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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.148 (2003/01/13)
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 □ 蛭川立『彼岸の時間』
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前々回の『時間は実在するか』(入不二基義)と前回の『色彩の哲学』(村田純一
)、それから今回の『彼岸の時間』、そして(今回分がやや長くなってしまったの
で)次回にまわすことにした『鏡と皮膚』(谷川渥)の四冊には、どこか深いつな
がりがあるのではないか、そのことについて何か書いておきたいと、前回予告しま
した。ですが、もう一つの「予告」どおり、やはり、熟成のための時間が足らない
ようなので、ここでは、とりあえず覚書程度のことだけ記録しておきます。

要点はどうやら「内/外」の二元論にかかわっていて、だから(というのは、内と
外であれ空間と時間であれ、その他なんであれ、二つの二元論を組み合わせると四
つの次元が生成されるから)、そこでは第四の実在、第四の永遠、第四の形而上学、
第四の意識状態といったものが「重ね書き」によって「表現」される。──これで
はキーワード(と、私が思う語彙)を羅列しているだけで、何を言いたいのかとて
も伝わらないと思うので、以下、ヒントになりそうな箇所を(正確には、私自身の
備忘録として)三つだけ引用しておきます。なお、最初の文章は『色彩の哲学』で
引用されたものです。

◎外的関係=時間的、内的関係=無時間的
《ある言語ゲームがある。ある物体が他の物体より明るいか暗いかについて報告す
る、というものである。──ところで、それと似たもう一つの言語ゲームがある。
特定の色調の明るさの関係について言明する、というものである。(二つの棒の長
さの関係を規定することと、二つの数の関係を規定することとを、この二つの言語
ゲームと対比することができよう。)──二つの言語ゲームにおける命題の形式は
『XはYより明るい』という同じ形式になる。しかし前者においてはそのXとYの
関係は外的関係であり、その命題が時間的なものであるのに対して、後者において
はその関係は内的関係であり、その命題は無時間的なものとなる。》(ウィトゲン
シュタイン『色彩について』,中村昇・深嶋貞徳訳,新書館:1997.9.30,11頁)

◎すべての絵画は抽象画である
《絵画は、三次元の対象を二次元のキャンヴァスに描くという根本的に「逆説的」
な試み(「これはパイプではない!」(マグリット))であるとすれば、たとえ対
象を描くことから解放されているにしても、抽象絵画もまた類似した逆説から免れ
ることはできない。そこに描かれた色彩は、純粋な色彩自体の「内面」を描くこと
を目指していたとしても、実際には、色彩の「内面性」自身が多様な現れ方を示す
ものであり、色彩それ自体などというものを描くことはできないからである(「こ
れは色彩自体ではない!」)。どんな絵画であれ、一定の現れ方(多くは表面色)
を使ってその現れ方(表面色)に還元しえない色彩の現れ方を示すことによって一
定の「表現的性格」を制作する試みである以上、絵画はこのジレンマから決して逃
れることはできない。ここまでくると、絵画を見るということは、どんな場合にも、
同時に絵画の「パラドックス」を見るということにならざるをえなくなる。そして
こうした点から見ると、現代絵画の試みが抽象的になると同時に、常に絵画の意味
を問い返すという「反省的」傾向を帯びるのは自然な傾向であるということにもな
る。》(村田純一『色彩の哲学』244-245頁)

◎パランプセスト(重ね書きされた羊皮紙)
《アルベルティによれば、絵画は一枚のヴェールにほかならなかった。しかしそれ
はいまや少なくとも三枚の表皮になる。絵画が平面上でのイリュージョンにすぎな
いことを示すために、平面が複数化するのだともいえようか。
 こうした表象のありようを「パランプセスト」なる概念と結びつけることができ
ないわけではない。もともとパランプセストとは、書かれた文字を消してさらにそ
の上に文字を書き重ねた羊皮紙のことである。この羊の皮が文学テクストの特質に
関わることは、ジェラール・ジュネットがその『パランプセスト』(一九八二)に
おいて詳らかに論じている。もっともボードレールやトマス・ド・クィンシーにと
っては、それは人間の「脳髄」ないし「記憶」の隠喩[メタファー]にほかならな
かった。》(谷川渥『鏡と皮膚』163-164頁,なお266頁参照)
 

●498●蛭川立『彼岸の時間──〈意識〉の人類学』(春秋社:2002.11.20)

 私はこの本を入不二基義氏の『時間は実在するか』と村田純一氏の『色彩の哲学
』とほぼ併走させながら読んだ。これら三つの論考は私の脳髄のなかで、それと名
ざすことのできない一つの、あるいは複数の導管を通じて緊密に結びついていった。
たとえば時間の実在性の問題(入不二)と色彩の空間性や世界内存在性の問題(村
田)はパラレルで、時間と空間の実在性もしくはその認識の問題は意識とリアリテ
ィの類型学(蛭川)の前提をなしている。

 ──これだけだと何も言ったことにならないので、もう少し立ち入ってみよう。
(といっても、それもまたごく表面的な議論のアウトラインか個人的な備忘録程度
のものでしかなくて、だからこれらの詳細をめぐる考察はいつか、私自身が彼岸の
時間へと遡行するまでに訪れるかもしれない別の機会に譲るしかない。)

 入不二氏の「第四の形而上学的立場」は、関係としての時間と無関係としての時
間の重ね描きのうちに、実在概念の五つの意味(本物性・独立性・全体性・無矛盾
性・現実性)をすり抜けてしまう、永遠・不動でも変化・流動でもない第三、第四
のリアルなものとしての時間の実相を炙り出した。これに対して村田氏の「生態学
的色彩論」は、見えるものと見えないものとの「表現」関係の解明を通じて色彩の
実在性を救出し、生きられた世界(色彩を生きること、つまり色彩との直接的な関
係が体験される空間)の実質を科学的に追究する方向を示唆した。

 この両者の議論に共通するものを、たとえばパランプセスト(重ね書きされた羊
皮紙)の比喩でもって括ることができるのではないかと私は考えた。そしてそれは
また『彼岸の時間』の多層的で無限反復的な叙述のスタイルや議論のメイン・スト
リーム、そして蛭川氏の方法意識ともつながっているのではないかと。

 まず、時制的観点(その極点としての「非系列的な推移」)と無時制的観点(同
じく「永遠の現在」)のウロボロスの蛇のごとき相互呑みこみの反復による時間表
象の析出過程や、関係の相における時間と無関係の相における時間の絶えざる重ね
描きのプロセスの腑分けを通じて微細で精妙な実在の有り様を探求した入不二形而
上学の叙述は、蛭川人類学のライト・モチーフ(であると私が考えるもの)にして
その文体の特質ともいえる「語り継ぎ」にオーバーラップしてくる。蛭川氏は「神
話というのは、本来的には私的な体験から産みだされてくるものであり、肉声で語
り継がれるものである」(76頁)と書き、たとえば臨死体験から「あの世」へ(21
頁)を例として挙げている。

(ここでふれた「語り継ぎ」は、入不二氏が「文献案内」に掲げる『同一性・変化
・時間』の中で野矢茂樹氏が提起している「言語変化」のアイデア──「存在論が
異なるならば、その言語は異なる」──や「語り続けること」とも関係しているよ
うに思うのだが、これもまた別の機会に。)

 あるいは、表現されたもののパラドクス、すなわち内面と外面のクライン的導管
を介した反転を体験すること、言い換えれば感覚するものと感覚されるものが共存
する空間を生きることの実質を解明するため、現象学的観点とギブソンの生態学的
観点とを重ね合わせ「現象学を具体的な科学的営みと交流させる新たな可能性」を
探ろうとする村田氏の試みは、蛭川氏の方法と野心、すなわち脳科学や進化論や生
命科学との接点を確認しながら、変性意識や存在覚醒の体験をその「生きられた」
現場との関係において記述することでもって彼岸的リアリティの再インストールへ
向けた新たな学を模索しようとする試みとリンクしていく。

 ──これでもまだ何も言っていないに等しい。もう少しだけ立ち入ってみる。入
不二、村田両氏の議論に共通するものを別の言い方で乱暴に規定すれば、内在的観
点と外部的(超越的)観点の区分とその統合である。それによって「救出」される
のは、入不二氏の場合は直接的な体験や実感に還元されることのない神秘体験とし
ての「現実性」であり、村田氏の場合は意識自体に備わる身体的運動性格や生命的
意味に包まれた「クオリア」(生きられた色彩)であった。

 これらのことをウィトゲンシュタインの思索に関係づけて敷衍すれば、蛭川氏の
議論に接続することができるだろう。駆け足でその骨格だけ記録しておくと、まず
『色彩について』の冒頭に述べられた「外的関係=時間的」「内的関係=無時間的
」という命題、そして『草稿』(1916年10月7日)の「時間・空間の中で対象を見
るのではなく、時間・空間とともに見る」といった表現に出てくるスコラ哲学由来
の「の中で」と「とともに」の使い分け(このあたりのことは野矢茂樹『ウィトゲ
ンシュタイン『論理哲学論考』を読む』252頁以下を参照)を介して、蛭川氏が本
書の劈頭に掲げるかの高名なテーゼへと到達する。

 『彼岸の時間』は徹頭徹尾ウィトゲンシュタインの存在論的神秘のテーゼ──「
神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」─
─に付された長い註釈である。そう言い切っていいと私は思う。たとえば蛭川氏が
「プロローグ」で「やがてすべてが消えていき、最後には、光も形もない抽象的な
空間だけが残った」(7頁)と自らのアヤワスカ体験を綴り、最終章で「今この瞬
間にも刻々と生成と消滅を繰り返している「ういういしい日常」」(290頁)につ
いて語るのは、まさに本書が存在神秘の直中への、あるいはウパニシャッド哲学が
いう「第四の意識状態」(超越的な意識状態、観察する意識)へのイニシエーショ
ンとそこからの帰還を「語り継ぐ」ためのテキストであることを示している。

 第四の意識状態が拓く存在論的神秘の世界。それは偶像が禁じられた一神教的抽
象世界でも、遍在する超越者に包摂されたユビキタスな世界でも、生きられた感覚
が跳梁する多神教的極彩色の世界でもない。それらのすべてが、とりわけ抽象と感
覚が重ね描きされることで、そして「科学と呪術が手を取り合って」(235頁)祭
司宗教という象徴体系独占機構を解体修理することでもって拓かれる世界。

 ──何かもどかしい。いくら言葉を重ねても、この初発の生命を蔵した原始の海
のような本、濃厚で芳醇なスープが滾っているような「未完」の書物を規定し尽く
すことはできない。著者はこれを「旅のエッセイ」(294頁)と言う。私は「旅の
日記」だと思う。英国でかつて「スピリチュアル・ダイアリー」と呼ばれた「日記
」こそがジャンル名としてふさわしい。

 それにしても不思議な本だ。鋭い論が立ち上がりかけると、あるいは類型化への
足場が組まれ始めると、著者はまるで体系や編集を恥じるかのように再び豊饒な事
実の世界へと叙述を進めていく。章名や節名、そして何より書名が、その書かれた
内容と微妙かつ絶妙にずれていく。絶妙にというのは、あたかも優れた霊的指導者
の導きのように読者の覚醒を促す暗示がこめられているからだ。

 未発の論がそこから、とはすなわち読者の脳髄のうちから立ち上がってくる。地
に足をつけて淡々と歩くこと。生まれて、死ぬこと。土があって、森があって、川
があって、空があること。ただそれだけのことに「圧倒的な充実感」と「圧倒的な
神秘」を覚え、「あたかもたった今、世界のすべてが再創造されたかのようなうい
ういしさ」(292頁)を感じること。そうした野生の日常ともいうべきものが孕む
リアリティの実質を余すところなく叙述し尽くす新たな学。

 ──それは「魂の経済学」とでも仮に名づけることができる学(たとえば中沢新
一氏が『緑の資本論』や『愛と経済のロゴス』で模索しているような)のことでは
ないか。本書で私が最も興味深く、かつ批判的に読んだのは第7章(「転生するの
は誰か」)後半から第8章(「非局所的な宇宙」)前半にかけて、とりわけ心の転
移やコピー人間の思考実験を経て独我論から「遍在転生観」(渡辺恒夫)へと至り、
仏教の無我説とヒュームの経験論の類似に説き及ぶ箇所、そして「心物関係」をめ
ぐるマッハの新見解と意識の第四形態との関係を経て「時間の空間化」という概念
を導き出す箇所だったのだが、それらのどこが批判されるべきで、また「魂の経済
学」とどういった関係を取り結ぶことになるのかは、これまた別の機会に委ねられ
た個人的な宿題。

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