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■ 不連続な読書日記 ■ No.138 (2002/11/17)
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□ 松浦寿輝『折口信夫論』
□ 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』
□ 水林章『ドン・ジュアンの埋葬』
□ ジュリア・クリステヴァ『ポリローグ』
□ ディディエ・アンジュー著『皮膚−自我』
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いうわけか、会場の国立博物館を出ると視力がくっきり、明晰かつ判明に回復して
いた)、二年坂で京ぜんざいを堪能し、永観堂で紅葉を堪能し、町屋を改造したケ
ーキショップでモンブランを堪能し(これはちょっと気持ちが悪くなった)、おか
げで同時進行的に読み進めていた数冊の本がどれも読み切れなかったので、昔書い
たものをいくつか、それこそ不連続に紹介します。
●451●松浦寿輝『折口信夫論』(太田出版)
批評の言語がこれほどの達成をなしとげる様を私はかつて見たことがない、ので
はないか。本書に描かれた折口信夫も凄いけれど、折口の凄みをかくも見事に抉り
だした松浦寿輝の批評の文章の力が凄い。凄いというより怖いとさえ私は思った。
どう凄いかはとにかく実地にあたってみてくださいと言うしかないのだが、私自身
の「読書ノート」からそのさわりだけでも紹介したい。――折口信夫のいう「古代」は「通常の歴史研究のクロノロジーによって標定し
うるような時空とは異質なもの」である。《折口の「古代研究」とは、歴史の「外」、ないしその「前」をめぐる思考のこと
なのだ。「前」と言っても、歴史の内部における相対的な「前期」のことではなく、
歴史そのものの手前に位置している何ものかのことなのである。折口の「古代」は
かつて現実に存在した過去の一時代のことではないし、折口の「発生」は物事の起
源に一度かぎり起こって無を有へと転ぜしめた歴史的な出来事のことでなない。「
発生」とは、あらゆる瞬間に絶えず発動され、現象を現勢化させつづける現在の力
のことであり、「古代」とは、この力に瞳と字面とを唐突に密着したところに生起
する無時間的な出来事の束のことにほかならない。》「発生」について。松浦氏が同書でも引用している折口自身の文章から。
《一度発生した原因は、ある状態の発生した後も、終熄するものではない。発生は、
あるものを発生させるを目的としてゐるのではなく、自ら一つの傾向を保って、唯
進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止或は移動といふこと
にはならぬ訣である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、
更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いて居る。だ
から、発生の終えた後にも、同じ原因は存してゐて、既に或る状態をも、相変らず
起し、促してゐる訣なのだ。》(折口信夫『日本文学の発生 序説』)折口の「発生(反復)する古代」を考える上で、というより松浦氏が叙述する折
口のエクリチュールの特異性を考える上で、音、声がもつ重要性を見落とすことは
できない。松浦氏は、折口が『死者の書』の中で考案した特異な擬声語──「した した し
た」「つた つた つた」「こう こう こう」「をゝう……」など──に着目して、
この作品が<「音」と「声」の小説>であると述べている。《「つた つた つた」。跫音が伝わって来る。あたかも不可能な内部としての「石
」に封じ込めらるようにして仮死のさなかで凝固していた仮初の「死者」が、むっ
くりと身を起こし、言葉を伝わってわれわれのもとへやって来るのだ。…「つた
つた つた」は、廬の廊下を歩み寄ってくる滋賀津彦の跫音を模した言葉なのでは
ない。とりあえずそう読まれても仕方がない言葉でもあるが、読むという知的操作
に必要な隔たりを不意に見失ってしまったわれわれにとって、「つた つた つた」
は跫音であると同時に、むしろその「つた つた つた」という音響を跫音として生
起させるために滋賀津彦の蹠が蹴っている当の「物自体」なのである。
だが、翻って考えて見れば、意味であると同時に意味の発生原基でもある──描
かれた図柄であると同時にその図柄をのせる「基底材」でもある──というこの倒
錯的な二重性は、本来、言語システムの鬼っ子としての擬声語という品詞に固有の
本性であるのかもしれない。他の諸国語と比べて日本語にはとくに豊富なストック
があると言われるこの品詞は、その定義上極めつきのフォノロジックな記号であり、
従って、他のいかなる品詞にもまして仮名で表記される権利を主張しうる記号なの
だが、その音標文字としての特質に、或る意味で、言語の物質性の至純形態が見出
されるとも言える。》●452●亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)
本書に、組織論と美学をめぐる次の文章が出てくる。
《マヤコフスキーは、ソビエトや党の「一枚岩」的な組織に反対し、つねに衝突し
あい、自己批判を重ねあう生成の場としての弾力ある組織体を模索していた。それ
はまさにアヴァンギャルドの詩学そのものの実践であったと考えてよい。》《[メイエルホリドは]芸術の本質とは、つねに素材を組織するということである
として、N=A1+A2の公式を呈示する。すなわち、俳優(N)は、構想をたて
指示を与えるもの(A1)と、素材としての身体、すなわち構想者の指示を実行に
移すもの(A2)から成り立つ。俳優は、外部から与えられた課題に即座に応じら
れるよう、みずからの身体(素材)を鍛練しなければならない。そしてその課題は、
迅速かつ正確に行わなければならない。そのために奨励されるのが、テイラー主義
のシステムである。》引用文に出てくるテイラーとは、「科学的管理の父」と呼ばれるアメリカの経営
学者。ここから、ロシア・アヴァンギャルドを特徴づける二つのキーワードを抽出
することができる。すなわち、労働と科学。亀山氏は、ロシア革命に先立つ芸術革命を担った天才たちの間に二つの対立する
路線があったこと、それは「四次元的、超越的感覚こそアヴァンギャルドの本領と
見るべきか、あるいは身体運動のダイナミズムこそが芸術革命の本道であるべきか
」というものであったことを指摘している。ここで、四次元感覚は当時の最新の科
学理論であったアインシュタインの相対性理論に、身体運動のダイナミズムは労働
に、それぞれ関係するわけだ。また、1917年の革命は「労働と科学の勝利」であっ
たと亀山氏は書いている。やや強引だが、私は「労働と科学」がかつて人々に与え続けたに違いない新鮮な
感覚の由来を、「実験」という語彙でもって考えている。労働の美学化としての(
空想)社会主義(とはすなわち、生産・消費協同組合を構想するユートピア思想)。
労働の科学化としてのテイラー・システム。そして、これらの融合の上に立つ20世
紀の組織論と美学を特徴づけるキーワードが「実験」である。亀山氏は、ロシア・アヴァンギャルドが1930年代の粛正によってその可能性を抹
殺されたという「説話」を各分野ごとに慎重に検討し、「結局、最後に残るのは、
スターリン主義及び社会主義リアリズムがロシア・アヴァンギャルドを非合法のも
とに置き、その普及をきびしく禁じたという事実だけである」と結論づけたそのす
ぐ後で次のように付け加えている。《ただ、一つだけここで言い添えておきたい。ロシア・アヴァンギャルドをとらえ
た〈世界変革のための手段としての芸術〉という理念は、じつは二〇世紀初頭の象
徴主義運動をもとらえた理念であったということ、その意味において、社会主義リ
アリズムも含めた二〇世紀ロシアの芸術運動はすべて「世界変革」という固定観念
に呪縛された運動であった。今私たちは、それらの運動の全プロセスを一個の有機
体、すなわち芸術そのものの自律的な変容として大きくとらえ直す文化史的視座が
要求されている。》純粋と実験。理論と実践。現実の錯綜の中に埋没している領域をその純粋なかた
ちで掬い取る。そこに稼働している自律的な法則を「実験」によって確定し、「実
験」によってそのあるべき姿へと変革させる。そのことを通して現実もまた本来の
かたちへ、あるいはアナザー・ワールドとしてのユートピアへと躍動していく。このような思惟にとって、労働とは「実験」の質料であり実践であり、科学とは
「実験」の形相であり理論であった。そして組織論とは美しい協同社会の科学であ
り、美学とは個人の欲望と人間集団の「霊性」とを繋ぐ労働の技法であった。●453●水林章『ドン・ジュアンの埋葬』(山川出版社)
水林氏によれば、モリエールのドン・ジュアンは、たとえば結婚の秘儀性を破壊
し女性を商品化する悪魔として描かれているのだが、その悪魔性を端的に表現する
メタファーは「貨幣」にほかならない。エンゲルスが国家とは一定の発展段階にお
ける社会の産物である指摘していること(『国家・私有財産・国家の起源』)を踏
まえて、絶対主義的宮廷国家と市場的・貨幣的交換システムとが同時に成立しつつ
あった17世紀において、モリエールが描くドン・ジュアンの移動性は貨幣の流通性
を表現しており、他者の存在を根底から揺さぶるドン・ジュアンの誘惑の力とは貨
幣の力の表象にほかならないと水林氏はいう。《〈悪魔〉の衣装をまとった〈貨幣〉であり、〈貨幣〉という名の〈悪魔〉にほか
ならないドン・ジュアンが葬られてはじめて、最後には彼を葬った絶対王権それ自
体を危機に落としめるところの悪魔=貨幣が社会の全面を覆う時代が訪れるのであ
る。社会は、その深部に潜む、全面的な開花へと向かう市場的交換という前代未聞
の事態によって引き起こされる底なしの不安に、〈ドン・ジュアン〉というかたち
と名前を与え、その不安を手なずけようとしたのではないか。》水林氏はまたドン・ジュアンを「父にそむく者」と規定している。以下そのエッ
センスを箇条書風に記しておく。──『ドン・ジュアン』によって蒔かれた「父殺
し」の種がフランス革命の時代にいっせいに芽をふき開花したこと(ルイ16世の象
徴的な死)。にもかかわらず「父」はフランス近代を拘束する家父長制的法体系の
なかに復活したこと(近代とは「よみがえった父=聖なるものを温存したかつての
父の亡霊」の存在によって特徴づけられる時代であったこと)。このよみがえった
はずの父の亡霊が再度殺害されたこと(ド・ゴール将軍の象徴的な死)。そして誰
もが「凡庸なドン・ジュアン」になってしまった世界が今日のポスト・モダン的状
況であること、あるいはモリエールの『ドン・ジュアン』からアンドレ・ジードの
『贋金づかい』へ。(ところで、誘惑者ドン・ジュアンについてはキェルケゴールが『あれかこれか』
の第1部で詳細に論じていた。キェルケゴールは、内省的意識という重力を脱した
純粋な官能性は音楽でしか表現できないとして、たとえばモリエールが言葉の力を
もって描いたドン・ジュアンを軽蔑していたようだ。しかしこの点については、水
林氏の『ドン・ジュアンの埋葬』を読んだ後では少し割り引いて受け止めなければ
ならないように思う。)最後に、水林氏の同書から「生殖のメカニズム」について書かれた文章を引用し
ておこう。モリエールの時代にあって、家と子供をもとうとしないドン・ジュアン
の生活態度がいかに常軌を逸したものであったかに言及した箇所に出てくるものだ。《生殖のメカニズムがまだ解明されていない時代の話である。古代ギリシャのヒポ
クラテスは男女の種子の混合によって生殖が営まれると考えていたようだが、一般
には、十七世紀後半に女性の卵巣が発見されるまでは、生殖における男性の圧倒的
優位が信じられていたという。卵巣の発見によって揺らいだかにみえた男性優位は、
しかし、精子の存在が卵巣発見の数年後に確認されたことで維持された。優れた数
学者・科学者であったモーペルチュイは、「生殖は完全に女の肩にかかっていると
考えられてきたが、これで[精子の発見]男に返還された」と書いているほどであ
る。生殖は卵子のなかに精子が進入することによってなされるということが知られ
るには、一八七五年を待たねばならなかったから、その後も、生殖における男性の
役割を女性のそれよりも上位におく「思想」は、容易には勢いを失わなかった。》──いま上に紹介した二つばかりの文章は、本書の魅力のほんの一部でしかない。
●454●ジュリア・クリステヴァ『ポリローグ』(足立和浩他訳,白水社:1999)
クリステヴァは本書に収められた「物質、意味、弁証法」で、「フロイトがヘー
ゲルに対してどんなに口を閉ざしていようと、フロイトの無意識の発見は、弁証法
的論理(学)が可能にしたものを実現しているように思われる」と書いている。クリステヴァによれば、ヘーゲルの論理学が可能にしたもの、そしてまたフロイ
トの無意識の発見が実現したものとは「主体の脱中心化」であり、「意味の発生過
程の措定」である。まず、思考する主体という統一的な観念(意識的主体)が、観念の弁証法の絶頂
において、自らを呑み込んでしまう反対物、すなわち「主体としての物質」を産出
するのだが、この「顛倒」を実行するのが無意識であるとクリステヴァはいう。次に、物質的矛盾は具体的な歴史(反対物間の闘争)を通じて意味関係へと「移
動」するのだが、この歴史という矢印(「物質→意味」)が機械的な線条性の生成
ではないことを示すために、クリステヴァはそこに斜線を引き、「この斜線の役割
は、無意識という蝶番によって引き受けられる」と書いている。[注記]──ラカンがいうように、無意識が一つの言語(ランカージュ)として構造化さ
れているのだとすれば、この言語は、人間の脳髄のうちにあって論理や自然や精神
に関する学を網羅したエンツュクロペディーを志向するのだろうか。いいかえれば
(?)、ルクレチウスからヨハネス・エリウゲナ、ライムンドゥス・ルルスからラ
イプニッツを経てノヴァーリスへ、そしてマラルメやヴァレリーへと至る結合術の
系譜に属しているのだろうか。それとも、無意識を構造化する言語は、ボロメアンの結び目やメビウスの輪や内
部に穴を穿たれた管でできたトーラスのようなトポロジックなモデルでもって、あ
るいは様々な振動モード(音色)の絡み合いによって相互作用する弦でもって示さ
れるものなのだろうか。[注記]
私見を、というより私的なターミノロジーでもって「補足」しておくならば、物
質における離散性と連続性の矛盾関係(=ヘーゲルによって見出された最初の概念
としての「有、無、成」?」)が論理(=ヘーゲルによって見出された歴史?)に
よって叙述され、そのプロセスは無限(=ヘーゲルによって見出された無意識?)
という蝶番によって情報(意味=ヘーゲルによって見出された概念の最高形態とし
ての「絶対的理念」?)へと「移動」する(表現される)のだが、実はこのプロセ
スの全体が言語(ロゴス)なのである。すなわち、言語とは物質(過程)である。ちなみにヘーゲルは、論理学は絶対的理念の自己運動を「根源的な言語 das
urspruengliche Wort 」として叙述するものだという。この言語は「表現される
ものではあるが、しかしそれが表現されるときには、その表現は外的なものとして
直ちに消滅しているといった性質のもの」なのであって、「理念はただこのような
自らの言葉を聞くという自己規定の中にあるものにほかならない」(『大論理学』
最終章,武市健人訳)。──以下はまったくの余談だが、私は、ヘーゲルの論理学と自然哲学と精神哲学
の関係を、パースの三つの記号、イコン、インデックス、シンボルの関係になぞら
えて考えることができるかもしれないと夢想している。その場合、この三者はペン
ローズの三角形のような不可能な関係を取り結び、おのずから第四の次元(第四の
記号=マスク?)を炙り出すことになるのではないかと妄想している。●455●ディディエ・アンジュー著『皮膚−自我』
(福田素子訳,言叢社:原著1985/訳書1993)まず、本書で紹介されているマルシュアースの神話。
アテーナーはシカの骨から管が二本あるフルートを作り、神々の響宴で演奏する。
神々が皆その音色にうっとりとするなかで、ヘーラーとアプロディーテーだけは手
で顔を隠しこっそりと笑っている。不思議に思ったアテーナーがフルートを吹く自
分の姿をプリュギアの森の川面に映してみると、頬をふくらませ顔を充血させたそ
の様はひどくグロテスクだった。アテーナーは、拾った者に呪いあれ、と叫びフル
ートを投げ捨てる。
やがてマルシュアースがやってきてこのフルートにけつまづく。唇にあてようと
すると、フルートはひとりでに鳴り出す。こうしてマルシュアースは、アッティス
を悼むキュベレをフルートの音で慰めながら、その供としてプリュギア中をめぐり
歩くようになる。その音に魅せられた農民たちは、アポローンの竪琴でさえこれほ
どの演奏はできまいといいはやす。
怒ったアポローンは、勝者が敗者に意のままの罰を与えることができる技くらべ
を提案し、傲慢なマルシュアースはこれに応じる。優劣のつけがたい技くらべは、
アポローンが、自分のように楽器をさまさまに持ち演奏しながら歌ってみよ、と挑
戦を投げかけたことで決着がつく。
マルシュアースはアポローンによって生きながら全身の皮をはがれ、その皮はマ
ツの木に吊され、歴史時代にいたってもプリュギアの城塞都市セレーネーのふもと、
マルシュアース川が流れ出す洞窟の中に保存されていた。この皮は、川の流れが奏
でる音楽やプリュギア人の歌声を聞き分けることができた。(82-9頁)
──ディディエ・アンジューのコメント。《マルシュアースの神話の中で、他のギリシア神に比して注目すべきと思われるの
は、まず第一に音響の外被(音楽によってもたらされる)が、触覚的な外被(皮膚
によってもたらされる)へと移り変わってゆく点、第二には、不吉な運命(はがれ
た皮に表現されている)が幸運をもたらす運命に回帰していく(保存されたこの皮
は、マルシュアースの再生と国内における生活の維持や豊穰の復活を守る)点であ
る。》以下、アンジューは、「もし、思考が脳と同じほどに皮膚に関わるものであった
ら? そうして「皮膚−自我」と定義される「自我」が外被の構造を持つとすれば
?」という自ら設定した問いに答えていく。数々の魅力的なアイデアと新鮮な概念
に満ちた書。私は本書を読んで驚嘆した。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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