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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.139 (2002/11/24)
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 □ 宮沢章夫『よくわからないねじ』
 □ 吉田修一『最後の息子』
 □ 有島武郎『或る女』
 □ 村上春樹『羊をめぐる冒険』
 □ 村上春樹『アンダーグラウンド』
 ※ 村上春樹『海辺のカフカ』(再掲・簡略版)
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先週に続いてこの週末も何かと忙しく、最近では年に四、五回くらいの頻度で出か
ける法事で一日費やしたりして、何冊かの本を読み終えはしたものの感想を書く時
間がとれません。で、今回は黒ネクタイを締めたまま乗り込んだ電車の行き帰りで
読んだ新作二本と旧作三本の組み合わせで、お茶を濁します。それから、番外の付
録として、以前書いた『海辺のカフカ』の簡略版を最後に掲載しました。別段の意
図はなくて、ただつくったから、というだけのことです。
 

●456●宮沢章夫『よくわからないねじ』(新潮文庫:2002.9.1/1999.4)

 青森出身の十八歳になる色白の少女が風呂上がりに「気持ちよかったでごわす」
と口走る状況を思い浮かべていただきたい。その場に居合わせてしまったあなた自
身の困惑と滑稽を想像してみてほしい。劇作家・宮沢章夫のエッセイを読むという
ことは、たとえばそのような場面(吉田戦車的な?)に遭遇させられるリアルなプ
チ狂気体験である。

 劇作家の想像力は「濃密な空間」へと向かう。固有名や生身の身体や対人関係ま
でもがことごとく記号化され、まるで中性子星のようにぎしぎしと凝縮した空間。
そこでは比喩はもはや比喩としての働きを失い、文字通りリテラルな、統合失調症
の妄想世界の風貌がかもしだされている。たとえば「アイスホッケーは格闘技だ」
と簡単にまとめてしまえるのならば、キノコ狩りだって格闘技で、それは「きのこ
の食毒性は先祖の人体実験によって知りえたことである」と同義であって、最初に
毒キノコを食べた人は偉大である。

 ここにあるのは社会批評でも哲学でもない。まして雑学でも処世訓でもない。「
濃密な空間」に潔く深く内閉した者のみぞ知る、つきぬけた青空である。そこにあ
るのは空の青みではない。人をばかにしたような、いやになるほど、どこまでも青
い空なのである。

●457●吉田修一『最後の息子』(文春文庫:2002.8.10/1999.7)

 小説は「つくりもの」である。料理と同じで、素材や器の吟味と客の品定めには
じまる時処機に臨んだ戦略の練り上げ、つまり技術の錬成が欠かせない。なにより
も「青春小説」においてこの原理は極まる。

 青春小説はキレが身上だ。恋人や友人や肉親との葛藤であれ、御しがたい身体や
未決定の将来への苛立ちであれ、そこには関係の抽象性への身勝手で狡猾な身の処
し方、言葉にすると薄っぺらな「心の闇」との不器用な間の取り方が残酷なまでに
クールに、かつ叙情的に描かれていなければならない。濃すぎると、たんなる恋愛
小説や私小説や教養小説や熱血スポーツ小説になってしまうのだ。その意味で、青
春小説は映画(もう一つの「つくりもの」)を最大のライバルとするだろう。

 吉田修一は本書に収められた「最後の息子」「破片」「Water」の三篇で、小説
家=言葉の料理人としての資質、とりわけ青春小説の書き手としての技量を存分に
実証した。そのキレ味は三篇の結末の鮮やかさ、潔さのうちに如実に示されている。

 巧みすぎて調理場の呻吟や快哉、時としてほくそ笑みすら客に気づかせるほどだ。
そのことに鼻白むか瞠目するか。それは読者の勝手で、私は吉田修一の徹底した方
法意識とそれがもたらすもの──映像のイメージ喚起力や記憶断片の編集術に拮抗
するもの、映画では決して表現できない「過去自体」とでもいうべき言葉の質感─
─にむしろ驚嘆した。

●458●有島武郎『或る女』(角川文庫)

 小説は言語によって書かれた作品、すなわち仮構である。有島武郎は、小説の仮
構性を思想性としてとらえた。それは、出来合いの思想を小説によって表現したと
いう意味ではない。また、小説を書くことを通じて新しい思想を生み出したという
意味でもない。そうではなくて、思想が生まれる現場を小説の中に実験的に仮構す
ることで、いわば思想の不可能性を表現しようとしたのである。

 このような意味で、有島の小説は実験小説であり思想小説である。彼の文学がリ
アリズム文学であるといえるのは、その叙述の技法や素材の選択といった様式のゆ
えではなく、自然や身体や社会あるいは他者との関係性のうちに、思想の生成と挫
折──思想の「生まれ出づる悩み」──の現場をリアルに描写しようとした仮構性
のゆえなのである。

 たとえば、『或る女』を前近代的な社会の中で自我の解放を求めた女性、早月葉
子の悲劇的な挫折の物語として読むのは間違っている。少なくとも、そのような見
方は皮相である。

 葉子は、決して女性や自我の解放という思想を生きたわけではない。かといって、
「生の喜び」を男の肉体に求めずにはいられない「女」として生きたわけでもない。
『或る女』の文体を際立たせる特異な身体表現によって仮構されるのは、肉の喜び
や性的一体化による愛の実体的基盤としての身体などではなく、外部とのかかわり
をおいては実現しえない欲望そのもの、「生きていたい要求」そのものが、「タク
ト」をもって外部との関係性を取り結ぶ場としての身体なのである。「妖力ある女
郎蜘蛛」が四つ手に張った網とは、生の欲望の表象やその構造ではない。それは、
欲望そのものが外部に対して仕掛けたわななのだ。

 思想とは、このようなわなを仕掛けたりわなに近づくことの中から生まれるもの
なのであって、逆ではない。「生きていたい要求」、すなわち有島のいう本能とし
ての愛が、自然や身体や社会あるいは他者といった外部とのかかわりにおいて「惜
しみなく奪う」ことを通じて、いいかえると外部との関係の不可能性の経験を通じ
て、思想は生まれる。

 このことを見誤ると、葉子の「挫折」を思想の挫折と取り違え、女性の身体性や
経済的自立をめぐる論議、あるいは自我の心理的次元において霊肉二元の克服を云
々する不毛な言説が、『或る女』の読解を通じて生み出されることになってしまう
のである。

《しかし葉子はとうとう今朝の出来事に打っ突かってしまった。葉子は恐ろしい崖
のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の眼の前で今まで住んでいた
世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行か
なければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうし
た。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木葉微塵
になくなってしまっていた。倉地を得たらばどんなことでもする。どんな屈辱でも
蜜と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば…。今まで知らなかった、捕虜の受
くる蜜より甘い屈辱!》

 ここで、葉子の「屈辱」を心理的次元においてとらえるべきでないことは、いう
までもないだろう。身心の錯綜をめぐる自意識の葛藤のドラマとして『或る女』を
読むことは、ミスリーディンクなのである。

●459●村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)

 村上春樹の『羊をめぐる冒険』は「写真の消滅」によって一つの物語が終わり、
二つの写真との出会いを通して新しい物語(無意識へと遡行する冒険=冥界降り)
が始まる。

 この作品では、前二作においてもそうであったように、時間は常に年号や月日、
時刻として厳密に表示され、音楽はいつも見えない衣装のように表層をすべってい
く。それらは決して無意識を宿したり開示したりはしない。繰り返し几帳面に記録
される性交や飲酒の場面が決して「陶酔」をもたらさないように。──その代わり
ここでは写真が「視覚的無意識」を、あるいは「読めない文字」を露呈させている。

   ※

 「あなたのことは今でも好きよ。でも、きっとそういう問題でもないのね。それ
は自分でもよくわかっているのよ」──そう言って、「僕」の妻はスリップ一枚残
さずアパートを出ていった。

《アルバムを開いてみると彼女が写っている写真は一枚残らずはぎ取られていた。
僕と彼女が一緒に写ったものは、彼女の部分だけがきちんと切り取られ、あとには
僕だけが残されていた。僕一人が写っている写真と風景と動物を撮った写真はその
ままだった。僕はいつも一人ぼっちで、そのあいだに山や川や鹿や猫の写真があっ
た、まるで生まれた時も一人で、ずっと一人ぼっちで、これから先も一人というよ
うな気がした。(略)何ひとつ残すまい、と彼女は決めたのだ。僕はそれに従うほ
かない。あるいは彼女が意図したように、そもそもの始めから彼女は存在しなかっ
たのだと思い込む他ない。》(第二章2「彼女の消滅・写真の消滅・スリップの消
滅」)

 その直後、「僕」は三枚の巨大な耳の写真に出会い、その耳の持ち主に出会う。
この「僕」の新しいガール・フレンドは、小さな出版社のアルバイトの校正係であ
り、耳専門の広告モデルであり、そしてあるささやかなクラブに属するコール・ガ
ールだった。耳を隠した彼女は、美人揃いのコール・ガールたちの中ではいちばん
見栄えが悪く、平凡ななりをしていた。しかし、耳を「開放」した彼女は別人だっ
た。

《彼女は非現実的なまでに美しかった。その美しさは僕がそれまでに目にしたこと
もなく、想像したこともない美しさだった。全てが宇宙のように膨張し、そして同
時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。全てが傲慢なまでに膨張され、そして
同時に全てが削ぎ落されていた。それは僕の知る限りのあらゆる観念を超えていた。
彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。
「君はすごいよ」とやっと一息ついてから僕は言った。
「しってるわ」と彼女は言った。「これが耳を開放した状態なの」》(第三章2「
耳の開放について」)

 そして、鼠からの手紙に添えられていた写真。《一枚の写真を同封する。羊の写
真だ。これをどこでもいいから人目につくところにもちだしてほしい。》(第五章
2「二番目の鼠の手紙 消印は一九七八年五月?日」)

 この写真から「羊をめぐる冒険」が始まり、「僕」は耳のモデルに導かれて、鼠
が住み首を吊って死んだ別荘(羊の写真が移された場所)へたどり着く。そして彼
女は去り、「僕」は空腹感に襲われる。

《「あんたはあの女にはもう二度と会えないよ」
 「僕が自分のことしか考えなかったから?」
 「そうだよ。あんたが自分のことしか考えなかったからだよ。その報いだよ」》
(第八章7「羊男来る」)

   ※

 この、虚無感をつきぬけたところに顔をだす空腹感、というよりリリシズムを伴
った寂寥感。失い得ないものすら失った喪失感、というより剥離感。ムラカミ・ハ
ルキの世界は、この作品でひとつの頂点を極めた。

●460●村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社)

 本書に収められたエッセイ「目じるしのない悪夢」の中で村上春樹は、『アンダ
ーグラウンド』執筆の動機を三つあげている。その第一は、「一九九五年三月二◯
日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか」を知ること。その第二は、
日本という「場のありかた」や日本人という「意識のありかた」を知ること。その
第三は、村上自身が作り出した「やみくろ」という生き物がもたらす恐怖と地下鉄
サリン事件がもたらしたそれとがつながっていたこと。そしてこれらすべてにかか
わってくるのが、「もうひとつの物語」という観念である。

《言い方は極端かもしれないけれど、この事件は結局は四コマ漫画的な「笑い話」
として、ビザールな犯罪ゴシップとして、もしくは世代別にプロセスされた「都市
伝説」というかたちをとってしか、意味的に生き残れない状況へと向かいつつある
ようにさえ思えるのだ。》

《「オウムは悪だ」というのはた易いだろう。また「悪と正気とは別だ」というの
も論理自体としてはた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかり
あっても、それによって〈乗合馬車的コンセンサス〉の呪縛を解くのはおそらくむ
ずかしいのではないか。
 というのは、それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされ
た言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉
だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、
固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまではいわずとも、相当な困
難を伴う作業であるように私には思えるのだ。
 とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた
言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための
別の物語)なのだ──ということになるかもしれない。》

《しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち
出すことができるだろう?(略)
 これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ご存じのように小説家とは「物
語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとっては大きいという以
上のものである。まさに頭の上にぶら下げられた鋭利な剣みたいなものだ。そのこ
とについて私はこれからもずっと、真剣に切実に考え続けていかなくてはならない
だろう。そして私自身の「宇宙との交信装置」を作っていかなければならないだろ
うと思っている。私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々と突き詰
めていかなくてはならないだろうと思っている(こう書いてみてあらためて驚いて
いるのだが、実のところそれこそが、小説家として、長いあいだ私のやろうとして
きたことなのだ!)。》

 しかし「もうひとつの物語」(村上の「次の作品」)はまだ書かれていないと思
う。──『アンダーグラウンド』(それは神によるヨブたちへのインタビューの試
みだったのかもしれない)そして『約束された場所で』(それは作者による登場人
物へのインタビューの試みだったのかもしれない)は「もうひとつの物語」ではな
い。

 追記。「もうひとつの物語」はたぶん2002年に発表された。

●番外●村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)

 十五歳の家出少年田村カフカ、女性でありながらゲイの大島さん、二つの年齢と
身体をもって登場する佐伯さん(少年カフカの仮説の母)、そして作品にしめる位
置がとても微妙なさくらさん(少年カフカの仮説の姉)が織りなす図書館と森の物
語(記憶を蓄積し保存する物語)。好漢星野青年との四国道膝栗毛でボケの超絶技
巧を発揮する猫探しの名人で文盲のナカタさんをめぐる逃走と異界の物語(記憶を
消費し接合する物語)。

 『海辺のカフカ』はこの二層の構造をもつ、ほぼ完璧な抽象度と造形性を湛えた
熟成された作品で、いつもながらの暗号解読と想像力の追体験というムラカミ・ワ
ールドの尽きせぬ愉しみを与えてくれる。

 とりわけ興味深いのは、二つの物語世界の接触とともに死を迎える佐伯さんが、
同様に醒めない眠りにつくことになるナカタさんに「原稿」の焼却を依頼し、そこ
に記録された佐伯さんの記憶が永遠に読まれることなく消滅してしまう(母殺し)
という結末だ。物語の発端にして分岐点ともなる謎の殺人事件(父殺し)ともども、
『海辺のカフカ』が作品の奥深くに潜めた無意識(『オレステイア』三部作や『オ
イディプス王』といった物語的・演劇的・小説的無意識)の輪郭をかたちづくって
いるのではないかと思う。

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