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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.144 (2002/12/23)
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 □ 岡野玲子・夢枕貘『陰陽師11 白虎』
 □ 佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』
 □ 森博嗣・ささきすばる『悪戯王子と猫の物語』
 □ 森博嗣・佐久間真人『猫の建築家』
 □ 谷川俊太郎『minimal』
 □ 谷川俊太郎・長谷川宏『魂のみなもとへ』
 □ 五味太郎『うたがきこえてくる』
 □ 村上春樹・安西水丸『新版・象工場のハッピーエンド』
 □ 今井淳他『不変量とはなにか』
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このMMに掲載した書評および書評擬きは、およそ次の区分でもって、インターネ
ットの本屋さんのレビュー欄他に投稿しています。いまさらながらの情報かもしれ
ませんが、この際「告白」しておきます。──で、今回取り上げたのは、いずれも
“amazon”系のものです。

☆bk1[http://www.bk1.co.jp/]
 オリオン名義。短いものを除き、ほぼ全ジャンルにわたって。
☆review-japan[http://www.review-japan.com/folder/p445.html]
 orion名義。人文系を中心に、やや長めのものを厳選(?)して。
☆amazon[http://www.amazon.co.jp/]
 オリオン名義。絵本、詩集、漫画、エンターテインメント系を中心に、短いもの。
 

●484●岡野玲子・夢枕貘『陰陽師11 白虎』(白泉社:2002.12.4)

 ついに晴明[ひかり]は闇に降下し、闇に君臨する。生と死の間、時代と時代の
間。岡野玲子の表現世界は途方もない、前代未聞の領域へと踏み込んでいく。

《そして私は一 闇だ 私の右眼は地に属し物質を視る 私の左眼は天に属し 次
元間を縦に視る よって右眼は光によって見える世界と そこに生じる影を視 左
眼は 光そのものと 闇そのものを視る 私は闇に降下する (中略) 嵐のよう
に強暴な太古の闇 生命を生み出す豊饒な花開く闇 根の根… 底の底 闇の闇…
 結晶体のごとき 純粋[ソリッド]な闇に 我が根を結び 私は闇に 君臨する》

 ──岡野玲子は『ダ・ヴィンチ』(2003年1月号)のインタビューで「11巻は、
神と晴明の熱烈恋愛なんですね、ほんと。11巻は神様のエロ本。本当のエロスとい
うのは奥深くて神聖で、スキがなくて、命懸けなのよ」と語っている。神と晴明の
熱烈恋愛の間で、可憐な真葛は懐胎する。《おれは神様なんか大嫌いだ おれの大
事な晴明を 何度も手籠めにして》

●485●佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』1〜3
                 (講談社:[1,2]2002.6.21/[3]2002.10.23)

 小説とは違う、TVドラマでも映画でもないマンガ固有の表現は、コマ割りとフ
キダシ、そのフキダシの外にはみでたイメージフレーズや内語や状況説明、そして
文字の強調や表情・動作の誇張、デフォルメにある。だから文章にすると荒唐無稽
で見え見えの物語展開がリアルで感動的になったり、映像化すると(そして音楽の
効果を抜きにすると)たぶん起伏や深みに乏しい平板な感情表現や人間関係がダイ
ナミックな躍動感をもって迫ってくる。

 もちろんそんな一般論を並べたててもしょうがないのであって、この作品の随所
に出てくるクローズアップされた顔や内面の葛藤を説明する分かりやすい文字が、
マンガ的技巧のくさみを超えた迫真性を表現しきっていることに私は驚いた。

 ──この作品は医学界の内幕を暴き告発する社会派でも、研修医・斉藤英二郎の
成長過程を描く教養モノでもない。ここでリアルに展開されているのは、人間の生
と死にかかわる医療をめぐる長い歴史をもった議論なのである。

 たとえば、第一外科の指導医・白鳥貴久は「私は将来必ずこの大学の教授になる
! 教授になってまずはこの大学を変える……全国にある永大の関連病院を変える
……そして日本の医療を変える! 結果的に……それがより多くの人を救う道だ…
…!」(第1巻第4話)と語り、心臓外科のボス、藤井義也教授は「君が救えるの
は……君が出会った患者だけだ せいぜい幼稚な自己満足にひたっていたまえ 私
はすでに私の研究成果で数百万人の患者を救ったよ」(第3巻第17話)と誇る。

 これらはいずれも真実の言葉であり、ことほどさように物事は一刀両断に割り切
れない。この割り切れなさのうちからこそ人間の物語は語られる。

●486●森博嗣・ささきすばる『悪戯王子と猫の物語
        Fables of Captain Trouble with Cat』(講談社:2002.10.15)

 ほんの少量だけエロティックでグロテスクで、そして酷薄で無機質な無邪気さを
湛えたささきすばるの絵に縁取られ、散文詩のように綴られた短い転身譚。《自由
とは展開されるものです。拡がり、そして万物への含浸こそ、個の意志の望み、そ
して高みです。それは、個から多への安定です。》(「汚染」)

●487●森博嗣・佐久間真人『猫の建築家』(光文社:2002.10.25)

 植物は感情だけで生きているのかもしれないという話を聞いたことがある。そう
すると動物は欲望だけで生きているのだろうか。いずれにしてもそこにあるのは現
在だけなのだろう。ところで猫は知覚で生きている。少なくとも森博嗣が書き、佐
久間真人が描く猫は知覚で生きている。厳密にいえば、数覚と視覚で生きている。
生まれながらの数学者にして純粋美学者としての猫。英訳で読むとなおいい理工系
の詩。

●488●谷川俊太郎『minimal』(思潮社:2002.10.10)

 かつて、詩を読み、詩を書くことが生きることそのものだった。それが、いまで
は詩の読み方も、書き方も忘れてしまって、ただ時折、声に出し拾い読みしては、
失われた、もしくは、錆びつき萎縮した、自分のなかの言葉の湧出点を確かめてい
る。「沈黙したい、もう一度沈黙に帰って新しく書き始めたい」と谷川俊太郎は書
いている。ぎりぎりまできりつめられた、それでいてどこか過剰なものへと接線が
引かれた、三行一連の詩群。英訳と響き合って、沈黙への、そして、言葉ではない
ものへの休止符を、鋭く、かつ完璧に、穿つ。詩にも成熟ということがあるのだ。

●489●谷川俊太郎・長谷川宏『魂のみなもとへ──詩と哲学のデュオ』
                          (近代出版:2001.9.2)

 絵や写真にみじかい文章や詩を添えることは、よくある試みだし、詩に詩を「つ
ける」試みも、古くからある。でも、すでにしてそこにある一編の詩に、それを批
評するのではなくて、その色になかば染まりつつ、思考を重ね、短文を「つける」
というのは、ほんとうに「風変わりな企画」である。

 ──「詩人は何事も証明する必要はない」。これは、詩人・谷川俊太郎が引用す
るミラン・クンデラ(『生は彼方に』)の言葉だ。これにたいして、哲学者・長谷
川宏は、「なにより論理を尊ぶのが哲学者だ」と応じる。ここでいう「論理」とは、
「もののつながり」のことだ。「わたしたちが自由でなかったら、…ものたちはみ
んなばらばらになって、世界は崩壊する」だろうと、哲学者はいう。

 「本当のことを云おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない」と、詩人
はいいはなつ。「どんな生きかたをするにせよ、その自分をおだやかに見つめるも
う一人の自分がどこかにいれば、この、もう一人の自分には、いつか、生かされて
ある自分が見えてくる」と、哲学者はしめくくる。

 詩人と哲学者。この、プラトン以来の「もうひとりの自分」が、「日常を超えた
なにものか」、つまり「魂のみなもと」(詩人の言葉)へ向かって、紙上のバトル
を繰り広げた。ここには、その一部始終が記録されている。

●490●五味太郎『うたがきこえてくる』(青春出版社:2000.7.20)

 歌や音楽、うたうことや聴くことをめぐる23の短い文章に絵が添えられて(い
や、先に絵があって、それに文章が添えられたのかもしれない)、一枚一枚じっく
り眺めていると、そこから声がたちあがってきて、それはやがて音になり、最後に
歌になって、「神様的な次元」から直接「魂のみなもと」へむかって聴こえてくる
ような、そんな「気配」がただよっている絵と文のデュオ。

 ──ほんの少量だけ、気に入ったフレーズを抜き書きしておく。

◎それ[杜甫の「国破山河在城春草木深…」という詩を中国人が吟じたテープ]は
まことに美しい音であった。声の音であった。即座に意味にできないからこそ、声
は音であり、音は歌であった。(中略)「国破山河在」は決して「ヤブレ」たりは
していないし、「城春草木深」は「ソウモクフカシ」たりはしていない。あくまで
も「国破山河在城春草木深」なのである。それはたとえば、スティービー・ワンダ
ーは「You are the sunshine of my life」とうたうのであって、決して「君はぼ
くの人生における陽光だ」とうたっているのではない、というのと同じである。(
「音の楽しみ」)

◎うたうのでは決してない。奏でるのでは毛頭ない。まさに西洋の詩人が決まり文
句のように言う、神が我をしてうたわせ、奏でさせ給う、という言い方がいちばん
ふさわしいのだ。(中略)街角の自動販売機にもたれかかって酔漢が大声でうたう
「与作」も、掃除のおばさんが口ずさむ「アベ・マリア」も、なにはともかく神の
声であって、うまいまずい、良い悪いを言ったら、罰が当る。(「神様の領域」)

◎歌には「神」ではなく、「神」の気配があると思った。(「賛美歌」) 

◎つまり歌はうたう人のすべての情報を含んでいるわけですよ。いい加減に聴いて
はいけません。(「挨拶」)

●491●村上春樹・安西水丸『新版・象工場のハッピーエンド』
                           (講談社:1999.2.26)

 『IN・POCKET』の2002年12月号が村上春樹を特集していて、そこで「村上春樹、
私の一冊」という企画をやっている。乙葉さんの『ノルウェイの森』や斉藤環さん
の『ねじまき鳥クロニクル』といった中長編が七つ、短編が角田光代さんの「中国
行きのスロウ・ボート」とマーク・ピーターセンさんの「蜂蜜パイ」、そして池内
紀さんの「螢」で三編、エッセイは和田誠さんの『日出る国の工場』一冊だけ。

 ──講談社の「全作品」第二期全七巻の刊行が始まっていて、短編を集めた二冊
だけでも買って読み直してみようかと思っている。村上春樹の短編群は、中長編と
はまったく別の世界をかたちづくっている。この「かたちづくる」ことが「象」な
のだ。

 『象工場のハッピーエンド』に「A DAY in THE LIFE」という4頁
ほどの短い文章がある。そこに出てくる「僕」はもう五年間、象工場で働いている。
『象工場のハッピーエンド』が出たのが1983年で、村上春樹のデビューが1979年だ
から、辻褄はあっている。『新版』は、若干の文章と若干の画稿が加わって、初期
の村上春樹が手がけていた「牙入れさえ終れば完成という象たちが一所懸命に鳴い
ている声が聞こえる」ようだ。

《だからどうしても象作りは、大きな工場で、大人数の共同作業で、ということに
なってしまう。残念といえば残念なことだけれど、これはまあしかたない。はりね
ずみを作るのとはわけが違うのだから。

 でも、僕は言いたいのだけれど、工場で毎日みんなと一緒に働くといっても、そ
れはいわゆる「近代産業資本主義の非人間的機械労働」といったようなものとはぜ
んぜん違う。なぜなら、なにしろ僕らは「象を作っている」からだ。ほんものの象
を作るのは、はんだごてを作るのとはわけが違う。象を作るというのは、なんとい
っても特別なことだし、一頭の象を作るたびに、僕らはある種の総合的な達成を経
験することになるからだ。言い換えれば、僕らは象作りというものをとおして、今
とは違う自分に到達しようと試みているからだ。その感じはわかっていただけるだ
ろうか?》(「あとがきにかえて」)

●492●今井淳他『不変量とはなにか 現代数学のこころ』
               (ブルーバックスB-1393,講談社:2002.11.20)

 数学の世界の醍醐味を知るためには、「しかるべき数学教室での…最低限の基礎
トレーニングを受けることが早道でしょう」と本書に書いてある。それは老後の愉
しみにとっておくとして、そうした「基礎トレーニング」への動機づけのためにも、
現代数学の香りを味わい、数式を鑑賞することの悦びをまず体感しておかなければ
なるまい。本書はその最適なテキストであり、誘惑の書である。

《…現代数学は,すでに「数の学・図形の科学」という古典的な枠を越えて,「思
考技術・思考様式の科学」とでもいうべき「より普遍的な学問」に進化したという
こともできましょう。》(52頁)

《…単なる算数を超えた高等数学の世界には,世界を認識するためのアイデアや知
恵,思わず吹き出してしまうような機知に満ちたトリックから背筋をゾッとさせる
ような深い洞察まで,学べば学ぶほど奥が知りたくなる知識の山が蓄積されていま
す。》(215頁)

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