひそかに内包する技術的思考」(190頁)に批判的に対峙しようと
する人文的知性の言葉であり、本書は21世紀の新しい「文献学」の宣言である。

●521●鈴木道彦『プルーストを読む──『失われた時を求めて』の世界』
                     (集英社新書175:2002.12.22)

 私はちくま文庫版の井上究一郎訳全十巻を七年越しで読んでいる。いまちょうど
第七巻、第四編「ソドムとゴモラ」の第三章を読み終えようかというところで、ア
ルベルチーヌの妖しい魅力にすっかり心を奪われている。数か月集中して読んでは
中断し、また数か月後に再開するという、いたってだらしない読み方なのだが、離
れていても心のどこかでゆっくりと物語は熟成していて、再開が再会につながる不
思議な読書体験はこれまで味わったことがない。

 鈴木氏の優雅で品格のある文章で綴られたこの書物は、随所に挿入された流麗な
訳文と響き合って、しばし陶酔の時を与えてくれた。プルーストの豊饒で奥深い世
界から、まるで壊れ物のようにいつくしみながら切り出された素材(たとえば想像
力と知覚の関係)や人物(たとえばスワンやアルベルチーヌ)と鈴木氏との「魂の
交流」の一部始終が記された日記、あるいは魂の蘇りの秘儀の全過程を細大もらさ
ず丹念に書きとどめた覚書、そのような秘められた文書を盗み読みしたような、あ
たかも鈴木氏の精神生活をついうっかり覗き見したような後ろめたさを覚えさせら
れるほどの愉悦。

 生涯をかけて一つの文学作品を読み続けるという生き方がここにはあり、それは、
すべてが最終章で再び見出されるこの書物の構成自体がプルーストの未完に終わっ
た「虚構の自伝」を反復・模倣するものであったように、鈴木氏もまた『失われた
時を求めて』を書き続けていた作者の一人だったということだ。そしてそのことは、
「真の生、ついに見出され明らかにされた生、したがって十全に生きられた唯一の
生、これこそ文学である」というプルーストの究極のテーゼへと通じている。

 私もまた鈴木氏にならって、プルーストの次の言葉の引用をもってこの賞讃の辞
を終えることにしよう。《一人ひとりの読者は、本を読んでいるときに、自分自身
の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっ
きりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない。》

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