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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.143 (2002/12/15)
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 □ 神崎繁『ニーチェ』
 □ 熊野純彦『カント』
 □ 中島義道『「私」の秘密』
 □ 野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』
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これは古東哲明さんが指摘していることなのですが、プラトンもハイデガーも肝心
なことは何も書いていない。彼らが残した書物には、プラトンやハイデガーの思想
内容そのものは書かれていない。──(ここからは私の文章です。)それでは彼ら
の「思想内容」とは何か。それは言葉では書けない。いや、書けるのだけれど、そ
れを書いたところで、あるいは読んだところで何も伝わらない。「存在神秘」(古
東哲明)とか「存在論的神秘」(野矢茂樹)とか、言葉でいくら説明しても何も伝
わらない。いや、伝えるのではなくて、促す、道を示すのが哲学書が書かれる目的
で、だからこそ論理的に、順を追って、厳密に(かつ日常言語を使って!)叙述さ
れなければならない。そこのところが、究極の到達点は同じでも、宗教書や秘伝書
などとは違うところなのではないか。

──いきなり偉そうなことを書きました。今回、取りあげた四冊の本、というより
カントやニーチェやウィトゲンシュタインの書き残した書物(そしてそれらの背後
に、というより今回の四冊の書物の背後に隠れているのではないかと思えるスピノ
ザの書物)が紛れもない哲学書であるということを、いまさら私が言ったところで
何がどうなるわけでもないのですが、言っておきたいがための前振りでした。

以下、たとえばニーチェとウィトゲンシュタインを結ぶ三つの糸として、第一に、
野矢さんの本の252頁に引用されていたウィトゲンシュタインの『反哲学的断章』
の一節──《ところで、芸術の仕事のほかにも、世界を永遠の相のもとにつかまえ
るもうひとつの方法があると思われる。それは、私の考えでは、思想という方法で
ある。思想は、いわば世界の上空を富んで行き、世界をそのあるがままにしておく、
そうして、飛びながら上空から世界を眺めるのである。》(丘澤静也訳)──が、
神崎さんの本の77頁に出てくるニーチェの遺稿「同じものの回帰」に添えられた「
海抜六千フィート、あらゆる人間的事象を離れることさらに高く!」という書きつ
けと響きあっていること、第二に、これは木田元さんの『マッハとニーチェ』を再
読して検証しないといけないのですが、カント由来の「現象」を介して(あるいは
ヒュームを介して?)響きあっているのではないか(永遠の相「の中で」見るのが
現象で、永遠の相「とともに」見るのがスピノザ由来の実体ではないか、等々)、
第三に、「永遠(無時間性)を生きるひととは現在を生きるひとにほかならない」
がどこか永遠回帰の思想と響きあっているのではないかを、たとえば「ニーチェの
残響」といったタイトルのもとでで考察してみたいと思っていたののですが、これ
はまた別の機会に。

補遺。フーコー『真理とディスクール』の訳者中山元さんの解説「パレーシアとフ
ーコー」に、「パレーシアという概念は、フーコーの思考の歩みにおいて、カント
に由来する真理の考古学、ニーチェに由来する真理の系譜学、そしてウィトゲンシ
ュタインに由来する真理の「ゲーム」という概念の全体をうけつぎながら、真理を
語る主体と真理を告げられる他者との関係に焦点をあてようとする」というくだり
が出てきます。このこともしっかりと記憶しておいて、いつか「ニーチェの残響」
を(たぶんこれも前々からの懸案だった「スピノザの屈折率」と同時に)仕上げる
べき時に反芻しなければ。
 

●480●神崎繁『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』
          (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.10.25)

 あの絢爛にして香気あふれる『プラトンと反遠近法』で一般読書界(そんな世界
がどこかに実在するのかどうか)に鮮烈なデビューを果たした神崎氏は、本人もあ
とがきで書いているようにプラトンやアリストテレスといった古代哲学が専門で、
いわゆるニーチェ学者ではない。

 左近司祥子さんはある書評でニーチェ専門家が書いたものではないから読んでみ
る価値があるといった趣旨のことを書いていた(うろ覚えなのでやや怪しい)。こ
の書評自体、ネコ派(左近司)対イヌ派(神崎)の熱い「確執」が底流に流れてい
るにもかかわらず、心温まるエールの込もったとても素敵な文章だったのだが、た
しかに業界で名の通ったニーチェ専門家のものに比べると読後感が新鮮だった(な
どと言えるほどにニーチェ本を読み込んだわけではないけれど)。

 でもニーチェと古代哲学末期の、たとえばストア派の思考とは確実につながって
いることは確かなわけで、神崎氏の本もそこのところはきちんと踏まえている(本
当はヘレニズム期の諸思潮について書きたかったのだが、シリーズの性格上やむを
得ずニーチェで「代用」したとぬけぬけ書いている)。

 まず、ニーチェ=引きこもり説(第1章「悲劇とソクラテス──ディオニュソス
的二重性」)に始まり、ルクレティウス的死者の視点をもった「実験としての単独
者」の海抜六千フィートからの思考(第2章「生と死の遠近法──至福体験の影」
)を介在させて、世界への引きこもりとしてのニーチェのキュニコス主義を語る(
第3章「永遠回帰──「メニッペア」風に)その構成自体が、ニーチェを論じなが
らも本当に書きたかったストア派やエピクロス派や懐疑論といった諸思潮について
実は語り、9.11以後の第二のヘレニズム期ともいうべき「世界情勢」を睨みな
がらも「世界」への態度(同情の禁止)という一点においてそれらの諸思潮が現代
においてもちうるアクチュアリティを甦らせているのだから、神崎氏の力量と人の
悪さは相当なものだ。

 とりわけ、紀元前三世紀キュニコス派(犬儒派)の哲学者メニッポスに由来する
メニッピア(メニッポス流の風刺、高みからの哄笑)をめぐって、バフチンが『ド
ストエフスキーの詩学』で十四の項目にまとめたその特徴がことごとく『ツァラト
ゥストラ』にあてはまることに気味が悪い思いをしながら(「実は、多少の思いつ
きも手伝ってこの比較を始めたものの、あまりの符合に途中から気味悪くなった」
と正直に、しかしぬけぬけと「感想」を述べている)、『吾輩は猫である』と『ツ
ァラトゥストラ』の同類性を喝破した丸谷才一の説を敷衍して漱石へのニーチェの
影響や『草枕』の「非人情」という考え方にメニッピアの影を見たりと、言いたい
放題を尽くした第三章はまことに圧巻である。こういう書物を私は好きだ。

《真の自由はつねに孤高である。だが、それは自己のうちに退却し、自己の想念だ
けを操るストア的自由でも、自己のうちに立てこもって冷笑するシニズム的な自由
でもなく、また、知性はすべての恐怖を解放すると、庭園のうちに閉じこもるエピ
クロス的自由でもない。キュニコス的な真の自由は、自分の動物性を認めそれを感
ずることのうちにある。それを肯定する人間にとっての再考の表現形態が哄笑なの
である。人間という動物のみが笑うことができる。》(114頁)

●481●熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』
          (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.11.25)

 熊野氏はカント哲学のエッセンスを抽出した「このちいさなカント書」(あとが
き)の締めくくりに、「カントの思考は〈境界〉をめぐる思考であった」(113頁)
と要約している。──まず、カントは「世界」をその境界(始まり)において考え、
物自体(経験の外部に存在するもの)と現象(空間・時間の枠組みのなかで経験可
能なもの)とを区別した(第一章「世界は始まりをもつか?」)。

 このような「超越論的観念論」の立場──認識のなりたちと対象との関係を問い
直す超越論的な視点からすれば、経験的には実在的な(現象そのものに帰属するあ
りようとしての)空間と時間が、超越論的には観念的なもの(物自体には帰属せず
「人間という立場からだけ」語りうるもの)であるとする立場(59-60頁)──こ
そが、「世界の外部に、世界を超越する神を考える根拠」(68頁)となる。しかし
その神は、思弁的(理論的)理性がそこにおいてめまいをおこして立ちすくむ境界
(思考の底知れない裂け目=深淵)としてあらわれる(第二章「神は世界のそとに
ある?」)。

 この境界、すなわち感性的なもの(思弁的理性)と超感性的なもの(実践的理性
)とのあいだを架橋するのは構想力なのだが、たとえばカントが『判断力批判』で
論じた「崇高なもの」(「端的に大」であるもの)は構想力にとっての無限=法外
なもの=不可能なものである。そこにおいて呈示される(呈示することの不可能性
によって呈示される)のは「構想力にとっての可能性と不可能性それ自体の〈境界
〉の上に揺らいでいるもの」(110頁)であり、そこにおいて経験されるのは「不
可能性に向かい、不可能性に無限に近接してゆく経験」(111頁)である(第三章
「〈不可能なもの〉をめぐる経験」)。

 ──正直に書いておくと、私は「カントの思考の奥ふかくにあるもの」(82頁)
を論じた第三章がよくわからなかった。たとえば熊野氏は「不可能性に接近する経
験」について、「より正確にいえば、主体のなかにわずかに存在する神的なものが、
ほんの一瞬ほのみえ、煌めく経験にほかならない」(111頁)と書いている。この
ことと、「カントが超越論的感性論において確立しようとした視点、空間と時間の
超越論的観念性という論点が、神学的/形而上学的な含みをあらかじめ有していた
」(65頁)ことの指摘とをあわせて考えると、本書で熊野氏が示そうとした「哲学
的思考のひな型」(あとがき)とは、人間(現象)が神(物自体)にアクセスする
無限の回路、端的に神になること(人間でなくなること)の経験可能性をめぐる思
考なのだろうか。

 神の似姿ではなくその痕跡としての人間。──ともあれ、いまのところ私にでき
るのは、偶像禁止の哲学(不可能性の経験をめぐる神学)としてのカント哲学の光
景、すなわち「世界をめぐる経験が神的なものと接する境界の光景」(82頁)を見
事に綴った熊野氏の文章を玩味することでしかない。

《問いは不在の深淵にたいしてむけられる。深淵とはまさに峡谷のあいまにふかく
抉られた裂け目、底しれない無の淵のことである。(中略)谷間をなす深淵は、た
んなる空虚である。そこに答えはなく、問いだけがいたずらにこだまする。理性の
深淵のなかで、答えのない問いかけが、ひとり反響している。けれどもそのことこ
そが、すがたをあらわすことがなく、世界のうちでかたどられることがないもの、
再考存在が不在のままにあらわれるかたちであり、この世界における神の痕跡なの
である。》(80-81頁)

●482●中島義道『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』
                  (講談社選書メチエ253:2002.11.10)

 中島さんは「私というあり方」一般をめぐる問題を、根源的自我や根源的身体(
超越論的身体)といった壮大なおとぎ話をもち出すのではなく、あくまでも日常的
で健全な目線にそって具体的に思考した。「私」という言葉の日常的な使用法、と
りわけ過去形の使用法に着目し哲学的に反省して、「私というあり方」を日常的な
私の了解のなかから「あぶり出して」みた(119頁)。

 その結論は、「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、過去の
体験を「私は……した」と語る者なのです」(16頁)というものだった。しかも、
ここでいう想起の対象は「無」であっても構わないのであって、「ここに私の秘密
が隠されている」(17頁)。本書の冒頭で早々と示されるこの「想起モデル」によ
る説明で、すべては尽きている。あとは「くどくど」(あとがき)と同じことを反
芻しているだけだ。

 強いて言えば、心身問題はじつは時間問題であるというお馴染みのテーゼに関連
してクオリア問題を切って棄てたり(第三章)、他者が私より存在論的に「後に」
成立するものであると規定したり(第七章)、さらには刑法総論の責任理論にこと
よせて「私の不在」を論じたり(第八章)、最後に「私の死」(消滅)がひらく「
まったく新しい(私の)あり方」の可能性を論じたり(エピローグ)と、仔細に立
ち入ってみればなかなかどうして多彩なのだが、基本的な「くどくど」性は拭えな
い。

 でもこの「くどくど」性こそが中島哲学の、いや哲学一般の秘密(というか魅力、
あるいは存在理由)を握る要諦で、たとえば野矢茂樹さんが「語りきれぬものは、
語り続けねばならない」(『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』)と
書いているのも、哲学的リアリティのよってきたるところを端的に言い当てたもの
だと思う。(ちなみに、野矢さんの『同一性・変化・時間』は中島さんの本書と鋭
く接近している。ついでに書いておくと、新宮一成さんの『夢分析』は中島本とほ
とんどオーバーラップしていたように思う。)

 ──本書は、カントの痕跡とウィトゲンシュタインの沈黙の「あいだ」、フッサ
ールの残像と大森荘蔵の残光(残考?)の「あいだ」に位置している。私はそこに、
つまり知覚(直観)と概念との中間物(観念)の世界、知覚対象から想起対象への
屈折(98頁)点、あるいは「知覚言語」と「物言語」の非因果的交錯の場、現在の
私と過去の私という両立不可能なものを現在の側からつなぎ、端的な同一性を確認
する場所に、ニーチェの残響とでもいうべきものをかすかに聞きとったように思っ
たのだが、これはもはや自分でも何を書いているのかわからない。

●483●野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』
                          (哲学書房:2002.4.10)

 これほどの書物はめったに出会うことがない。哲学書を読み終えたとき世界が根
本的に変わってしまうことは、そう再々あることではない。世界の見え方や見方が
変わったのではなくて、世界に対する態度(あるいは「私の論理空間」)が変わっ
た結果、まったく別の世界が開かれていく──「他者」の論理空間へと私がひらか
れていく?──「予感」(275頁)に身震いする、とでも言えばいいのだろうか。

 それほどの“読み”を強いる「希有の魅力」(3頁)をたたえた『論理哲学論考
』と『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の二冊の著作の交響は、そ
れこそ独我論者と反独我論者の哲学的対話の実況で、読むことがほとんど生きるこ
と──世界を「生きる意志」で満たすこと、つまり「幸せに生きる」こと──に等
しい場所へと読者を引き込んでいく。なにしろ大学院でのゼミの三年分の成果、と
いうより精華が「凝縮」(3頁)されているのだ。

 生と死の境界で格闘したウィトゲンシュタインの「哲学的めまい」(213頁)の
実質──ウィトゲンシュタインであるとはどのようなことか──と、「異様なほど
ラディカル」(279頁)で徹底的なその思考を細部の襞にわけいって解明し尽くし
──その過程で「存在論的経験」や「存在論的独我論」や「強いア・プリオリ」や
「虚構的可能性」や「野生の無限」や「語りの変化・時間性」(280-281頁)とい
った魅力的な概念を矢継ぎ早に導入し、そして「論理空間の変化」というウィトゲ
ンシュタインの世界の決定的な変更を促すアイデアを導入し──、ついに「私は『
論考』をウィトゲンシュタインの手から奪い取りたいのである」(273頁)と、哲
学書を読むことのほんとうの意味を告白する。

 それは、あたかも仏陀が無限に再来するように、ウィトゲンシュタイン=野矢茂
樹という「対象(実体)」の不滅性が永遠の相のもとに──論理空間「の中で」で
はなく、論理空間「とともに」──「不変の礎石」(255頁)として回帰するその
刹那を見事に語り続けた哲学ライブである。「永遠(無時間性)を生きるひととは
現在を生きるひとにほかならない」(『論考』6・4311)のだとすれば、ウィトゲン
シュタイン=野矢茂樹の思考は、いま現在も私のうちで対話を続けている。これほ
どの書物に出会えることは希有の経験である。

 余録。上の文章は、本書を読み終えた直後の興奮状態(星雲状態)で書いたもの
なので、哲学書を読むときの長く、時として退屈で辛い体験がまったく「生かされ
て」いない。

 哲学書を読むときは最初から順を追って、語りの時間(論理の筋道)に身を寄り
添わせ、それこそ身もだえしながら読むのが鉄則だ。それが苦痛であれば読むのを
やめればいいだけのことで、ごく稀に「ここに書かれていることは、私自身がかつ
てすでに自ら考えたことだ」と思い出す瞬間があって、もちろんそれは実際にそう
考えたわけではなく、可能性において考えたにすぎないのだが、とにかく「なぜこ
れは私が書いた書物ではないのか」あるいは「そこのところはそうは考えなかった
はずだ」などと感じるからこそ、長く退屈で辛い時間にも耐えられるのだし、ある
一線を超えたときの「フィロソフィカル・ハイ」(ロジカル+メタフィジカル・ハ
イ)を経験するのである。最後に投げ棄てられる梯子としての哲学書とは、そうい
うものだ。

(そもそも上ることのできない梯子としての哲学書、つまり私と論理空間を共有し
ない他者、野矢さんはそれを「意味の他者」と名づけていて、私はむしろ「野生の
他者」の方がいいと思ったのだけれど、それはともかく、そのような「他者」が書
いた哲学書の場合はどうか。むしろそういう哲学書こそ「私の論理空間」の変化を
促すものなのではないか。いやそうではない。そのような哲学書は決して書かれる
ことはない。そもそも「他者」と出会う場所は哲学書ではない。)

 話が脇へそれてしまった。ここで書いておきたかったことは、どうせいずれは忘
れてしまうに違いない、いまこの時の私の「哲学的興奮」をもたらした野矢氏の「
語りの時間性」を再現するための手掛かりだった。いわば、要約してしまうと雲散
霧消するこの「哲学的感覚」(問題感覚)のようなものを、いつかまた既視感、い
や既読感(既考感?)とともに「初めて」思い出す時のための個人的な備忘録。

 ──本書は三つの「三」でもって解明される。まず、『論考』を構成する三つの
ステップ。野矢氏はこれを「幸福になるための三つのステップ」(264頁)と呼ん
でいる。第一のステップは言語分析で、これを通じて「私が、この現実とこの言語
とを引き受け、その上でどれほどのことが考えられるのかという可能性の総体」(
261頁)としての「論理空間」(私が構成しうる像の総体)が張られ、「操作」(
論理語が示すア・プリオリな論理)と「基底」(名が表わす対象=実体)という基
本概念が解明される。第二のステップは、論理空間が「私の論理空間」であり、言
語が「私の言語」であること、すなわち「他の論理空間」の排除(存在論的独我論
)。そして、第三のステップが「見る」ことから「生きる」ことへの態度の変更。

 第二の「三」は、第一のそれに応じた「世界」概念の変容で、「事実の総体」(
現実)、「不変の実体の総体」(永遠の相のもとでの世界)、「意志に彩られた世
界」の三段階(266頁)。これらの「三」が『論考』そのものにかかわるものであ
ったのに対して、第三の「三」は野矢茂樹版『論考』の基本テーゼとなる。すなわ
ち、「未知の固有名の使用」「未知の概念の使用」「新たな形式の使用」という「
論理空間の変化」の三つのタイプ(276頁)。(さらに、本書の射程を超えるもの
として、思考の限界をめぐる前期ウィトゲンシュタイン、数学の証明の役割をめぐ
る中期ウィトゲンシュタイン、規則のパラドクスをめぐる後期ウィトゲンシュタイ
ンという第四の「三」をあげることもできる。)

 ──以上は、記憶のインデックスにすらならない言葉の羅列、概念の残骸でしか
ない。梯子を投げ棄てた私はあっけなく墜落し、またふりだしに戻った。結局、ウ
ィトゲンシュタインが『論考』で分析したのは徹底して日常言語であったこと、そ
して言語はどこかで世界と直接に結びついていること(128頁)、この二つをしっ
かりと押さえておけばよい。

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