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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.147 (2003/01/11)
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 □ 村田純一『色彩の哲学』
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前回とりあげた入不二基義さんの『時間は実在するか』と今回の『色彩の哲学』、
そして次回とりあげる予定の二冊の本(谷川渥『鏡と皮膚』、蛭川立『彼岸の時間
』)を、私は昨年暮れ、ほぼ同時並行的に読んでいて、これは錯覚かもしれないの
ですが、これら四冊の書物には何かとても深いつながりがあるのではないか、と感
じていました。このことについて、次回、余力があれば書いてみたいと思っていま
す。でも、一年でいちばん忙しい時期を迎えてしまったので、そもそも読書日記を
書くことさえできるかどうかわかりません。
 

●497●村田純一『色彩の哲学』(双書現代の哲学,岩波書店:2002.11.28)

 色彩は実在するか。つまり色彩とは物体の性質なのか。それとも現代の色彩科学
が主張するように、客観世界に色はなく、色彩は感覚にすぎないのか。つまり色彩
は仮象なのか。──著者はこの問いに哲学者の立場で取り組む。しかし、そもそも
色彩の実在性がなぜ哲学の問題になるのか。それは、色彩をめぐる科学的議論が実
在と仮象、客観と主観、物理的性質と主観的感覚といった二元論的区分を前提にし
た「形而上学的」なものだからである。そして、その時々の支配的なパラダイムに
対する「批判」こそが哲学のもっとも重要な仕事だからである。

《「色彩は存在するのか」という問いが立てられた場合にまず必要なのは、何が存
在するかをあらかじめ前提するのではなく、色彩現象自身に即して色彩の「存在」
のあり方を解明することではなかろうか。「世界に色彩は存在するのか」という問
いが立てられた場合には、最初に世界の存在のあり方を前提してしまうのではなく、
色彩が現れるような世界とはどのような世界であるのか、つまり「色彩の世界」の
あり方をまず明らかにする必要があるのではなかろうか。要するに、問題の「現象
学的変換」が求められるのである。》(258頁)

 著者は、まず色彩の世界内存在という常識的見解を擁護し、フッサール、メルロ
=ポンティ、あるいはカッツらの色彩の現象学、さらにはギブソンの生態光学を援
用し、ジェームズの空間質の概念をてがかりとしながら色彩固有の「空間性」を論
じる(第T部 色彩の「奥行き」)。ついで、ゲーテ、ウィトゲンシュタイン、カ
ンディンスキーの色彩論を踏まえ、色彩の「内面性」(「色彩を生きる」といった
色彩との直接的関係を示す体験のあり方)という新たな次元を導入しつつ、ニュー
トンの暗室のなかでのスペクトル光の分析を出発点にした現代の色彩論(実験室の
色彩論)が陥った還元主義からの脱却の糸口を探る(第U部 色彩の多次元性)。

 こうした「現象学的」観点からの色彩現象への接近、すなわち「色彩の現れ方を
その現れ方にふさわしい仕方で取り上げて、その現れ方に対応する色彩の「存在」
のあり方を解明する」(16頁)試みを通して確認されたテーゼは、「「目に見える
」色彩が現れる「色彩固有の空間」はまさに、色を生きるという体験が実現される
「目に見えない」「生きられた空間」にほかならない」(243頁)というものであ
った。

 著者は最後に「色彩の現象学と色彩の科学との間に開かれている埋めようもない
ように見える溝」(84頁)を架橋するものとして、色彩現象に関する「生態学的現
象学」の可能性を示唆するのだが、残念ながらこの魅力的なアプローチの実質は十
分に論じられていない。ただ、本書の白眉ともいうべきカンディンスキーを取り上
げた第U部第3章に出てくる「クオリア=感覚質」と「表現」をめぐる議論のうち
に、その方向性は示されている。以下、該当部分を抜き書きしておく。

 まず、「クオリア」について。──レヴィナスは『全体性と無限』で「木の葉の
緑、この夕日の赤といった感性的諸性質は認識されるのではなく生きられるのだ」
と語った。著者によると、「この「生きられた色彩」は、最近では、機能主義や唯
物論が支配的な哲学の状況を背景にして、「クオリア」という名で呼ばれ、さかん
に議論のテーマにされている」(212頁)。しかし、現在の「クオリア」をめぐる
議論は、色彩を「生きる」体験に独特の特質をあたえている契機としてメルロ=ポ
ンティが指摘した──「感覚や〈感覚的性質〉は表現を絶するようなある種の状態
または純粋質(quale)の体験に帰着するどころではなく、それらはある運動的相
貌をもって現れ、またある生命的意味でもって包まれているのである」(『知覚の
現象学』)──運動性格や生命的意味からかけ離れた「抽象性」を免れていない。

《というのも、メルロ=ポンティに従うなら、「感覚質」すなわち「クオリア」は、
ここであげられている運動性格や生命的意味と不可分なのであるから、それらを実
現している身体や世界のあり方から切り離して考えることはできないはずだからで
ある。したがって、「クオリア」を何か神秘的な意識の内的性質を示すものと考
えることはできないし、他方、このような運動性格や生命的意味が物理学の理論だ
けによって説明できないのも自明の理である。要するに、「クオリア」の還元可能
性を主張する論者も、還元不可能性を主張する論者も、どちらもここで描かれてい
るような身体的な「世界内存在」を見逃すという共通の欠陥を示しているのである。
 いずれにしても、運動性格と結び付いた「色を生きる」という体験がそれにふさ
わしい仕方で取り上げられる観点が可能となることによって、意識自体に備わる身
体的運動性格という考え方、そしてまた、感覚するものと感覚されるものが共存す
る空間という考え方が可能となる。》(226頁)

 次に「表現」について。──著者は、ミシェル・アンリのカンディンスキー論『
見えないものを見る』に拠りながら、「カンディンスキーの絵画で色彩の内面が「
表現されている」といいうるにしても、色や形によって「生」や「情念」が通常の
意味で表現されているのではなく、色や形、そしてそれらの結合が生み出す「コン
ポジション」自身が情念を備えていると解されねばならない」(239頁)という。
そして、アンリが述べているフォルムや色自体に備わる「力」や「弱さ」は、少な
くとも色彩に関する限り、色彩の「内面的」特性としての感覚・感情的性質である、
メルロ=ポンティがいう色彩の運動感覚的性格にほかならないのではないか、と。

《…もしこのように考えることができるなら、アンリのいうところの「生」や「情
念」は色彩や形態とともに「現れている」といってもかまわないのではなかろうか
。つまり。色彩や形態とともに、「生」や「情念」という「内面性」も「表現」さ
れているといってかまわないのではなかろうか。もちろんここで「表現」というこ
とで問題になっているのは、外界の対象を模写したり、映し出したりするようなこ
とではない。むしろここで問題になるのは、色彩や形態それ自身に備わる「内面的
」特徴を体験しうるといいうるような「表現的性格」を画面の上で実現できるかど
うかということになる。ちょうど遠近法の発明によって、外面的奥行きを画面上に
表現しているといいうるような「表現的性格」が生み出されたように、カンディン
スキーの「抽象」という方法の発明によって、「内面的奥行き」といいうるような
「表現的性格」が画面上に生み出されるかどうか、それが問題なのである。》(240頁)

 ──色彩を論じつつ、「感覚の哲学」ともいうべきより射程の広い問題圏へと踏
み込んだ「可能性の書」である。本書で主題的に論じられた空間論に加えて、ウィ
トゲンシュタイン『色彩について』第1部からの引用に出てくる「外的関係=時間
的」「内的関係=無時間的」というテーゼ(164頁)を敷衍し、さらに時間論にま
で踏み込んでいくことでもって、著者が提唱する「生態学的現象学」の実質はより
鮮明になるのではないかと思う。後続書が待たれる。

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