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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.153 (2003/03/01)
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 □ 中沢新一『愛と経済のロゴス』
 □ ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』
 □ 池澤夏樹/本橋成一『イラクの小さな橋を渡って』
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●515●中沢新一『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュV』
                  (講談社選書メチエ260:2002.6.10)

 これは個人的な事柄でしかないのですが、「カイエ・ソバージュ」シリーズはい
つもきまって海外の新作小説と並行して読んできました。

『人類最古の哲学』のときはミシェル・ウエルベックの『素粒子』、『熊から王へ
』の場合はル・クレジオの『偶然』、そして『愛と経済のロゴス』はドン・デリー
ロ『ボディ・アーティスト』といったぐあいで、『素粒子』はカイエ・ソバージュ
全五作に共通する序文のなかでも引用されているので関係は明白ですが(人類の思
考が超越性の次元に達した「第一次形而上学革命」という「カイエ・ソバージュ」
シリーズのキモになる言葉はウエルベックの小説に由来する)、後の二冊について
はそれこそ偶然たまたま併読したにすぎないのになぜかそれぞれに深く響きあうも
のがありました。たぶん気のせいだとは思いますが、この偶然をしかけたのは私自
身の無意識に違いないなどとちょっとびっくりしたものです。

 どこがどう響きあっていたのかを説明もしないで独り勝手にびっくりしていても
しょうがないので、せめて『愛と経済のロゴス』と『ボディ・アーティスト』に通
底するもの、私がみるところではそれは「身体と時間と言語」というなにやら拍子
ぬけするくらい平板なものでしかありませんが、このことについて考えをめぐらせ
るための手掛かりくらいは後の考察のために残しておきたいと思います。

 三つのもの、輪でも星でもなんでもいいし具象物や具体的な出来事でなくて想像
物や観念形象のようなものでもかまいません、この三つのものをかりにA、B、C
と名づけ、それらに「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」がなりたっているものとしま
す。ここで「⇒」と表示した関係は「A⇒B」がなりたつときは「B⇒A」はなり
たたないという約束に反しないかぎり、何を想定してもかまいません。たとえば「
右側にあるものは左側にあるものより弱い」とすれば先の三つの関係はジャンケン
に典型的な三すくみの関係をあらわしていますし、「⇒」を「<」に置きかえれば
形式論理上の矛盾をきたしてそのような三つ組の数は存在しえなくなります。

 ここで「⇒」は「右側にあるものは左側にあるものから発生する」を意味してい
るものと考えます。そうすると先の三つの関係のうち任意の二つは同時になりたち
ますが三つが同時になりたつということはちょっと想定しがたいですね(子供が実
は先祖さまの生まれ変わりだとすれば話は別ですが)。

 部分部分はなりたつがそれらの全体を一挙に思惟することはできない。それは(
『はじまりのレーニン』で中沢氏によって聖霊論的にとらえられた)ヘーゲルの論
理学の世界であり(同じく『緑の資本論』でイスラームとの比較で論じられたキリ
スト教的一神教の)三位一体の論理であり、かつまたエッシャーの不思議な階段で
ありペンローズの三角形(あるいは『心の影』で図示された「プラトン的世界⇒物
理的世界」「物理的世界⇒心的世界」「心的世界⇒プラトン的世界」)であり、そ
してジャック・ラカンのボロメオの結び目(心の構造をあらわすトポロジー)その
ものでもあります。

 このような関係こそ中沢氏が本書でいうところの「愛」や「経済」が一つに融合
している「全体性の運動」にほかなりません。そうした「全体」がなりたつように
働いている力が「ロゴス」(世界をかたちづくっているさまざまなものごとがバラ
バラにならないよう根本のところでとりまとめる能力)なのです。

 実は以上に述べたことが本書の、というよりはおそらく「カイエ・ソバージュ」
シリーズ全体の核心です(というのも超越性は「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」と
いう「全体性の運動」のうちにしっかりととらえられていますから)。あとは「A
=贈与・子・想像界」「B=交換・父・象徴界」「C=純粋贈与・聖霊・現実界」
と置きかえて、経済学的思考と神学的思考と(中沢氏によれば愛を直接の対象とし
た唯一の学問である)精神分析学的思考が交錯しかつマルクスやらワグナーやらが
面目を一新する装いで登場する中沢氏のスリリングな語りにわくわくと身をゆだね
ひととき言葉と時間を失ってみることです。

 最後に、これは中沢本を読んでいていつも思うことですが、中沢氏が語っている
のは結局はいつも同じことの繰り返しです。まさに「寄せては返す波の音」で、中
沢本の魅力に通じるこの言葉は山本夏彦氏の本に出てきます。

●516●ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』
                    (上岡伸雄訳,新潮社:2002.12.20)

 まるでサンスクリット語で書かれた文章を直訳で読んでいるような感じ。パフォ
ーマンス・アーティストのローレンが歳の離れた夫で映画監督のレイとすごす最後
の朝(というのも夫はその後、最初の妻のアパートで自殺をしてしまうから)の奇
妙にズレた会話をえがく第一章を読みながらそんなことを漠然と考えていました。

 といってもサンスクリット語のことなど何も知らないのだから、これは無責任な
言いかたですね。なにかの本で読んだと記憶しているのですが「彼は使者としてか
の地に赴いた」をサンスクリット語では「彼は使者性を帯びてかの地に赴いた」と
表現するのだそうです。言うまでもなく「彼」とか「あなた」という言葉のなかに
は現実の「彼」も「あなた」も居るはずはないのであって、つまり言葉はもともと
抽象的なものだし「世界」を出現させる力などもたず、だから人はけっして言葉で
愛を確認したりコミュニケーションをはかっているわけではない。最後の朝のロー
レンとレイのように。

 でも皮肉なことに、独り残されたローレンは夫と暮らしていた家(「海辺に孤立
して」建っている家)にいつのまにか住みついていた「彼」──「時間を確実な連
続性の中に存在するものとして思い描くことができ」ず「未来を記憶している人間
」である彼、まるで異邦人かエイリアンのように奇妙な文法をもって歌うように語
り(「月光を意味する単語は月光」)、あるいは語るというより鸚鵡かテープレコ
ーダーのように他人の言葉を一字一句違わず仕草まで真似しながら繰り返す「彼」
──の口からもれる亡き夫の声に生きたレイとのコミュニケーションの回路をみい
だすのです(「これは死者との交信とは違う。これは生きたレイだ、この会話を通
して生かされたレイ」)。

 ただしその言語=声はどこでもない場所からではなく、ほかならぬローレン自身
の身体から出てくるものです(「身体が空洞であるかのような声」)。

《それは真実ではない、なぜなら真実ではあり得ないから。レイがこの男の意識の
中に生きているはずはない。この男の言語体系の中に。歩いたり話したりする連続
体[コンティニュアム]の中に生きていることなどあり得ない。
 かっこいい言葉だ。どういう意味なのだろう?
 それは連続しているひとつの物、連続して続いている物の全体を表わしている。
彼女はそう思った。そしてある一部分と他の部分、これとそれ、現在と過去を分け
る方法は、自己の判断で分断することしかないのだ。
 これこそ、彼の能力に欠けている点なのである。
 彼女は身体のワークアウトをしていた。冷たい床にうずくまり、自分心の匂いを
嗅ぐ。
 しかし、こんなことは真実であるはずがない。彼が時間の論理に支配されず、ひ
とつの現実から別の現実へと移動できるなんて。こんなことは不可能だ。人は時間
から作られている。それはあなたが何者かを語ってくれる力なのである。目を閉じ
れば、あなたは時間を感じる。時間こそ、あなたの存在を定義する。
 しかし、このことこそが肝心な点なのだ。彼がどういうわけか他の存在の範囲内
へと、他の時間生命へとはみ出していき、染み込んでいくこと。それこそが彼の混
乱と苦痛の一側面となっている。》(111頁)

 ──こうして「彼」との出会いを通じてローレンは「自己の輪郭に合わせて作ら
れた状態にただ入っていくのではなく」「自分自身で未来を築きた」いと願うよう
になっていきます(「そこには物語がある、意識と可能性の流れが。そして未来が
生じる」)。そして友人のマリエラが「それは両性ともに包含し、名のない数々の
状態を表わす」と評した身体を獲得し、「他人になるプロセス」と評したボディ・
アートを完成していくのです。

 身体のワークアウトを通じて物語と時間を、つまり言語を更新すること。もちろ
んドン・デリーロがこの作品で達成した水準をその程度の言葉でくくることなどで
きません。(最後にひとつだけ。三人称で綴られる作中ときおり「あなた」と呼び
かけられるのはもちろんローレンですが、同時にそう呼びかけるのもローレンその
人ではないか。「空洞」となったローレンの身体のなかでこの「あなた」はローレ
ン自身の残響としてこだましているのではないか。)

●517●池澤夏樹・文/本橋成一・写真『イラクの小さな橋を渡って』
                           (光文社:2003.1.25)

 戦争とは、人が死ぬことだ。「ミサイルと爆弾で即死する者もいるし、食料や水
や薬品の不足からゆっくりと死ぬ者もいる」。実際に死ぬのは、抽象的な記号や数
字ではなくて、「ミリアムという名の若い母親」と「その三人の子供たちであり、
彼女の従弟である若い兵士ユーセフであり、その父である農夫アブドゥルなのだ」。

 戦争のリアリズムを、つまり、やがて殺されることになる人々とその暮らしをあ
らかじめ肉眼で確認するために、池澤夏樹さんはイラクの地を訪れた。ハトラとい
う北方の遺跡を出て国道に戻る途中、「小さな橋を渡った時、戦争というものの具
体的なイメージがいきなり迫ってきた」。想像力を封殺し、人を殺す技術を精錬さ
せた現代の戦争から、すっぽりと抜け落ちてしまった情景がそこにあった。「そし
て、この子らをアメリカの爆弾が殺す理由は何もないと考えた」。

 文章は「かつて」と「やがて」を、写真は「いま」を刻印する。その「いま」は
「かつて」と「やがて」を交錯させ、あらかじめ忘却された記憶をもう一つの「い
ま」へとつないでいく。優れた作家とカメラマンの手になるこの小著は、読者を旅
へと誘うだろう。想像力と感受性の鍛錬のフィールドへと。

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