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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.146 (2003/01/04)
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 □ 入不二基義『時間は実在するか』
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正月休みの間に考えた、私の今年の「年間読書計画」をご紹介します。ちなみに、
昨年は、未読、再読を含めた心脳問題関係本の集中的熟読を考えていましたが、早
々と挫折。今年もどこまでいけるか、自信はありません。なにしろこの正月休みの
間にも、E・ブロンテの『嵐が丘』と島崎藤村の『夜明け前』を玩味すべく、前々
から「準備」をしていたのに、まったく手つかず。スタートからつまずいてます。

1.ここ数年、断続的に読み続けてきた長編小説、全集を読み進める。
 □ プルースト『失われた時を求めて』
 □ ジョイス『ユリシーズ』
 □ ムージル『特性のない男』
 □ チェホフ全集

2.引き続き『海辺のカフカ』関連本を読む。
 □『ギリシャ悲劇』(三大悲劇詩人全作品)
 □『源氏物語』(円地文子版、できれば原文も)
 □ ヘーゲル『精神現象学』
 □ ベルクソン『記憶と物質』

3.三人の思索家の本をノートを取りながら読んでみる。
 □ パース
 □ ベンヤミン
 □ ドゥルーズ

4.とにかく読み続ける。
 □ 永井均他編集『事典 哲学の木』
 □ 小林秀雄『感想』
 □ ノヴァーリスの断章群
 

●496●入不二基義『時間は実在するか』(講談社現代新書1638:2002.12.10)

 昨年暮れに第四章まで読んで、正月休みに入った。入不二氏独自の時間論が展開
される最終章「もう一つ別の時間論──第四の形而上学的な立場」を読み終えたの
が2003年の私の「初読み」で、これは実に濃厚で刺激的で味わい深い体験だっ
た。あの『相対主義の極北』の鮮烈がいま甦る。

 これほどに強靱で微細な思索を保持し、かつ更新し続けるのは並大抵の体力では
ない。裏表紙に印刷された猫を抱いた著者の視線は、「無いよりもっと無いこと」
や「無関係という関係でさえない無関係」といった入不二形而上学の尋常でない世
界を真っ向から眼差し、孤高の武芸者のごとき狂気をさえ漂わせている。(『ニー
チェ』の裏表紙で犬を抱いていた神崎繁氏と好対照をなしていて、それはそれぞれ
が著した哲学書としての特質についても言えると思う。純粋議論を楽しむ「微分」
的な入不二哲学と、議論の議論のつながり・系譜をたどる「積分」的な神崎哲学?)

 ──講談社のPR誌『本』に永井均氏が「ひねもすたれながす哲学」という文章
を連載していて、2003年1月号が第4回目。永井氏はそこで、〈私〉=〈今〉
=〈心〉=〈内界〉=〈生〉=〈現実〉=〈自由意志〉といった「そもそもの初め
から」存在していたもの、つまりそれ以上遡行しようのない、名づけることさえで
きない「開闢の奇跡」が、その開闢の内部で、その内部に存在する一つの存在者と
して位置づけられ、名づけられること、言い換えれば、開闢の内部で後から生じた
存在基準や持続基準が、開闢それ自体に適用されることを「問題」として取り上げ
ている。具体的には、ラッセルの「五分前世界創造説」と永井均の「五十センチ先
世界創造説」との違いといった事柄が論じられているのだが、それにしても哲学者
とはなんと難儀な「問題」を抱え込んで生きていることか。

 ここで永井均が登場するのは、そもそも私が入不二基義の名を知ったのが、独在
性の〈私〉をめぐる「永井‐入不二論争」に興味を持ったからだという個人的な事
情もあるけれど、それよりも、この同じ号の『本』に入不二氏のエッセイ「「とり
あえず」ということ」が掲載されていたからである。この自著PRを兼ねた短い文
章のなかで、入不二氏は次のように書いている。

《この本[『時間は実在するか』]は、J・M・E・マクタガートの「時間の非実
在性」論を、ゆっくりとていねいに解説し、十分に内在的な批判を行い、さらに別
の時間論へと離脱する試みである。(中略)この[マクタガートの時間の非実在性
の]証明の何が正しく、何が間違っているのか。この証明から、どのような可能性
を引き出すことができるのか。そして、マクタガートの時間論から離脱することは、
どこへ向かうことになるのか。この本を書くことを通して、私はそのような議論を
十分に楽しむことができた。》

 ここに出てくる「ゆっくりとていねいに」とか「内在的な批判」とか「離脱する
」とか「楽しむ」といった語彙は、本書の「はじめに」の冒頭に出てくる「哲学的
思考の追体験」や「論証の「失敗」こそが(哲学的思考の)固有の価値である」や
「自ら「失敗」を反復し味わい凝視する」といった語彙群と響き合って、入不二形
而上学への「開口部」を垣間見せてくれる。実証不可能な「問題」をめぐる形而上
学的思索とは、論理と経験の界面において、極限へと向かう不断のプロセスの反復
それ自体なのであって、だからこそ、ゆっくりとていねいに、楽しみ味わいながら
先人の「失敗」を追体験し、そこに炙り出されてくるものを凝視することが肝要な
のである。

 ──入不二形而上学は「炙り出しの哲学」である。私は、前々からそう考えてき
た。本書にも、入不二語とでもいうべきキーワードがいくつか出てくる。たとえば、
前景化(333頁他)とか「手前」性(275頁)、遍在=浸透(250頁他)、重ね描き
(279頁)、透かし見る(261頁他)やかいま見る(245頁)や映し出す(236頁)、
そして炙り出す(10,99,226頁他)。これらの一連の入不二語は、あいまって一つ
の実在を、つまり「背景に退いて透明に働く」(304頁)ものを指し示している。
いや、文字通り炙り出している。

 それは、ボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えた「パランプセ
スト」、すなわち書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙を想起させる。重
ね書きされた文字が消去(抑圧)するもの。しかし、消去された最初の文字自身が
何かを隠蔽(原‐抑圧)しているとしたら? それこそ、入不二形而上学が前景化
し、炙り出すものに他ならない。それでは、マクタガートの哲学的思考の奥深くに
内在し、そこから離脱することによって炙り出される「もう一つ別の時間論」とは
何だろうか。入不二氏の「第四の形而上学的な立場」は、時間の関係的な側面と無
関係的な側面という区分を基本とする。以下、駆け足でその概観を素描しておく。

 まず、実在をめぐる二つの系譜がある。永遠・不動の実在を考える系譜と、変化
・流動する実在を考える系譜。これとパラレルに、時間把握に関する二つの系列が
ある。出来事や時点を「より前」「より後」「同時」という順序関係によって静的
に整列するB系列と、過去・現在・未来という流れで動的に時間を把握するA系列。
前者(無時制的な観点)を純化していくと、その極限として「永遠の現在」(同一
性[being]の前景化)という第一の形而上学的な立場が見えてくる。後者(時制
的な観点)からは、「非系列的な推移」(変化・生成[becoming]の前景化)とい
う第二の形而上学的な立場へと導かれる。

 マクタガート自身は、時間の核心である変化を捉えたA系列こそが時間にとって
本質的だが、A系列は矛盾を含む(「過去である」「現在である」「未来である」
の三つのA特性は互いに排他的であるにもかかわらず、出来事はこの三つの特性を
すべて持たなければならない)がゆえに時間は実在しないとして、時間的な方向性
を持たない順序としてのC系列こそが実在の姿であるとする第三の形而上学的な立
場を主張した。入不二氏によると、これら三つの立場は「相互に絡み合いかつ収束
することのない」(215頁)三つ巴の関係にある。

 無時制的な観点と時制的な観点は「そのつど」「とりあえず」分割され、一方が
他方に包み込まれることによって、かつ「とりあえず」性が抑圧され隠蔽されるこ
とでもって「ひとつながりの時間」という表象をもたらす。だが、こうした「関係
としての時間」(切り離すことがつなぐことになるような「無関係という関係」の
相における時間)とは別に、「とりあえず」性そのものによる原‐抑圧によって隠
蔽されざるを得ない「無関係としての時間」(無関係という関係にさえならない無
関係の相における時間)が間接的に透かし見られる。それは、「無」でさえない未
来・複数ではありえないこの今の現実性・現在だったことのない過去の絶対的な隔
たりを内実とする。

《過去・現在・未来というA系列的な時間には、実は関係的な側面だけではなく、
無関係的な側面が重ね描きされていたことになる。ただし、無関係的な側面は、関
係的な側面から間接的に透かし見られるとはいっても、関係的な側面の極限[永遠
の現在と非系列的な推移]でさえ及ばないものであること、さらにそのような極限
としてさえ設定不可能な「無関係」を、私たちはすでに生きてしまっているはずだ、
ということを思い出しておこう。》(279頁)

 ──もうやめておこう。これ以上の素描、いや粗描は、『時間は実在するか』が
醸しだす芳醇な味わいを希釈し矮小化するばかりだ。汲めども尽きない哲学的思考
のヒントに満ちたこの書物は、ゆっくりとていねいに、そして私自身がそこから離
脱するための再読、三読を要求している。

 補遺。汲めども尽きない哲学的思考のヒントの、ほんの一例を引用しておく。

《「永遠の現在」「永遠の今」は、特別な神秘体験のようなものを表しているので
はない。ただしそれは、神秘体験など存在しないという理由からではない。神秘体
験と呼ばれるものはあるし、あってもかまわない。しかし、「永遠の現在」が表す
こと(意味)は、その体験や実感自体ではない。それは、この今が持つ現実性が、
直接的な体験や実感に還元できるものではないことと同様である。意味や現実性は、
体験や実感にある意味で「先立って」与えられていなければならない「前提」のよ
うなものである。》(241-242頁)

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