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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.141 (2002/12/01)
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 □ J・J・バハオーフェン『母権制』
 □ 山川鴻三『サロメ』
 □ 大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』上下
 □ 田辺聖子『『源氏物語』の男たち』
 □ 田辺聖子『『源氏物語』男の世界』
 □ 河合隼雄『紫マンダラ』
 □『大レンブラント展』図録
 □ 尾崎彰宏『レンブラント工房』
 □『エピステーメー』創刊号「特集=記号+レクチュール」
 □『哲学8号』1989年秋「可能世界」
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つまみ食いならぬ拾い読み、抜き書きならぬ抜き読み、はては活字にこだわらずた
だただ外形を楽しむ。世に言う速読とはたぶんまったく違う種類のものだと思うの
ですが、私は時々、棚卸しと称して、そんなかたちで書物にかかわる時間を持ちま
す。ちょうど暇つぶしに雑誌を読むように。これがうまくいくと、とても甘露な時
間(うたた寝の時もふくめて)がやさしく流れてくれるのです。
 

●467●J・J・バハオーフェン『母権制 古代世界の女性支配──その宗教と法
  に関する研究』上下(吉原達也他訳,白水社:上巻1992.2.20/下巻1993.4.30)

 浩瀚な書物とは『母権制』のような本のことを言うのだ。上下巻合わせて優に千
頁を超え、補遺も含めて12章164節におよぶ本書を熟読玩味していたら何年か
かるかわからない。白眉といわれるアイスキュロスのオレステイア三部作を扱った
第3章「アテナイ」の該当箇所と、オレステス物語の補完・続編でありアポロン的
父性原理の勝利を告げるオイディプス神話を扱った81節、それから第12章「ピ
ュタゴラス哲学と後代の哲学大系」を読み囓ってその香気を満喫した。(ちなみに、
浩瀚な書物で想起するのはシュペングラーの『西欧の没落』で、実際私は数年かけ
てまだ踏破できないでいる。)

●468●山川鴻三『サロメ──永遠の妖女』(新潮選書:1989.7.20)

 旧いサロメと新しいサロメをめぐる万華鏡。エピローグで明かされる太古のサロ
メ──原始の時代にさかのぼる地母神としてのサロメ。

《こうして、今日、女性原理の復権は、ようやくその緒につこうとしている。長い
男性原理の支配ののち、対極から対極に振れる振子現象のひとつとして、それはい
つか起るであろう。(中略)もし、こういう傾向が真に人間の間に行きわたり、女
がひとりひとり、女はすべてを生み出してすべてをのみ込む大地だという、自分の
大地性に目覚め、サロメは自分の中に生きているのだという自覚に徹するならば、
ロレンスが美しくも予言したように、「黄金の光に満ちた平和」が人類のうえに訪
れ、女たちは、「男を黙殺する」サロメの踊りを永遠に踊りつづけるであろう。》
(240-241頁)

●469●大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』上下(中央公論社:1989.9.7)
●470●田辺聖子『『源氏物語』の男たち ミスター・ゲンジの生活と意見』
                          (岩波書店:1990.1.26)
●471●田辺聖子『『源氏物語』男の世界』(岩波書店:1991.6.19)
●472●河合隼雄『紫マンダラ 源氏物語の構図』(小学館:2000.7.10)

 私には一つのコンプレックスがあって、それは『源氏物語』を原文はおろか現代
語訳でもまだ全編通して読み切っていないことだ。(一つというのはもちろん唯一
つの意ではない。)たぶん桐壺から須磨までさえ行っていない。というか、部分的
な拾い読みばかりで、どこまで読んだのかよく憶えていない。

 田辺聖子さんの本は夕霧と薫の章を読んだ。とてもしっとりとした、それでいて
どこかあたたかくて、艶めかしく心に沁みる文章はとてもよかった。久しぶりに文
章を読んだという気になった。大野・丸谷のコンビの対談はさすがの懐の深さで、
一気に読み切るのが惜しい。今後とも折にふれて読み込んでいくことになるだろう。
河合隼雄さんの「これは光源氏の物語ではなく、紫式部の物語なのだ」という仮説
は鋭い、というよりとても奥深い世界への扉を開いてくれるように思った。これも
いずれあらためてじっくりと読み込むことになるに違いない。

 人は『源氏物語』に本当の意味で出会うべき時をもっている。私にとってそれが
今この時なのかどうか、まだ見極められない。

●473●『大レンブラント展』図録(シーボルト財団発行)
●474●尾崎彰宏『レンブラント工房 絵画市場を翔けた画家』
                    (講談社選書メチエ57:1995.9.10)

 京都国立博物館がレンブラントと実によくマッチしていた。チラシやポスターに
も取り上げられていた「ユノー」と「描かれた額縁とカーテンのある聖家族」、そ
れから「目を潰されるサムソン」や……、結局すべての作品が深く濃い印象を残し
ている。絵画を語る言葉の貧困がうらめしい。

 『工房』は以前スピノザがらみで読んだことがあって、再読。その時は、レンブ
ラントとバロックの精神に関連させて『エティカ』と『千のプラトー』に言及した
箇所──「自然には無限の多様性があり、個々の様相が全体の部分であると同時に
全体でもある」云々(173-4頁)──を読みたくて、結局全部読んだ。17世紀の国
際商業都市アムステルダムが面白い。

●475●『エピステーメー』創刊号「特集=記号+レクチュール」
                          (朝日出版社:1975.10)
●476●『哲学8号』1989年秋「可能世界 神の意志と真理」(哲学書房)

 十代のたしか前半、いいかげんな雑誌のいいかげんな適性占いであなたは弁護士
か編集者に向いていますと出たことを今でもしっかりと憶えている。大学を二年留
年したのは出版社に就職したかったからで、その間親への言い訳のために法律家に
なるための勉強もしていた、とは自分向けの言い訳でしかなくて、ただモラトリア
ムを引き延ばしていたかっただけでしかない。もしかすると先の占いが影響してい
たのかもしれないが、そんなことはもちろん認めたくない。

 法律のことはさておいて編集について書くと、『遊』の松岡正剛、『ユリイカ』
や『現代思想』や『イマーゴ』の三浦雅士、『エピステーメー』の中野幹隆といっ
た人たちが私にとっての編集者のイメージで、前のふたりには学生時代からとても
お世話になった(もちろん一方的に)。中野氏の仕事に関心が高まってきたのは、
哲学方面の本を読むことがわりと最近の傾向だからなのだと思う。

 『エピステーメー』は古本屋で十一冊四千五百円で売りに出ていたのをずっと前
から目につけていて、しだいに高まる内圧に耐えきれずついに買ってそのまま一年
以上も本棚に並べていたもの。創刊号の編集後記に「記号の時代は本質的に神学の
時代なのだ」と書いてある。発行された当時にこれを読んだとしても中野氏の慧眼
に気づかなかったろうと思う。ついでに他の十冊の特集名を記録しておく。「仮面
・ペルソナ」「鏡」「水 生と死の深淵」「アインシュタイン 科学と哲学」「セ
ザンヌ」「空間」「ウィーン 明晰と翳り」「脳と精神」「映像と知」「現代数学
」。

 『哲学』の方はこれから少しずつ買いそろえていこうと思っている。「philoso
phicai quarterly 哲学 ars combinatoria 8」というのが正式な雑誌名で、ここ
に出てくるアルス・コンビナトリアは「観念編集術」とでも訳したいところ。

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