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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.154 (2003/03/08)
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 □ 山内志朗『ライプニッツ』
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●518●山内志朗『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』
           (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.1.25)

(その1)
 ライプニッツは当時発明されたばかりの顕微鏡を覗き、池の水の中にたくさんの
プランクトンが泳いでいるのを知って、「宇宙は生命に満ちあふれている」と感動
した。モナド(この世に一つしかない「単純な実体」)の概念はこの体験から生ま
れたもので、イメージとしては「細胞」に近いと山内氏はいう。「モナドという考
え方は、おそらく身の回りの無機物にも生命を見いだそうとする発想、つまり生気
に満ちた世界観から生まれた」。「モナドは、その本性が力であって、手応えがあ
り、直接的で、リアルで、生気に満ちた世界の見方から生まれたはずだ」。

 それなのに、と山内氏は続ける。「予定調和説になると、夢見がちで、間接的で、
観念論的な世界に陥ってしまう」。ライプニッツのモナド論的世界観の「特異な特
徴」は、「モナドは窓を持たず、他のモナドに観念的な作用しか及ぼさないが、実
在的な絆がある」とする点にある。たとえば、「ヨーロッパにいる妻が亡くなった
場合、インドにいる夫は男やもめになるが、その際、彼には実在的変化が生じる」
とライプニッツはいう。「実在的変化」とは「リアルな変化」ということだが、こ
れは「不思議な考え方」だ。ライプニッツの持っていたリアリティの感覚は現代の
常識人とは異なっている。「私は、時々ライプニッツは希薄なリアリティの中で喘
いでいる孤独なモナドなのではないかと思ってみたりする」。

 モナドの「直接的で、リアルで、生気に満ちた世界」と、モナド相互の実在的な
絆(予定調和)がもたらす「夢見がちで、間接的で、観念論的な世界」との齟齬。
この二つの世界を結びつけるために、山内氏が導入したのが「濃度=強度」の考え
方であり、モナドを〈自分〉(「実存的不安」に震える私)のことだとする視点で
あった。

 モナド相互の実在的絆とは、無限なる宇宙がモナドの襞の中に「渾然と」与えら
れ、その宇宙が「地平」として存在していることだ。その地平には「寄せては返す
波のような、濃淡のきらめき」がある。そして〈自分〉は、地平の中心部の「最も
際立った濃度のところ」に現れる。では〈自分〉とはどういうものか。ライプニッ
ツによれば、それは自覚・反省作用、すなわち〈自分〉で〈自分〉を考えるという
ことであり、「さらに〈自分〉を世界にただひとりしかいないものとして見いだす
ことだ」。

 そうだとすると、この世に一つしかないモナドの唯一性と〈自分〉としてのモナ
ド(希薄なリアリティの中で喘いでいる孤独なモナド)の唯一性との違いは何か。
後者は、時空規定の唯一性によって条件づけられるもの(なぜこのフジツボは世界
に一つしかないのか)とは別の種類の唯一性である。すなわち〈今・ここ〉に存在
することの「偶然性」を基礎として、そこから形成される唯一性のことである。

 ライプニッツは生涯を通じて、人間の意思の自由の前提となる「偶然」を解明し
ようとした。偶然性とは「反対が可能なこと」であって、現実とは生まれざる無数
の可能なものから生じてくる。だから〈自分〉の唯一性を問うことは、事実の次元
(そこでは既に偶然性、同一性、唯一性が与えられている)を支える「根拠」への
問いにほかならない。

《「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」を問うとき、この〈自分〉は、世界に
埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その唯一性が意味を持つ
ような存在者としてある。求められている唯一性とは、唯一性を考える唯一者のう
ちに現れてくる唯一性なのである。/簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひ
とりしかいないのか」という問いの答えは、その問いを行っていることそのものな
のである。》

 こうして山内氏は、モナドの概念、予定調和説とともにライプニッツ哲学の三本
柱をなす最善説(オプティミスム)の読みかえを行ってみせた。それは、答えのな
い哲学の問い(謎)を生きること、すなわち自由であることの実質を表現するぎり
ぎりの思想だったのである。《〈謎〉は〈謎〉のままであり続けるべきだ。〈自分
〉が〈謎〉ではなく、〈謎〉が解明されてしまうのは、〈謎〉を問う人間が存在し
なくなったときである。》
 

(その2)
 モナドの概念、予定調和説、最善説(オプティミスム)。ライプニッツ哲学の三
本柱をなすこれらの思想のうち、若き日の著者は第三の最善説に賛同できなかった。
「人はひとりぼっちで死んでいく」というパスカルの言葉のうちに深い真理と出会
い、実存的不安のどしゃ降りの中にいた青年山内志朗にとって、「この世は神が造
ることができた世界の中で最善のものだ」という脳天気で出来の悪い笑い話のよう
な説はとうてい受け入れられるものではなかった。

 しかし、ドイツ国内を荒廃と疲弊に陥れた三十年戦争(1618〜1648)のさなか、
到るところで略奪、暴行、虐殺が行われ、人口が激減した悲惨な時代を生きたライ
プニッツ(1646〜1716)の本意が、そのような「楽天主義」の表明にあったはずは
ない。青年時代の不安をかかえたまま「叙情」派哲学者へと成長した著者は、今そ
う考えている。戦争の惨禍の残る風景を前にして、万能の神が「愚かな戦争とテロ
の止むことのないこの世界」を最善と考えて造ったと語ることの狙いを考えるべき
だと。

 こうして著者は、ライプニッツと同時代を生きる〈自分〉をモナドととらえるこ
とを出発点にして、最善説をめぐる独自の読み替えを試みた。ライプニッツの哲学
を荒唐無稽な「形而上学的お伽噺」にしないためにも、パスカルの実存的不安に深
い共鳴を表したライプニッツの思想を〈自分〉と関連づける道筋をみつけておく必
要があると考えたのだ。

 ここでいう「同時代」とは、「愚かな戦争とテロ」云々に尽きるものではない。
本書の最終局面でそのほんとうの意味が明らかにされる「なぜ私は世界にひとりし
かいないのか」という〈謎〉(enigma)が成り立つ条件、根拠の共有、あるいはそ
のような答えのない哲学の問いをライプニッツとともに生きることそのものをいう。

 ──以下、ライプニッツの思想を語りながら自らの思想(「濃度の思想」あるい
は「リアリティと普遍をめぐる哲学」とでも名づけようか)を重ね書きしていく著
者のリリカルな超絶技巧が生み出した世界を、箇条書き風に抜き書きしておこう。
(残念ながら、山内氏の議論がたたえている「コク」を伝えることはできないが。)

 その一、モナド=細胞説、あるいは顕微鏡の哲学。

 モナド(部分をもたない単純な実体)とは「生命と力を有し、この世に一つしか
なく、分解もできないもの」のことで、イメージとしては「細胞」に近い。ライプ
ニッツは当時発明されたばかりの顕微鏡を覗き池の水の中にたくさんのプランクト
ンが泳いでいるのを知って、「宇宙は生命に満ちあふれている」と感動した。この
ことがモナドを考えたことの一因なのではないか。(一なるモナドの中には多なる
ものが含まれている。これを表現するのが表象なのだが、それは我々の意識に上ら
ない無数に多くの「微細表象」から構成されている。そのようにライプニッツが語
るとき、ここにも顕微鏡の哲学の痕跡があるのではないかと思うが、これは山内氏
の議論ではない。)

 その二、モナドの唯一性、あるいはどこにでもありながら特殊なもの。

 ライプニッツはモナドをいわば「小さな私」として捉えている。それは生物にも
無生物にも宿る「魂」みたいなもので、縄文人の心があればモナドは案外分かりや
すいものだろう。そして、心もまた細胞のように閉じている(窓がない)。細胞=
魂=心=〈自分〉としての各々のモナドは、「区別不可能性=同一の原理」(一般
には「不可識別者同一の原理」)によって他の各々のモナドとは異なっている。各
々のモナドは「どこにでもありながら、きわめて特殊な存在者」である。存在する
ものはすべて内的差異を有する。モナドの唯一性とは、そのような事態をいうので
ある。

 その三、予定調和説、あるいは万物の実在的変化という不思議な考え方。

 モナドの唯一性を生み出すのは、実はモナド相互の絆である。それは「区別不可
能性=同一の原理」が実は他のモナドとの関係を含むものであったことからくるも
のだ。この「実在的な絆=事物相互の結合」こそライプニッツ哲学の要であるとい
ってもよい。それは感覚できるようなものではなく、言語・記号を分析していって
初めて姿を現すもの(「パリスは愛している、そしてその限りでヘレナは愛されて
いる」という文中の「その限りで」が表す関係性)である。「ヨーロッパにいる妻
が亡くなった場合、インドにいる夫は男やもめになるが、その際、彼には実在的変
化が生じる」とライプニッツはいう。「実在的変化」とは「リアルな変化」という
ことだが、不思議な考え方だ。ライプニッツの持っていたリアリティの感覚は現代
の常識人とは異なっているのだ。「私は、時々ライプニッツは希薄なリアリティの
中で喘いでいる孤独なモナドなのではないかと思ってみたりする」。

 その四、無限を孕んだモナド、あるいは内部の濃度=強度を高めること。

 モナド相互の絆とは、無限なる宇宙がモナドの襞の中に「渾然と」与えられ、そ
の宇宙が「地平」として存在していることである。その地平には「寄せては返す波
のような、濃淡のきらめき」がある。そして〈自分〉は、地平の中心部の「最も際
立った濃度のところ」に現れる。では〈自分〉とはどういうものか。ライプニッツ
によれば、それは自覚(反省作用)である。ライプニッツは、この「自覚」という
概念を初めて哲学の世界にもたらした。自覚・反省作用は空虚な自己関係ではない。
「では、〈自分〉で〈自分〉を考えるとはどういうことか。〈自分〉を見いだすこ
ともそこに含まれるだろうが、さらに〈自分〉を世界にただひとりしかいないもの
として見いだすことだ」。

 その五、根拠を問うモナド、あるいは哲学的問いを生きること。

 自覚・反省作用をもったモナドの唯一性、つまり〈自分〉が唯一であるとはどう
いうことか。それは時空規定の唯一性によって条件づけられるもの(なぜこのフジ
ツボは世界に一つしかないのか)とは別の種類の唯一性である。すなわち〈今・こ
こ〉に存在することの偶然性を基礎としてそこから形成される唯一性のことである。
ライプニッツは生涯を通じて、人間の意思の自由の前提・条件となる「偶然」を解
明しようとした。偶然性とは「反対が可能なこと」であって、現実とは生まれざる
無数の可能なものから生じてくる。だから〈自分〉の唯一性を問うことは、事実の
次元(そこでは既に偶然性、同一性、唯一性が与えられている)を支える「根拠」
への問いにほかならない。「内なるものが外に現れ、また内在化されるということ、
これは事実の反復ではなく、事実を超えて、新たな事実を引き起こしていくことだ。
この事実/新たな事実の間の差異を差異たらしめているのが、「なぜ」と問うこと、
つまり「根拠」を求めることだと私は思う。「私とは何か」を問うことで、なぜ私
がそういう問いを問うているのかが見えてくるのだ」。「「なぜ私は世界にひとり
しかいないのか」を問うとき、この〈自分〉は、世界に埋没して存在するのではな
く、唯一性を反省する限りで、その唯一性が意味を持つような存在者としてある。
求められている唯一性とは、唯一性を考える唯一者のうちに現れてくる唯一性なの
である」。「簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」と
いう問いの答えは、その問いを行っていることそのものなのである」。

 最後に。本書の魅力の一つは、著者の哲学観の表明にある。

 「私は哲学を分かりやすくしたいとは思わない。哲学とは概念を暗記したり、頭
で考えるものではないと思うからだ」。「分かりにくい概念から学び始めるのは、
哲学の学び方として大事なことだ。素読と同じで、頭で分かってから覚えるのでは
なく、〈形〉だけを取り込んで体で覚え、その後で頭で分かるという道もあるのだ
」。「二項対立に躓いてみなければ話が始まらない。二項対立の枠組みには欠点が
あるけれども、避けることはできないし、避けるべきでもない。躓き、転んでみて、
初めて哲学が始まるのだ」。「理解できないことは存在しえない事柄であると言え
るならば、哲学は学ぶ必要もない学問となるだろうが、考えても分からないこと、
解明できないことがあって、しかもその辺りにありふれているからこそ、哲学も必
要なのだろう。そして、私が存在することも生命を有することも、ありふれている
けれども、理解の中に取り込めえないから、問い直していく必要がある」。「哲学
的問いは、ほとんどすべてが〈謎〉の形式になっている。答えを得て、分かったと
いう人間は、その問いをまったく理解していないことが判明するだけだ。〈謎〉は
〈謎〉のままであり続けるべきだ。〈自分〉が〈謎〉ではなく、〈謎〉が解明され
てしまうのは、〈謎〉を問う人間が存在しなくなったときである」。

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