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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.140 (2002/11/30)
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 □ J・J・バハオーフェン『母権制序説』
 □ 青柳いづみこ『無邪気と悪魔は紙一重』
 □ 上山安敏『魔女とキリスト教』
 □ 河合隼雄『影の現象学』
 □ 関根清三『倫理の探索』
 □ 八木雄二『古代哲学への招待』
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●461●J・J・バハオーフェン『母権制序説』
                 (吉原達也訳,ちくま学芸文庫:2002.5.8)

 まだ回顧するには早すぎるかもしれないけれど、今年の前半は『マッハとニーチ
ェ』(2月)、後半は『海辺のカフカ』(9月)が忘れ難い本の代表になりそうで、
それぞれたくさんの書物の渉猟へと駆り立てられる起爆剤となった。この二つの本
を結ぶミッシング・リングを指し示してくれたのが『母権制序説』である。

 まずバハオーフェン自身がマッハやニーチェ(やカフカ)とともに「世紀転換期
」の思想状況の渦中にあった人物だし、アプロディテ的娼婦制からアマゾン的女性
支配を経てデメテル的母権制へ、そしてディオニュソス的女性支配を介在させなが
らアポロン的父権制へと推移する錯綜した闘争の叙述は、もう一つのヘレニズムと
もいうべき現代(帝国の時代)の根底に蠢くものをくっきりと浮き彫りにしている。

 すなわち、上山安敏氏が解説に書いているように「あらゆる文明を動かすことの
できる梃子は宗教」なのであって、「バハオーフェンは女性支配の日常面を母権制
とみ、宗教面を密儀とみて、母権制と密儀とは生活様式の表裏一体と考えている」。
ミッシング・リングはこの「密儀」に根ざしている。それは強いて言えばロマン主
義の後に来るもの(たとえば「特性のない男」)、つまり性差の発見と歴史=物語
の消尽と無意識の露呈の後に来るもの(たとえばグノーシス的単性生殖へと回帰す
る「第三次形而上学的変異」)なのではないかと私は考えている。

 補遺。河合隼雄氏は「境界体験を物語る」(『新潮』2002年12月号)で『海辺の
カフカ』を「偉大な物語小説」であるとして、カフカ少年がエディプスと違うのは
神ならぬ父親から自分の運命を聞かされたことにあると指摘している。

 『母権制序説』でもっとも刺激的だったのはアイスキュロス『オレステイア』三
部作の母殺し(父アガメムノンを暗殺した母クリュタイムメストラを息子オレステ
スが姉エレクトラと謀って殺害する)をめぐる論述で、バハオーフェンによればア
ポロン的父性原理の勝利を告げるオイディプス神話はオレステス物語の補完・続編
である。

●462●青柳いづみこ『無邪気と悪魔は紙一重』(白水社:2002.4.25)

 「まず第一に、真正の悪女とは、自分の行動を客観的に分析したり、総括しよう
としたりはしないものである」(あとがき)。それもそのはず、ファム・ファタル
(宿命の女)とはもともと男だったのだから。書名の由来となった太宰治の「カチ
カチ山」で、沈みゆく狸がアルテミスのごときつれなき兎にむかって「惚れたが悪
いか」と吐きだすように、そもそも男の欲望は分析や総括とは無縁なのだから。

 青柳さんはワイルドのサロメの台詞「ああ、ヨカナーン、ヨカナーン、…お前の
体は銀の台座に据えた象牙の柱。…この世にお前の体ほど白いものはなかった。お
前の髪ほど黒いものはなかった。この世のどこにもお前の口ほど赤いものはなかっ
た」云々をめぐって次のように書いている。

《私の推理では、ワイルドのサロメは作者の分身、つまり男で、同性のヨカナーン
を愛している。「死姦」と「視姦」をドッキングさせたようなこの台詞も、イメー
ジや触感を重視する女性なら、これほど具体的な身体の部位を列記して男性を賛美
することはないだろう。》(73頁)

 ──6つの章に編集された25のエッセイからなるアンソロジーのどの頁からも
妖艶かつ隠微、残酷かつ洒脱な香気が漂ってくる。「女が男の愛と性を区別できな
いように、男は女の占有欲と愛情を混同する」(116頁)といった冷気のこもった
警句も織り込まれている。なかでも「サロメちゃん」の百態をあつかった「女のや
り方」、有島武郎の『或る女』をめぐる「女郎蜘蛛」、ムージルの『トンカ』をと
りあげた「処女懐胎」が印象深い。《ムージルにとって小説とは、科学的思考の文
学的転位のようなものだったのかもしれない》(173頁)

●463●上山安敏『魔女とキリスト教 ヨーロッパ学再考』
                    (講談社学術文庫:1998.1.10/1993)

 神学・法学・医学という西欧中世に確立した「書かれた理性」の裏面に脈打つも
う一つの西欧精神史。法制史家の著者が前著『フロイトとユング』に続いて、バハ
オーフェンの『母権制』とウェーバーの『古代ユダヤ教』のねじれた接合の上に、
古代地中海世界のマグナ・マーター(太母神)とケルト・ゲルマンの樹木崇拝の混
淆による魔女の成立とマリア信仰の意味、そして魔女狩りの狂騒からアダムの最初
の妻リリトに依拠するフェミニズム神学まで縦横に論じ尽くした「上山学」の精華。

 ここでは第十九章「魔女の祖型」から二つの文章を抜き書きしておく。

《私は、日本の宗教がアニミズム的な多神教や祖先崇拝の性格を持つのに対して、
キリスト教が一神教と救済宗教の性格を持つといったたぐいの、彼我の対比を試み
る意図はもっていない。そういう図式的理解が教義という表層の解説にとどまるに
すぎないことは、キリスト教研究に入った者は誰でも感得している。私がヨーロッ
パにおける「魔女とキリスト教」というテーマに取り組んだ動機は、キリスト教の
教義はどの程度民衆の心性をつかまえ、民衆の民俗信仰はどの程度キリスト教化し
たのか、これを解くことが、ヨーロッパの精神史を語る重要な鍵ではないか、と考
えたからである。
 これまでヨーロッパイコールキリスト教というイメージが強かったのは、キリス
ト教が教育体制を独占したために、司祭、法律家、医者という中世以来のエリート
層を傘下におさめ、「書かれた理性」が口頭伝承の文化を圧倒してしまったからで
あった。民衆文化はキリスト教教養層によって「翻訳」され、したがってヨーロッ
パの精神史の底流に生き続けた民衆の信仰は表層にはでないのである。》(336-337頁)

《世紀末のアスコナ・グループ、シュヴァービングの宇宙論サークルは、ニーチェ、
バハオーフェンから知的刺激をうけ、ヨーロッパの生きた信仰であるユダヤ=キリ
スト教(旧約聖書、新約聖書)の神話の世界に大胆に踏み込んでいった。彼らはユ
ダヤ=キリスト教を父性宗教、バール、モロク、アスタルテ信仰を母性宗教として
両者を対比した。後者には宗教行為としてのオルギアがあり、女性が巫女として仕
え、豊饒信仰に普遍的にみられる人身御供、寺院売春が附随していた。これに対し
てユダヤ教は、神官職を男性が独占し、供犠とオルギアを禁じた。
 ユダヤ=キリスト教を、母性宗教、太母神、地母神、多神教の側からとらえ直す
思想が、世紀末の社会に広く共鳴して受け取められた。このことは、ヘルマン・ヘ
ッセ、ホーフマンスタールの作品を読めば明らかだし、ユイスマンの『さかしま』
やボードレールの『悪の華』にもうかがえる。》(341-342頁)

●464●河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫:1987.12.10/1976)

 あの浅間山荘事件の前年、「大学の中で影のはたらきの凄まじさが身をもって体
験されつつあ」った時代、非常勤講師の著者が京都大学教育学部で行った「心理療
法における悪の問題」という講義が本書の内容をなしていると、原著(1976年)あ
とがきに書いてあった。

 その後の河合隼雄の多産多様の世界を彷彿とさせる、しかし今となってはやや古
典的な読み物で、神話説話の類から西欧、日本の文学作品、古今の症例や患者が報
告した夢の断片など、ふんだんに盛り込まれた「影」をめぐる事例(現象)を、し
だいに濃度を高めていくダイナミックな章建てのうちに実に手際よく繰り出し、か
つユング元型論を縦横に駆使して鮮やかに分析し、はては善と悪、光と闇の対立の
彼方に「日本的」な第三の道を示唆する。

 いま「古典的」と書いたのは、たとえば「影の病」の章に出てくる二重人格の話
題の扱い方ひとつとってみても、やはりこれは一昔前のユングやヘッセの時代(世
紀転換期)に根ざした議論であるという印象を拭えないからだ。

 学術文庫版(1987年)への序に、「貿易摩擦の問題に示されているように、多く
の点で異文化との接触による葛藤が顕在化してきている……そのようなとき、われ
われは常に自分の影をもって他者に接することが必要であり、本書がここに……新
たな装いをもって世に出ることになった意義も認められるであろう」とあるのだが、
それから十五年を経た現在、もしあらためて序文を書くとすれば、河合氏はどのよ
うな文章を書くのだろう。

 ──そういえば、村上春樹が最初の三部作(「鼠」三部作)を書いたのも、「大
学の中で影のはたらきの凄まじさが身をもって体験され」たあの頃のことだった。
そしてまっぷたつに分離した影が描かれた『世界の終りとハードボイルド・ワンダ
ーランド』を経て、文字通り影の薄い佐伯さんとナカタさんという二人の登場人物
がたった一度の出会いで共に消失する『海辺のカフカ』へと「影」の物語は続いて
いったのだった。

●465●関根清三『倫理の探索 聖書からのアプローチ』
                     (中公新書1663:2002.10.25)

 これは内田樹さんが『「おじさん」的思考』のあとがきで紹介していることなの
だが、アウシュビッツ後、神を信じるのを止めようとしたユダヤ人に向かってレヴ
ィナスは、無神論とは神様はよいことをした人間には報償を与え、悪いことをした
人間には罰を下す存在だと考える人がとる選択肢で、それは「幼児」の選択だと語
った。以下は、レヴィナス老師の言葉(『困難な自由』)に託して内田氏が熱く説
く「大人」(成熟した「日本の正しいおじさん」たち)へのエール。

《神に真に神的な威徳があるとすれば、それは「不義なるものが勝利し、義人が受
難する」ような状況のもとでも、「人間が人間に対して犯した罪は人間が償う他な
く、神といえども人間が人間に対して犯した罪を償うことはできない」と断言でき
るような、自立した人間の成立を要求したことである。》

 関根氏は本書の第1章「善悪に報いる神は何処に」で、応報の神から贖罪の神(
十字架上のイエス)へと至るユダヤ・キリスト教の神観念の変遷を紹介したあと、
レヴィナスが『困難な自由』で自身のナチス体験を踏まえて、キリスト教の贖罪思
想を「加害者が罪を赦され休心するためのイデオロギー」であると拒否したことに
ついて、「まことに重い問いであり、軽々に反論を許さないものがあります」と述
べている。

《しかし恐らくユダヤ教とキリスト教の相違点が、ここに集約的に現れているよう
に思われるのも、また事実なのです。/恐らくキリスト教は、このレヴィナスのユ
ダヤ教的な言い方を、次のように言い換えるでありましょう。すなわち、〈生き残
った者は赦された罪人として、加害者の代わりに証言し続けて行く感受性と能動性
をもたねばならない。贖罪思想は、まさに加害者が自分の罪を赦されることによっ
て罪を自覚する切っ掛けとして、拒否ではなく、受容されるべきである〉。これが
キリスト教の発想ではないでしょうか。そしてこう考える限りにおいて、贖罪思想
は拒否される謂れはなく、むしろレヴィナス流の問題提起を正面から受け止めつつ、
それを乗り越える立場を闡明し得るのではないでしょうか。》(49-50頁)

 レヴィナスに一票。でも、こうしたユダヤ・キリスト教的な思考には息詰まって
しまう。遠藤周作が『影の現象学』(河合隼雄)の学術文庫版解説に書いている西
欧基督教伝統の影(無意識)のいまわしさに通じているように思う。それは十字架
上のキリストに「驚異」の一片も感じないし「躓き」すらしない私自身の「感受性
と能動性」の欠如からくるものだろう。だから私は遠藤周作の軽さと重さに一貫す
るものをたぶん理解できていないし、河合隼雄さんがたとえば「影と戦うのでもな
く、負けるのでもなく、微妙な共存を楽しむ」(『影の現象学』267頁)と規定し
た「日本人の特性」をうかうかと受け入れることも自戒しなければならない。

 何が言いたいのかというと、私は『倫理の探求』を読みながら根本的に共感でき
ないものを感じ続けていたということだ。それどころか、ここに収められた五つの
講演で関根氏は仲間内でしか通用しない観念を操っているだけなのではないかとさ
え思えた。

 ただそうした「反撥」をすりぬけるようにして、十戒は禁止命令ではなく元来「
否定詞+未来完了形」で、「君は殺しはしないだろう」という否定の推量もしくは
「君は殺すことなどあり得ない」という不可能性の断定を意味する(121頁,168頁
)とか、古代倫理思想の二つの源流の根幹には自然(ヘレニズム)と歴史(ヘブラ
イズム)という「人間を超えたものの働き」への「驚き」がある(232-233頁)と
か、そうした「驚異という根源的な事柄」には能動的緊張だけでなく受動的な安ら
ぎの側面がある(142-143頁)といった指摘が、なにか途方もない刺激臭を放ちつ
つ私の臓腑のなかにしみこんでいったのも事実で、それはおそらくユダヤ・キリス
ト教とギリシャの伝統が千年単位の時間を経て熟成していった精華が「倫理」とい
う言葉のうちにこもっているからなのだろう。

 いま最後に出てきた「受動的な安らぎ」に関連して、関根氏が「己の内なる努力
による充実によりも、自分はカラとなって十字架の贖いにすがる、あるいは自分は
外に開いてウツロになることこそが、赦しの宗教のポイントになりますでしょう」
(141頁)と書いているのを読んだとき、富岡幸一郎氏の『使徒的人間』を想起し、
河合氏の次の文章が浮かんだことを備忘録として記しておく。

《プシケーは神話によって、怪物と結婚しなければならないことが解ると、驚き悲
しむが、その運命に完全に受動的に従おうとする。このような受動性は、彼女の心
を元型的な世界に対して開かれたものとし、それとの無意識的な一体感を導き出し
てくる。そこにおける幸福感は「見ず知らず」の状態を前提としている。彼女は自
分の夫が何ものなのか見ようとも知ろうともしない。感じられ聞こえるだけのこと
で満足している。つまり、対象を未分化なままにしておき、その中に自分を埋没さ
せきっているのである。しかし、ここで彼女が少しでも「知る」ことに関心をもち
始めると、彼女は幸福ではあり得ない。》(『影の現象学』161頁)

●466●八木雄二『古代哲学への招待 パルメニデスとソクラテスから始めよう』
                     (平凡社新書156:2002.10.22)

 神についての科学(神学)を忘れた現代人、というよりキリスト教的背景なしに
ヨーロッパの近代科学を受容した日本人に「ヨハネス・ドゥンスの仕事を知れ」と
誘う、説得力と魅力に満ちた姉妹編『中世哲学への招待』のあの輝きが感じられな
かった。古代はあまりに遠すぎてわからない(それともあまりに近すぎて?)とい
うことなのだろうか。異形異貌の古代精神の息吹きを伝えるためには、井筒俊彦の
『神秘哲学』のように、古代宗教と真っ向から対峙する強靱な感受性が必要だと思
う。

 しかし、宇宙の理解に関して数学ないし幾何学を土台にするピュタゴラス=パル
メニデスこそがヨーロッパ哲学の源泉なのであって、「プラトンもアリストテレス
も、本質的にはピュタゴラス主義者だ」(10頁)とする八木氏の見解と、凝縮され
やや錯綜したその論証は鋭くかつ斬新だった(ように思う)し、だからこそ「わた
しとあなた」の人格をかけた厳しい吟味を旨とするソクラテスの独自性(異様性?
)も見事に捉えられていた(ように思う)。

 私が関心を寄せ刺激を受けながら読んだのは、アリストテレス以後、紀元前四世
紀から紀元後五世紀の「帝国時代の哲学」を取り上げた「エピクロスとストア派」
と「新プラトン主義とアウグスティヌス」の二章で、とりわけ、物心二元論を否定
するストアの生命論的思想と心身の区別を元来もたないキリスト教との親和性、も
しくは「現象」を単位として世界を見るストアの姿勢と近代科学との親和性、そし
て一者(超越者)からの発出と帰還によって世界を説明し、感覚対象を霊魂から切
り離した流体論的な新プラトン主義の哲学と神(絶対者)へのキリスト教的信仰と
の親和性をめぐる叙述、あるいはキリスト教的信仰の確立とともにストア的倫理哲
学の伝統がヨーロッパにおいて廃れ、したがって中世神学はひたすら科学的(ピュ
タゴラス的)にキリスト教の視点から見える世界を吟味し論じるばかりとなった、
云々の議論は掛け値なしに面白いものだった。

 なんだか誉めているのか貶しているのか、この本は買いだったのかそれほどでも
なかったのか、判然としなくなってきた。私には古代哲学がよくわからないこと。
私がいま強烈に惹かれているのはヘレニズム期の哲学思想であること。結局のとこ
ろ確認できたのはこの二点で、『中世』と同様、この本もまた私の常備本(いつか
きっと再読すべき本)となった。

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