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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.136 (2002/11/02)
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 □ 夏目漱石『坑夫』
 □ カフカ『失踪者』
 □ ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』
 □ 保坂和志「カンバセイション・ピース」
 □ 保坂和志『残響』
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●438●夏目漱石『坑夫』(新潮文庫)

 年に一、二度、無性に漱石を読みたくなる。『行人』その他まだ読んでいない作
品がいくつかあるし、今年の年頭に読んだ『坊っちゃん』のように一度読んだもの
でも時をおいて必ずいつか読み返したくなる。『坑夫』は村上春樹の『海辺のカフ
カ』に出てきたので、カフカの『失踪者』とほぼ同時進行的に読んだのだが、予想
以上に夢中になれたし、なんといってもこれら三つの小説の関係が面白かった。で
も深読みはやめておこう。

 どこか落語を思わせるプレモダンな語りと人物の連鎖。身体と魂が小説的時空か
ら漏出して「無性格」の思想をつむぎだすポストモダンな二元構成。それらの交錯
でもって炙り出されるモダンな社会の構造と無意識の露出(坑道)。なにやら難し
げな言い方になってしまったが、「実験小説」と評されたこともあったらしい『坑
夫』には、いくらでも「解読」を許すところがあってとてもそそられる。でも深追
いはやめておく。充足した読後感を大切に保持しておこう。

●439●カフカ『失踪者』(カフカ小説全集1,池内紀訳,白水社:2000.11.25)

 池内紀さんは『カフカのかなたへ』の「だまし絵」の章で、「しかめつらしいカ
フカ論は数百、数千とある。そろそろカフカ・マンガが出てきてもいいのではある
まいか。カフカはマンガに打ってつけだ。ほとんど作品をなぞるだけ」と書いてい
る。さしずめこの『失踪者』などは、カフカ・マンガの最有力候補だと思う。ただ
し、池内さんはつづけて「とてもすてきな、実に現代的なマンガが生まれるにちが
いない」と言うのだが、私はちょっと違うような気がする。

 少なくとも『失踪者』は、子どもの頃によくテレビで見たアメリカ産で白黒無声
のどたばた道化・動物アニメが似つかわしい。17歳のカール・ロスマン。この「
無垢な魂」(池内紀「解説」)を持った「罪なき者」(カフカ)こそ、スラップス
ティック・コメディの主人公(たとえネズミ?)にふさわしい。(『失踪者』とほ
とんど同時期に書かれた夏目漱石の『坑夫』に出てくる19歳の「自分」や、村上
春樹『海辺のカフカ』の15歳の少年カフカでは、映画にはなってもマンガにはな
らない。ましてや動物が主人公のアニメには似つかわしくない。)

 ところで私が気に入ったのは、レスリング少女のクララや太った歌姫ブルネルダ、
ホテル・オクシデンタルの調理主任や秘書のテレーゼといった女たちだったのだけ
れど、そのイメージはいずれも猫で、カール・ロスマンはこれらの女たちに虐めら
れたり弄ばれたり可愛がられたり甘えられたりする。(これは母権制を背景にした
一種のマゾヒズム小説だと思う。だから、「断片」の最後に出てくるオクラホマ劇
場というのは文字通りのパラダイスで、カール・ロスマン改めネグロはたぶん死ん
でいる。)

 ところでカフカとウィトゲンシュタインを並べて考えるのも池内紀さんの影響を
受けてのことなのだが──そしてこれは野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む
』の第5章「論理が姿を現わす」で「『論考』は「矛盾からは任意の命題が帰結す
る」という論理法則を採用しない体系なのである」(111頁)と書いているの読ん
でいて思いついたことなのだけれど──、ウィトゲンシュタインが「ある体系の公
理の中に矛盾があったとしても、それはそれほどひどい厄災ではないだろう。傍ら
にどけておく。これ以上簡単なことはない」(『哲学的文法2』第14節)と書い
ているのは、カフカの「日記」の次の一節、「ロスマンとK。罪なき者と罪ある者。
とどのつまり、両者はひとしく罰として殺される。ただ罪なき者は打ち倒されると
いうよりも、軽やかな手でそっとわきへ押しやられるように消えていく」を想起さ
せる。

●440●ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』
                 (中村佳子訳,角川書店:2002.9.30/2001)

 あの『素粒子』に続く小説第三作目となる本作を出版した際、文芸誌とのインタ
ビューで「一番くだらない宗教はイスラムだ。コーランを読むとがっくりくるよ」
と発言し、イスラム教徒団体などから宗教的憎悪扇動や人種差別的侮辱の罪で告発
を受けていたミシェル・ウエルベックは、去る10月22日、パリの軽罪裁判所か
ら無罪判決を言い渡された(02年10月25日付け朝日新聞)。──たしかに『プラッ
トフォーム』のなかでも、バイオ化学を専攻し遺伝子工学の領域で輝かしい成功を
収めた英国籍の、とあるエジプト人の口から激越なイスラム批判がとびだしてくる。

《宗教は一神教に近づくほど──ここが肝心だよ、ムッシュー──非人間的で、残
酷になる。そしてイスラムはすべての宗教のなかで、最もラディカルな一神教を強
いる。イスラムは誕生してからずっと、侵略と虐殺の戦争を繰り返してきたことで
知られている。イスラムが存在しているかぎり、世界が平和になるわけがない。(
中略)誰だってコーランを読めば、あの独特のトートロジー、『唯一の神をおいて
ほかに神なし』、などといったトートロジーの醸しだす嘆かわしいムードに唖然と
せずにはいられない。こんな調子では物事を突き詰めることはできない。抽象的に
物を考える努力とはかけ離れている。ときどき言われるとおり、一神教への道は白
痴への邁進にほかならない。それならカトリックはどうか? 実によくできた宗教
だ。私は一目置いているんだよ。カトリックは人の本質がどういうものを好むかを
知っていた。それで初期の教義が課していた一神教からすぐに離れた。三位一体の
ドグマ、処女および聖人崇拝、地獄の鬼が持つ役割の認識、天使という見事な発明
を通して、徐々に正真正銘の多神教を確立していった。こうした条件があってはじ
めて、地上を数え切れないほどの芸術的栄光で覆い尽くすことができたのだ。唯一
の神? なんと馬鹿げた話か! いかにも非人間的な、人殺しの不条理だ!》(25
2-253頁)

 それでは西欧人が好むものとはなにか。性の満足だと「僕」(ミシェル)は言う。
《一方に数億人という西欧人がいる。彼らは欲しいものはなんでも持っている。た
だし性の満足だけは得られない。探してはいる。ずっと探しつづけている。しかし
なにも見つけられない。そして骨の髄まで不幸だ。網一方に数億人という持たざる
人間がいる。彼らは飢餓に苦しんでいる。若くして死んでいる。不衛生な環境で暮
らしている。体と、まだ傷のついていないセックスを売るほか手段を持たない。こ
とは簡単だ。至って簡単じゃないか。まさに交換にうってつけの状況だ。》(242頁)

 こうして、「僕」とヴァレリーとジャン=イヴの三人は「世界の運命のための土
台[プラットフォーム]」(250頁)を、つまり「クラブ・アフロディーテ」と名
づけられる観光ツアーの企画を打ち立てる。《セックス観光とは世界の未来像なの
だ。》(108頁)──ここには、『素粒子』で示された、一神教の発明、科学革命
に次ぐ第三次形而上学的変異後の「快感のエコノミー」をめぐる資本主義的変異が
描かれている。(もっとも、この「風変わりなクラブ」は立ち上げられると同時に、
タイのクラビーでの無差別テロによって破砕されるのだが。)

《ずっとあとになって、このヴァレリーとの幸せな時期を思い出し(かえって憶え
ていることは少ない)、僕はひとりつぶやくことになる。明らかに人間は幸せむき
にはできていない。人間が実際に幸せを活用できるようになるためには、おそらく
すっかり別のもの(肉体的に別のもの)に変わらなくてはならない。神に比肩する
ものがあるとしたら、それはなんだろう? まずはもちろん女性の性器があげられ
る。トルコ風呂の湯気もしかり。いずれにせよ、そのなかにいると精神というもの
があるかのように思える、そういうものであればよい。なぜなら肉体は満たされる
悦びに溢れ、あらゆる心配事は消えてしまう。今、僕は確信している。精神はまだ
生まれていないのだ。精神は生まれたがっている。しかしそう簡単に生まれること
はできないだろう。今のところ我々は精神に対して不十分で有害な考えしか持って
いないのだ。》(162-163頁)

●441●保坂和志「カンバセイション・ピース」
                  (『新潮』2002年8月号〜10月号)

 団体競技のプロスポーツ・チームには不思議なところがあって、たとえば阪神と
巨人の選手やコーチ、監督が総入れ替えで伝統の一戦を戦ったとしても熱烈な阪神
ファンならやっぱり阪神を応援するだろう。

 それでは阪神がまぎれもなく阪神であるその実質は何かというと、歴代の選手や
無数のファンの個別の感覚と情緒の総体としての記憶(あくまで野球場という〈家〉
と不即不離なもの)が醸しだす抽象的な何か、それは「脳が言語や物の識別をでき
るようになる前」(9月号,162頁上段)の幼年期の身体とか「能動態と受動態の
区別もはっきりしていない」(9月号,164頁下段)子どもの頃の感覚に根ざした
ものなのかもしれないが、とにかくそういった抽象的なものに「年表みたいな記憶
」(8月号,17頁上段)で編まれた歴史が足し合わさった何かなのだと思う。

 さっき大リーグ行きを決めた松井がテレビで「巨人魂」を忘れず云々としゃべっ
ていたが、そんな言葉でしか表現できない直接的で抽象的な何か、もちろん「巨人
愛」でもいいのだが、いずれにせよそれらは記号にすぎなくて、たぶんそんな言葉
を使ってみることではじめてほんとうは言葉なんかどうでもよくて分かる人には分
かるはずの何かを言い表したつもりになれるのだろう。──築五十年の〈家〉にも
それと似たところがある。

 小説家の「私」(内田高志)が子どもの頃、母と弟と伯父伯母と四人の従姉兄と
合わせて九人で住んでいた世田谷の家に、独りで暮らしていた伯母が死んで「おま
え住んでくれないか」と従兄に言われて「いいよ」と簡単に返事をして、妻の理恵
と妻の姪のゆかりとポッコとジョジョとミケの三匹の猫、それから後輩の佐藤浩介
とその会社仲間の沢井綾子と森中とは昼間だけ同居して、結局また九人(六人と三
匹)で暮らすことになった。

 第2章で墓参りにやってきた従姉兄の奈緒子姉と英樹兄と幸子姉(場所や時代を
超越して派手な恰好をしたがり感情の変化が唐突で何でも勝手に解釈し騒がしくよ
く笑う人たち)も交えて、それにしてもこの人たちはよくしゃべる。だらだらと落
としどころなく続く会話のなかで、そして死者や死猫の気配と記憶との交流を通じ
て、「私」はしばしば知覚と想起、感覚と記憶が混じり合い個別性を失って遍在し
ていく抽象的な「空間」(8月号,78頁下段)へとアクセスする。

 奈緒子姉が昔お風呂場で見た幽霊の話から擬人化、入眠幻覚、幽体離脱といった
話題に転じ、この小説で保坂和志は〈家〉をまるごと描こうとしているのだという
ことがくっきりと見えてきたところで連載は中断。次回は2003年3月号に掲載
される。それにしてもいったいどこへどうやって着地しようというのだろうか、目
が離せない。

●442●保坂和志『残響』(文藝春秋:1997.6.20)

 熱力学の第二法則(エントロピーの増大)にしたがって拡散していったあれらの
思いや感じは、いまどこでどうしているのだろう。単純であったり複雑であったり
する世界にあって、この「自分一人」の固有の経験や濃密で鮮明な記憶、淋しさや
不安やみすぼらしさや愛することの高揚感、感覚や感情や思考や「わかっちゃう」
ことの総体は、「コンクリートに残された凹んだ足跡」のように物質的に形象化さ
れているのだろうか。

 保坂和志は「コーリング」と「残響」の二つの作品で、ある実験を試みた。それ
ぞれ一人の男と二人の女という主要な三人の登場人物の想起や想像や思考が、日常
の基本動作を蝶番のようにして移動していく話を書くことで、「そのようにして描
かれる人物たちは、読まれるときにつながっているような印象になるのか、それと
も一人一人の孤独ないし隔絶感が強まるような印象になるのか、知りたいと思った
」のだ。「人が生きて死ぬという有限性や孤独や隔絶感が救われることがあるのか
」を、ある方法のもとで二つの小説を書くことを通じて考えてみたのである。

 その実験結果は「残響」の終末に出てくる二つの叙述のうちに、おぼろげな方向
性として示されている。──愛の状態において、「固有の経験が、固有ゆえの口調
や表情をともなうことで相手の記憶を喚起する力を持って、まるで自分たちの本質
に関わることのように豊富な意味を帯びているように感じられる」(185頁)こと。
人は一人でいても完全に一人というわけではなくて、「みんな誰だって自分のこと
がたまには誰かから思い出されていることがあると思って生きている」(178頁)
こと。

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