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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.151 (2003/02/08)
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 □ 内田樹『期間限定の思想』
 □ 斎藤美奈子『文壇アイドル論』
 □ 鹿島茂『解説屋稼業』
 □ 鹿島茂『文学は別解で行こう』
 □ 坪内祐三『文庫本を狙え!』
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●505●内田樹『期間限定の思想──「おじさん」的思考2』(晶文社:2002.11.10)

 おじさんは断定しない。だって、おじさんは大人だから。大人とは、事実と理念
を「折り合わせ」、矛盾した要請に「同時に」応え、それに「引き裂かれてある」
ことを常態とする存在者である。大人は「自立しつつ依存している」おのれのあり
方への徹底的な知的反省の人である(23頁)。

 たとえば、おじさんは臆面もなくラカンの請け売りをする。断定とはつねに「他
人の言葉」の繰り返しでしかない。ラカンはそう言った。「自分の感覚」に基づい
て「ほんとうのこと」を言おうとする人間は、「断定する人間」を前にして政治的
に敗北するしかない。「だって、何言ってるんだか、分からないんだから」(57頁
)。要するに、「何でも断定的に語るやつはバカだ」。おじさんはそう断定する。
そしてその断言が他者に達しようとする刹那、間合いを見きって、いまのはラカン
の請け売りさ、とネタばらしをする。おじさんは含羞とユーモアの(つまり、自分
との間合いを見きっている)人でもある。

 おじさんはまた、身をもって「現代思想」を生きる。だから、村上春樹の物語群
はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語
っているのであって、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが「気分
のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」を知るのだと、一刀両断に喝破する。

 以上は、紙上の女子大生相手にくどくどと(失礼)説教をたれる第一章「街場の
現代思想」のほんのさわりで、あいかわらず論理の達人の冴えは鋭い。(随所に挿
入されたアジサカコウジの4コマ漫画も冴えている。これは本書の見所の一つ。)

 以下、「時評的子ネタ集」の第二章「説教値千金」、自書解説やらエッセイやら
本音インタビューをこまめに集めた第三章「私事で恐縮ですが」と、おじさんは縦
横に期間限定・地域限定の思考を繰り広げる。「では、沈黙するおじさんになりか
わってウチダがご説明致しましょう」(132頁)と、しゃしゃり出る(失礼)。

 いたる所に、値千金の名句、警句が鏤められている。次の言葉など、かの中村天
風の七つの諫め──「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言う
な(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」(176頁)──に匹敵する
「極意」だと思う。

《相反する二つの力が一つのシステムの中で同時に作用するとき、そのシステムそ
のものがすごいエネルギーを放出する。バレエや仕舞のもたらす美的緊張感という
のも、本質的にはそういうものだと僕は思っています。》(230頁)

 世に正解はなく、意味などない。あるのはただ「他者に向き合うしかた」のみ。
真正の知的緊張と美的緊張が漲る、鮮やかな「オジサネスク・シンキング」の書。

●506●斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店:2002.6.26)

 「なぜ彼らは春樹について語らずにはいられなかったか」。斎藤美奈子さんは、
村上春樹論をRPG(ハルキ・クエスト)に準えてその推移をたどってみた。まず、
喫茶店での雰囲気批評(レベル1)からパズル解き(レベル2)へ、そして、「村
上文学は、じつはゲームソフトそのものでした」(レベル3)から「もはや批評と
いうより攻略本」(レベル4)へ。

 結論。村上作品は、構造主義批評やポスト構造主義批評が流行した八十年代の「
思想的退校」のなかで、「謎解きの手腕を発揮したくてウズウズしていた若手批評
家」に恰好の材料を提供し「読者に参加を促すインタラクティブなテキストであっ
た」。つまり「村上春樹をめぐる批評ゲームは「オタク文化」のはしりだった」。

 吉本ばななの消費のされ方は、村上春樹に似ている。シロウトとクロウトの両方
に支持されたのだから。でも、春樹論が批評家の裏読み合戦にエスカレートしたの
とは異なって、彼らが興味をもったのは「なぜ吉本ばななは受けるのか」というこ
とだった。でも、「男の子の世界」には通用したゲームの攻略は、吉本ばななには
通用しない。なぜなら、彼女は「おんな子どもの国」(少女限定文学界)から「大
人の男の国」へ越境してきたエイリアン、魔法使いサリーだったのだから。

《「マハリク・マハリタ」と少女文学界の呪文をかけた途端、そろって討ち死にし
た大人のインテリたち。村上春樹の「間テクスト性」に傾けたあの情熱の、一○の
一ほどでも吉本ばななに回していたら、というか近代の底に流れる少女カルチャー
という地下水脈に気づいていたら、あれほどマヌケな、いやご苦労様な「分析」に
七転八倒しなくてもすんだのではないでしょうか。》

 村上龍もまた、シロウトにもクロウトにも受ける作家であって、「両村上」とい
う言葉があるくらい村上春樹とはまるで双子の兄弟のように引き合いに出される。
そこで斎藤美奈子さんはひとつの問いをたてる。「もし龍か春樹のどちらかが「村
上」じゃなかったらどうだったのか」「村上春樹が村上春子という女性作家だった
らどうなるのか」「村上龍と対比されるべき対象は、村上春樹ではなく、田中康夫
であってもよかった」のではないか。

《それはおそらく彼らが「時代」に引っぱられている証拠です。…要するに、村上
龍の小説がテレビのワイドショーなら、両村上比較論に淫した批評はワイドショー
のコメンテーター的なのです。/コメンテーターの力は強し。経済を書けば経済学
者がお墨付きを与えてくれ、中学生の反乱を書けば文部科学省の官僚が太鼓判を押
してくれ、ともかく何かしらん書けば文芸批評家が(双子の兄弟と勝手に引き比べ
て)君は動物的だ、覚醒的だ、歴史を知っているとほめてくれる。おかかえコメン
テーターの深読みが村上龍ワールドを支えてきたという面は確実にある。》

 とうとう批評家は、ワイドショーのおかかえコメンテーターにされてしまった。
──八十年代の「文学バブル」と「オンナ」と「知と教養のコンビニ化」の時代を
(読者やコメンテーターたちとともに)駆け抜けたベストセラー作家やフェミニズ
ムの騎手や知の巨人を俎上にのせたこの「作家論」論にして社会現象としての文学
論の書を通じて、斎藤美奈子さんは後戻りのできない批評の基準点をつくってしま
った。

●507●鹿島茂『解説屋稼業』(晶文社:2001.8.10)

 書評や批評、雑文、エッセイの類と、文庫本や翻訳書などの最後にくっついてい
る解説との違いは何か。鹿島氏は自らたてたこの問いに、身も蓋もない答えをあた
えている(本書末尾に添えられた「解説屋の解説」)。いわく、解説は実入りがい
い。だから、「解説という制度は確実に、批評家やエッセイストの糊口の資を増や
しているのだ」。

 しかし、その分、解説は報われない。それはあくまで「添え物」で、だから、書
評集はあっても解説およびそれに類する文(PR誌用の文章など)ばかり集めた本
は刊行されたためしがない。解説屋を自負する鹿島氏は、そこに拘った。で、出来
上がったのが、東海林さだおの『行くぞ! 冷麺探検隊』からアルフレッッド・フ
ィエロの『パリ歴史事典』まで、計36本の解説を収めたこの本だ。

 夢枕獏の『あとがき大全』を「前代未聞の書」と評したのは北上次郎氏だが、そ
のでんでいくと、これなどはさしずめ「古今東西空前絶後の書」であろう。なぜか
といって、解説という「日本独自の文学的制度」が発達をとげ、ジャンルとしての
歴史を経るうちにおのずと培ってきた「解説なりの文法」ともいうべき四箇条をは
じめて摘出したのが鹿島氏で、あまつさえ芸と技と解説屋魂をもってそれを実践し
つくしてしまったのだから。

 私は、『『パサージュ論』熟読玩味』を読んで以来、鹿島茂の文章のファンにな
った。考えてみると、あの本にしてからが、文人・ベンヤミンの遺稿『パッサージ
ュ』の未完の巻末に添えられた長い解説だったのかもしれない。

●508●鹿島茂『文学は別解で行こう』(白水社:2001.3.25)

 文学と経済は不即不離である。そんなことすら弁えぬ文学愛好者がいるのだから、
困ったもんだ(と、鹿島茂さんが書いているわけではありません)。ニクソン・シ
ョック以後、あるいは資本収支が為替相場に大きな影響を与えるようになった80年
代以後、そして90年代、国際通貨危機以後の経済情勢とのかかわりのなかで現代文
学を考えるセンスを欠いていては、ただの好事家でしかない。このことは何も現代
文学だけではない。およそ文学であれば、いや、哲学や思想その他諸々の、およそ
言語にまつわる活動全般について言えることだ。

 たとえば鹿島氏は本書で書いている。ベテランの株式仲買人であったヴェルヌは
『八十日間世界一周』で、女王の銀行の発行したペーパー・マネー(貨幣)の「信
用」創造の物語を語ったのであり、世界通貨としてのポンドの承認という課題を、
株式仲買人としての経験と小説家としての予知能力によって、時代より先取りして
いたのだと。以下、バルザックと生命保険、ワーグナーと株式会社、マルクスと…、
と続く第一部は、これこそ「文学者」を名乗る以上、いずれは真っ向から取り組む
べき課題を扱ったもので、この部分だけでも本書は読む価値がある。

●509●坪内祐三『文庫本を狙え!』(晶文社:2000.11.20)

 荒俣宏編著『大都会隠居術』から小林信彦『読書中毒』まで、1996年12月26日か
ら2000年5月25日まで『週刊文春』に連載された書評154本をまるごと収めた。「
ミステリーや日本の現代小説をめったに手にしない人間」を自称する坪内氏が選ん
だ「シブい」系のラインアップはまことに壮観で、たとえば京都書院アーツコレク
ション、ちくま学芸文庫の『明治事物起原』や『ボードレール批評』や『森有正エ
ッセイ集成』、創元ライブラリから「文庫ブームとは無縁のアバウトでのんびりと
したペースで刊行されている」『中井英夫全集』、新学社の『保田與重郎文庫』等
々、文庫の目利きが絶賛する書物は実に蠱惑的。

 「もう何百本もの書評原稿を書いている私が言うのも、なんであるが、五枚十枚
のボリュームを持った紹介記事よりも、とても短い、しかもごくありふれた書評記
事中の、たった一行の言葉が気になり、その本を読んでみたくなることがある」。
坪内氏の場合、それは角川文庫『武者小路実篤詩集』の荒川洋治の解説だったのだ
が、実は、この『文庫本を狙え!』自体、そんなディープな「たった一行の言葉」
を絞り出すための練習帳だったのである。

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