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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.142 (2002/12/08)
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 □ 吉本隆明『吉本隆明のメディアを疑え』
 □ 内田樹『「おじさん」的思考』
 □ 中条省平『反=近代文学史』
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今日、神戸市営地下鉄の学園都市駅にある県立の商科大学で、国際公共経済学会が
あって、一般参加も可能だということなので出かけました。お目当ては宇沢弘文さ
んの記念講演。ローマ法王から貰ったという赤いベレー帽を被って、遠目には鈴木
清順そっくりな容貌と、野坂昭如を息せき切らずにしゃべらせたらこうなるかと思
われる低音の矍鑠とした語り口にすっかり魅了されました。

アダム・スミスの話(『国富論』に出てくるネーションとステートの違いとか)を
振り出しに、『共産党宣言』と同じ年に世に出た『政治経済学原理』でスチュアー
ト・ミルが、古典派経済学とは定常状態を是とする経済学なりと簡潔明瞭に要約し
たこと、そして制度主義経済学の始祖ヴェブレンの「制度」こそ定常状態を保つ仕
掛けなのであって、自然環境や都市インフレや制度資本(教育、金融など)といっ
た「社会的共通資本」がその制度そのものである。

以下、文部官僚 vs.宇沢の陰湿な戦いを底流に据えた戦後教育改革論が格調高く、
時として激越に、滋味豊かに、淡々と語られていきました。こういう「ご意見番」
が存命でいるかぎり経済学は大丈夫だと、不遜にも安堵したしだい。

──ご意見番というとき、私の念頭にあるのは、池田晶子さんが『魂を考える』の
なかで対比させている埴谷雄高と大森荘蔵、小林秀雄、それから他の書物で取り上
げていた養老孟司さんといった面々なのですが、この哲学の巫女自身も、老賢人と
は違う意味でご意見番の有資格者ではないかと思います。余談でした。
 

●477●吉本隆明『吉本隆明のメディアを疑え
      あふれる報道から「真実」を読み取る法』(青春出版社:2002.4.15)

 わたしは、そのときどきの社会総体のヴィジョンをじぶんなりに把握していない
と、純文学ですら成り立たないという考えを太平洋戦争の敗戦後から文学上の課題
としてきた。──吉本隆明はあとがきでそう書いている。この「純文学ですら」と
いう言い方に、それは逆ではないかというひっかかりを覚えたけれど(でも「その
ときどきの社会総体のヴィジョン」をじぶんなりに把握した娯楽小説の書き手がど
れほどいたのだろう、と考え始めたとたん、たとえば司馬遼太郎他の名がいくつか
浮かんできたのだから、吉本隆明の言っていることはやはり正しい)、このように
自分の「文学上の課題」を端的に毅然と語る年長者(ご意見番)は現代では得難い。

 「そのときどきの社会総体のヴィジョン」を把握せざるを得ないのは極限状態で、
それは「わたしの文筆を支えてきたのは、太宰治が『右大臣実朝』という作品の主
人公のせりふとして言わせた、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗
イウチハマダ滅亡セヌ、という言葉だった」(115頁)と書いているその「アカル
サ」のことだろう。本書で吉本隆明が語っているのは、メディアやエコノミストは
ほんとうのことを言えということだ。江藤淳が、悪妻の定評がある漱石夫人につい
て「殺意とも取られかねない不吉な意志」と書き得たことをもって「この人は真の
批評家だ」(162頁)と吉本隆明は賞讃している。

 ほんとうのことを書くためにこそ文学者は「そのときどきの社会総体のヴィジョ
ン」を把握する想像力をもたなければならないのであって、それは報道に携わる者
とて同じことだ。

●478●内田樹『「おじさん」的思考』(晶文社:2002.4.10)

 合気道の達人が書く文章はさすがに違う。生の様式、思考の生理ともいうべき文
体がびしっときまっている。はりつめた緊張のうちにしなやかな滋味がほどよくブ
レンドされていて、この「ほどよさ」が「おじさん」の持ち味だ。たとえば警察予
備隊(現実)と憲法九条(理想)の成立の順番が逆だったなら、後者の空洞化では
なくて、むしろその前者に対する抑制機能がくっきりと見えてくるはずだと達人は
言う(「「護憲」派とは違う憲法九条擁護論」)。こうした「双子的制度」の矛盾
がもたらす緊張に耐えてこその中庸であり、思想とは本来そういうものである。し
かし哲学はこれとは異なる。

《長じて分かったのは、「大人」はこういう答えの出ない問いをうまく避けるため
のわざを心得ているということだった。その「技法」の一つが「哲学すること」で
ある。/哲学とは人間の存在の根拠を問う「仕方」のことであり、答えられない問
い(宇宙の起源とは何か、宇宙の涯には何があるか、時間はいつ始まり、いつ終わ
るのか、死後私たちはどこへゆくのか、などなど)について考える「仕方」のこと
である。哲学は何か「答え」を提供するものではなく、「答えがうまく出ない問い
」を取り扱うための技法である。》(「哲学の効用」)

 この「思想」と「哲学」の中間に位置するのが「文学」である。達人は、文学的
虚構の造形を通じて「近代日本人の成熟(=おとな)のロールモデル」を国民の前
に提示してみせることをみずからに課した夏目漱石を論じた第四章(「「大人」に
なること──漱石の場合」)で、『虞美人草』の三人の青年をめぐって、「内面の
ある青年」小野くんと甲野くんが内部に蔵する他者と分かち合うことのない「内容
」よりも、「内面のない青年」宗近くんのまっすぐ相手の顔に向き合ってメッセー
ジを告げるコミュニケーションの「構え」や「作法」や「型」を称揚している。

 また、『こゝろ』に出てくる「先生‐K‐お嬢さん」から「私‐先生‐奥さん」
への三角関係の転移の契機となった「遺書」がもつ機能──「それが意味するもの
の取り消しを求めるシニフィアン」(ラカン)──をめぐって、次のように書いて
いる。《それは要するに、「遺書」を読んだあとの「私」が、若い人から「先生」
と呼ばれ、無根拠な敬意を寄せられる立場の人間になる他ないということ、そして
その責務を引き受ける他に選択肢はないということを知った、ということである。
/これが成熟ということである。》(243頁)──ここにある論理の飛躍は引用者
がしかけた罠で、気になる方は是非本文にあたって実地に確認していただきたい。
とても鮮やかな達人の冴えわたった論理の切れ味に驚嘆させられるだろう。

 以下は私の勝手な要約。──成熟(おとなになること=「わけのわからない」し
かし「正しいおじさん」になること)へいたる三つの道のうち、知的緊張の持続が
思想であり、反復練習の方法が哲学であり、秘密をめぐる作法・構えが文学である。
ここでいう秘密とは「内面」を分泌する私秘的な意味合いをもたない。強いて言え
ば秘伝、つまり奥義の伝達をめぐるコミュニケーションそのもののうちに表現され
るものである。(ついでに蛇足を加えると、ラカンの引用を読んで私は「秘すれば
花」という究極の言葉を想起した。)

●479●中条省平『反=近代文学史』(文藝春秋:2002.9.30)

 「三島事件とはなんだったのか」を問うた養老孟司の名著『身体の文学史』を横
目で睨みつつ、「反=近代文学史」を「僭称」(あとがき)しながら「反=近代」
の系譜学的流れを明治維新以前の、正確には『ボヴァリー夫人』と『悪の華』が世
に出た一八五七年以前の世界へと遡源し、そして時空以前の虚へ、つまり死者たち
の世界へと突き抜けた「反=歴史」的二十世紀日本文学史。

 実に凝った構成で、まず、仮想敵と見定めた夏目漱石の『こゝろ』に出てくる分
身たち、すなわち「先生」と「K」の「心の無間(=無限)地獄」が「外」から襲
ってくる力によって屈服し、意識の合わせ鏡の亀裂から血が、生命とエロスの隠喩
であり死と暴力の表徴でもある血がどくどくと流れ出す文学的事件の現場──これ
は余談だが、私は虫のように殺されたカフカの「K」と自死した漱石の「K」との
間に、ある同時代性と反転性を感じている──を見事に摘出した第一章(副題「敗
北する内面」)を起点として、第六章の夢野久作(「自我なき迷宮の構造」)と第
七章の三島由紀夫(「〈外〉をめざす肉体」)の間を分岐点に、二十世紀前半と後
半から五人ずつ選ばれた「近代という人間中心世界の外へ出ようと希求した」(あ
とがき)作家たちがちょうど鏡像関係を取り結ぶように配列されている。

 たとえば泉鏡花の「雅俗混淆体」(日夏耿之介の評言)の文体論に始まる第二章
(「内面を拒む神秘神学」)は、人間的虚構を解体する筒井康隆の言葉遣いを扱っ
た第十一章(「消滅する人間、消滅する言葉」)に反響している。第三章(「思想
なきからくり芝居」)のマゾヒスト谷崎潤一郎は、「アメリカ的な動物性」(柄谷
行人の評言)をもつ村上龍の「虫の知覚」を論じた第十章(「反=人間の想像的経
験」)へと接続される。

 窃視にはじまり反=人間的な触覚体験へ及ぶ第四章の江戸川乱歩(「人外境への
郷愁」)は、明治という牢獄における権力のまなざしに抗する唯物論者にして反=
時代者であった第九章の山田風太郎(「歴史の遠近法の破砕」)と補完しあう。映
画そのもののメカニズムを愛好した第五章の稲垣足穂(「人間的時間からの脱却」
)は、錬金術的な秘技としての遠近法を使ったイデアのマテリアリゼーションを偏
愛した第八章の澁澤龍彦(「観念から物質へ」)へと結びつく。

 そして、「自我忘失症」や「離魂病」や「胎児の夢」といった奇怪な語彙を駆使
して永劫回帰する記憶の物語(『ドグラ・マグラ』)を綴った夢野久作と、永遠に
排除された悲劇的で空虚な自意識を筋肉のビルディングでもって覆い隠しながら「
記憶もなければ何もないところ」へたどりつく物語(『豊饒の海』)を書いた三島
由紀夫。──いま駆け足で抽出したこれらの符合はほんの表面的なものにすぎない
し、さらに章と章を継起的につなぐキーワードが周到にはりめぐらされていること
(たとえば、終着点が出発点に、見ている自分が自分に見られている自分に転位す
る足穂文学の空間と知覚の螺旋構造は、『ドグラ・マグラ』の胎児の夢=進化論的
映画を予告している、等々)も含め、これは実際、見事に構成された書物である。

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