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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.149 (2003/01/19)
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 □ 谷川渥『鏡と皮膚』
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●499●谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』
                   (ちくま学芸文庫:2001.4.10/1994.4)

 二つの表層、すなわち鏡と皮膚に関係する神話(ミュトス)を選択・蒐集し、そ
れらを組み合わせながらみずから神話を語り直すこと(ミュトス+ロゴス=ミュト
ロギア)。それは過去に遡って芸術の起源・発生を探ることではなくて、「非時間
的な「根拠」としてのミュトスを「選択」「蒐集」することによって、非時間的で
あるがゆえにアクチュアルな「表層」の物語としての芸術論を試みよう」(11頁)
とするものである。

 序文のこの宣言を受けて著者が選択・蒐集したのは、鏡をテーマとする前半では
オルフェウスの眼、ナルキッソスの鏡、メドゥーサの首、皮膚をとりあげた後半で
はアポロンが剥ぎとったマルシュアスの皮、キリストの顔をうつしとった聖ベロニ
カの布、真理=女性が纏うヴェール(あるいは毛皮を着たヴィーナス)といった神
話群であった。

 著者によると、前半の三つのミュトスは互いに微妙な内在的関係を取り結び、後
半のそれは互いに有機的に関連しつつ三位一体の議論を構成し、さらにベラスケス
の『侍女たち』をめぐる「間奏」をはさんで前後半の各三章は鏡像関係の様相を帯
びるように配置されているという。私はこの序文を読者への挑戦と受け止めた。内
在的関係であれ有機的関連であれまた鏡像関係であれ、精妙かつ狡猾にしかけられ
たミュトロギア、すなわち「神話語り」の秘密を解けるものなら解いてみるがよい、
と。

 だが私は著者がしかけたもうひとつの罠、「表層のバロック的な遁走」と名づけ
られたそのディスクールに、すなわち「はじめに提示された主題が、転調を重ねな
がら、その内包する可能性を多声的に展開していく態のもの」(13頁)に翻弄され
つづけ、ついには華麗かつ縦横に繰り出される著者の「多声」の語りにただただ聴
き入り、陶酔するだけであった。それはまことに快い、官能的な体験だった。

 それでは、著者が本書で紡ぎだした「非時間的であるがゆえにアクチュアルな「
表層」の物語としての芸術論」とは何だったのか。ここでも私は、ただ結びにおか
れた次の文章を引用することしかできない。著者は、ドゥルーズ(『襞──ライプ
ニッツとバロック』)がバロックの特権的形象であるとした襞はなによりも肉体を
覆う着衣の襞であり、十七世紀の皮膚は基本的に布の襞であったという。

《とはいえ、ベルニーニの作品に端的に見られるように、布が襞の全身を覆いつく
しているそのありようは、伝統的な本質主義の解体を予感させないではいない。し
かも、この可視的な襞が、もし肉体内部の不可視の襞に照応するものであったとし
たら……。内/外の二元論と、それにもとづく本質主義は、ひそかに、しかし確実
に解体しつつあるように見える。
 マクルーハンのいうように[マクルーハンは『人間拡張の原理』のなかで、「電
気時代にいたって、われわれは初めて全人類を自らの皮膚とするにいたった」と書
いている:引用者註]総体的な皮膚化の様相を強めるこの電気の時代を、それゆえ
新たなバロックの時代と呼ぶこともできるだろう。しかし、それは必ずしも襞とい
う形象で語りつくせるわけではなさそうである。少なくとも、現代において語られ
るべきは、布の襞ではあるまい。いまこそ、端的に皮膚という概念が要請されなけ
ればならない。これを認識論的隠喩といってもいい。だが、認識論的隠喩たりうる
ためには、まず皮膚とはなにかが問われねばならないだろう。》(262-263頁)

 以下、エルンスト・マッハによる「皮膚的空間」の研究やニーチェの敢然たる「
皮膚性」への意志の表明、トーマス・マンの『魔の山』における皮膚論、ヴァレリ
ーの逆説(「人間においてもっとも深いもの、それは皮膚である)、ディディエ・
アンジュー『皮膚‐自我』からの引用──《「皮膚‐自我」は原初的な羊皮紙で、
そこには皮膚の上の痕跡からなる前言語的な「原初」の文字の下書きが、パランプ
セストのように消されたり、こそげ落されたり、重ね書きされたりしながら保存さ
れている。》(266頁)──、「ヨブ記」のミュトスと安部公房『砂の女』の引用
(「人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない」
)、アントナン・アルトーの皮膚としての「基底材」、等々の絢爛たる「遁走的語
り」を経て、皮膚と魂、皮膚と精神性との「のっぴきならぬ関係」と現代における
「表層の崩壊」ともいうべき徴候に解きいたり、本質や深みや内部・内面・背後世
界への帰還という「もっともらしい二元論」への安易な逃走を諫める、「皮膚論的
な想像力のために」と題された結びの文章はまことに圧巻だ。

《いまこそ、決然たる意志をもって、表面に、皮膚に敢然として踏みとどまらなけ
ればならない。認識論的隠喩としての皮膚は、あらゆる意味の振幅をはらんでいる。
その振幅をみずから引き受けつつ、皮膚を意志すること。もう一度繰り返すなら、
そこにおいてはじめて生は美的現象として、われわれの耐えることのできるものに
なるはずである。》(270-271頁)

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