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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.134 (2002/10/20)
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 □ 池内紀『カフカのかなたへ』
 □ 平野嘉彦『カフカ』
 □ 三原弟平『カフカ・エッセイ』
 □ 阿部良雄・與謝野文子選『バルテュス』
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カフカ本、第二弾です。──その昔、大学生になって最初に暮らした下宿を引っ越
すことにした夜、わずかばかりの家財道具を片づけて、一冊だけしまわずにおいた
文庫本を一晩読み明かしたことがあります。なぜ一年も経たないのに引っ越すこと
にしたのかについては、個人的に忘れられない(嫌な)思い出があるのですが、こ
れは個人的なことゆえ割愛。

その時、憑かれたように読み続けた本がカフカの『城』で、その読後感は、まるで
つい先日読み終えたばかりのようにありありと蘇ってきます。こんな体験はそう滅
多にあることではなくて、だからカフカは私にとって特別な場所をキープしている
作家です。ただ、その後、同じく文庫本で続けて読んだ『アメリカ』がいまひとつ
面白くなくて、途中で放り投げてしまったのが心残りでした。

そこで、にわかにわき上がってきたカフカ旋風(あくまで個人的な)の勢いをかっ
て、池内紀さんの新訳『失踪者』を読みはじめたところ、これがめっぽう面白い。
訳がいいのか、読み手の方が変わったからなのか、それはわからないけれど、とに
かく面白い。カフカ本読みのカフカ知らずにならないためにも、このまま、先だっ
て完結したばかりの池内個人訳全巻を読み継いでみようと思っています。(それか
ら、『赤と黒』『パルムの僧院』『嵐が丘』『罪と罰』の個人的な再読本も。)
 

●424●池内紀『カフカのかなたへ』(講談社学術文庫1314:1998.1.10/1993)

 カフカとサーカス、カフカとウィトゲンシュタイン、その他諸々の解釈や暗号解
読や意味づけや関連づけをめぐる試みは、それこそ果てしないゲーム(カフカ・ゲ
ーム?)として無際限に続いていく。それはそれでとっても楽しいし、刺激にみち
た面白いものなのだけれど、でもネ、と池内紀さんはあとがきで書いている。《解
釈は解釈、意味づけは意味づけ──「でもネ、やはり作品にもどって、自分の目で
たのしむのが第一ですよ」。》

 池内紀さんは本書で、ほんとうに楽しみながら、その細部や断片を愛おしみなが、
カフカの作品のひとつひとつを案内している。だまし絵としての、あるいは未完性
をはらんだカフカの作品のかなたにあるもの、そして、「どこかしら碑銘の口調に
そっくり」な簡潔かつ明晰なことばで報告された、カフカの内的世界の実質を指し
示している。

《しかし、内的世界は、明晰に語り得るもののことではないだろう。むしろ語り得
るものの限界をはっきり規定することではなかろうか。
 ──とするとそのとき、おのずから、限界のかなたにあり得るものが見えてくる。
いわば「掟」の内部が姿をあらわしてくる。
 カフカにとっては、書くことが存在そのものにひとしかったにもかかわらず──
あるいは、だからこそかもしれないが──彼はつねに書くことに対して気むずかし
かった。「語り得ぬもの」の背後ににじりよるとき、その表現は当然、限界に向け
ての「発音練習」になるしかない。発音はそれに応じた特有の形をもたらすだろう。
(中略)
 そもそも彼は「再現」つまり「述べ」ようとすらしなかった。カフカが採用した
のは、おのずから現われるべき方法である。仮に文学ジャンルでひっくくれば、「
喩え話(パラベル)」というのにあたる。謎めいて機能する強烈な間接的伝達の方
法を好んだ。(中略)
 ことばによる謎をかさねていけば、最後には沈黙と同義語のパラドックスしかの
こらない。作品は「未完」に終らざるを得ないのだ。むろん、その未完性は、とび
きりの完全さの属性といっていい。》(179-181頁)

●425●平野嘉彦『カフカ 身体のトポス』
            (現代思想の冒険者たち第4巻,講談社:1996.11.10)

 交通と通信のテクノロジーによって、ホモエロティックな関係性から無機的なユ
ニセックスへと変貌する世紀転換期の近代都市空間。オドラデクの笑いのような「
非在の言説」がそこからの離脱を目論む認識や言語の媒体。──この二つの相でと
らえられた「カフカにおける身体」が本書の縦糸で、これに、身体性としてのユダ
ヤ人、家父長的権力とマゾヒズム、息子たちと懲罰、エクリチュール(紙に書かれ
た言葉、制定法)とパロール(掟)、等々の横糸が織り込まれて、カフカ解釈をめ
ぐる陰翳に富んだ書物ができあがった。

 月報に寄せられた三つのエッセイ(池内紀、日高敏俊、車谷長吉)の対比が面白
かったし、いしいひさいちの四コマ漫画はいつもながら冴えている。五人の思想家
(ベンヤミン、ブランショ、カネッティ、ドゥルーズ/ガタリ、デリダ)のカフカ
論を一瞥しつつ、すでに死んでいるにもかかわらずある意味では生きている身体、
すなわち文書(作品)としてのカフカの永遠性に説き及ぶ最終章「死後のカフカ」
もよかったのだけれど、とりわけ印象深かったのは、食物を咀嚼する器官であるに
とどまらず言語を発音する器官でもある歯をめぐる「肉食と音楽」の章と、「法学
博士にしてボヘミア王国プラハ労働者障害保険協会に職を奉じる官吏でもあったフ
ランツ・カフカのスコラ的実在論をめぐる「報告書」の章だった。

《書くこと、それが僕の存在のもっとも実りゆたかな方向であることが、僕の有機
体のなかで明白となったとき、すべてのものが寄ってたかって、ありとあらゆる能
力を、すなわち性の、食べることの、飲むことの、哲学的な思索の、そしてまず何
よりも音楽の、そうした歓びにむけられていた能力を空転させた。》(1912年1月
初旬の『日記』から,123頁)

 ──これを読んで連想したのは、池内紀氏が『失踪者』の主人公を論じたなかで、
写真にみるカフカの顔が奇妙な印象を与えることをめぐって、それは「大人になり
きらなかった顔」であり、いわば「大人になりきるための最後の一歩をふみださな
かった面貌」だと述べ、大人というものを要約するとどうなるか、と問うた後に書
きつけた次の言葉だ。《大人は大食である。そして大人はセックスをする。》(『
カフカのかなたへ』,101頁)

 補遺。変身したザムザの部屋に雑誌からピンナップした挿画がかかっていて、そ
こには「毛皮の帽子と毛皮のボア」を身にまとい「重そうな毛皮のマフ」をつきだ
している女性の姿がえがかれている。この「毛皮」ずくめの女性の形姿は、マゾッ
ホの『毛皮のヴィーナス』のヒロイン、ヴァンダ・フォン・ドゥナーエフに由来す
る。

 この「息子たち」の章に出てくる指摘は、ベンヤミンが「フランツ・カフカ」の
なかで、「かれの小説は沼の世界を舞台としている。かれにあっては生物たちは、
バッハオーフェンが乱婚制と呼んだ段階において、出現してくる」(野村修訳)と
書いていることとあわせて、とても印象深い。(ちょうど『母権制序説』を読みは
じめたばかりなので。)

●426●三原弟平『カフカ・エッセイ カフカをめぐる7つの試み』
                           (平凡社:1990.1.19)

 まず書いておきたいのは、この書物がとても美しいということだ。──数葉の写
真とカフカの筆跡やデッサンが随所にちりばめられ、杉浦康平さんのブックデザイ
ンで装丁された、所有することへの欲求をかきたて、読まずともただ眺めているだ
けでなにかしら満たされた思いにひたることさえできそうな本書には、「カフカの
アクチュアリティ」として二編、「多面体としてのカフカ」として五編、計七編の
エッセイが収められている。

 ユダヤ神秘主義をもって「カフカ解釈というあの屍るいるいの戦場あと」(16頁
)に新たな屍をさらしたショーレムとの往復書簡をふりだしに、天才作家と天才批
評家との運命的な出会い(?)が生んだベンヤミンの二つのカフカ・エッセイ──
そこには、「〈裏がえしの神学〉をもって歴史的唯物論を動かす、すなわち、生け
るカフカをもってマルクスを動かすというきわめて遠大な戦略が抱懐されていた」
(68頁)──を詳細に論じ、そのベンヤミンの本歌取りのおもむきをもつアドルノ
のカフカ・エッセイ、そして、アドルノのエッセイとの対応関係が見られるドゥル
ーズ=ガタリのカフカ・エッセイ──「…何よりもドゥルーズにとってカフカの生
とは一つの戦略となしうるものだったのだ。このカフカイストの戦い方は、確かに
マゾヒストの戦い方に近いのではあるが…」(126頁)──へと、しだいに加速し
ながら叙述が進む第一部。

 第二部では、眼の人カフカと触覚の人ベンヤミンの対比にはじまり、カフカの言
う「音楽」が「食物」や「断食」のイメージとからみ合うものであったことを確認
し、「ともかく、この電話線から聞こえてくる音楽[『城』第二章で、Kが助手た
ちに城に接なげせた電話口から聞こえてきたざわめきの音──引用者註]は、哀れ
な聴覚よりももっと深いところにしみ入ることを求めているかのようであった。カ
フカはそうしや「曰く言いがたいもの」を〈音楽〉という言い方で言っているのだ
」(257頁)と結ばれる「カフカの「非音楽性」」がいい。

●427●阿部良雄・與謝野文子選『バルテュス(新装復刊)』
                        (白水社:2001.5.15/1986)

 村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくる同名の絵の作者は誰だろう。誰だったら
いいだろう、と考えた。バルテュスだったらいい。それが私の結論。(最初にうか
んだのはスーラとかクールベの名で、あとで調べてみると、この二人はバルテュス
が敬愛してやまなかった画家だったんですね。)

 なぜバルテュスだったらいい、と思ったのかというと、まずバルテュスは猫と深
い関係を結んでいること。たとえばバルテュスは「猫たちの王」という自画像を描
いている。あるインタビューで「わたしは猫人間」だと答えている。リルケの序文
つきで13歳のときに出版された絵本『ミツ』は少年と猫の物語だし、晩年には『
猫と鏡』というとても印象深い三部作を残している。

 それから、これは私の勝手な印象なのだけれど、カフカの作品に挿絵をつけると
したら、やはりバルテュスをおいてほかに考えられないこと。バルテュスの作品に
『嵐が丘』の挿絵がある。あのタッチで、たとえば『失踪者』のオクラホマ劇場の
シーンなどが描かれていたら、と想像すると、ちょっとわくわくしてしまう。(そ
ういえば、バルテュスの兄、ピエール・クロソフスキーはカフカの翻訳者でもあっ
た。これもあとで調べてわかったこと。)要するに、私はバルテュスが好きだし、
それがカフカのイメージにぴったりだったということだ。

 ──本書の第一部には、澁澤龍彦、渡辺守章、種村季弘、金井美恵子、吉岡実と
いった十一人の文章が、第二部には、アルトー、エリュアール、カミュ、クロソフ
スキー、オクタビオ・パスといった十一人の文章や詩が収められている。そのなか
で、澁澤、種村の両氏がカフカに言及していたので、引用しておく。(バルテュス
絵の演劇性、物語性について短文ながら鋭い考察を加えた渡辺守章氏の「バルテュ
ス、あるいは視覚の劇場」も、カフカとの関連で興味深いものだった。)

◎澁澤達彦「危険な伝統主義者」
《バルテュスの好んで描く、少年や少女のいる暗い室内や街路の風景は、どこにで
も存在している平凡な日常の現実であり、驚異や夢の現実とは少しも縁のないもの
ばかりである。にもかかわらず、私たちはバルテュスの絵画的世界と向かい合うと
き、一般のシュルレアリスムの作品を眺める場合ときわめて近い、めくるめくよう
な不安感や、何か胸騒ぎをおぼえるような、はげしい郷愁に似た感動を味わうこと
があるのだ。
 ちょうど克明なリアリズムによって描かれたカフカの世界が、全体として異常な
非現実性をあらわすように、バルテュスの絵画的世界もまた、ともすると細部の現
実感によって強く支えられた、作品全体の異常な非現実性を覆いきれないのである。》

《[「コメルス・サン・タンドレ小路」の──引用者註]歩道の縁に硬直した姿勢
で坐っている小男は、私には、やがて一匹の甲虫に変身する運命を持っている男の
ように見えて仕方がない。あるいはカフカの『断食行者』のように、この男は、そ
の身体がだんだん縮小して、ついには無に帰してしまうのかもしれない、とも思わ
れる。
 いずれにせよ、この人気のない、ブラインドを下ろし鎧戸を閉め切った、日曜日
の商店街の閑散とした雰囲気には、妙に物悲しい情緒がただよっていて、判じもの
のように謎めいた登場人物たちの挙動にも、孤独と不安の影が色濃く滲み出ている
ことに、たぶん、読者も気づかれたことであろう。カフカの文学を別として、現代
の疎外感というものを、これほど見事に形象化した作品を、私はついぞ知らないの
である。
 詩的幻想というよりも、散文的幻想といったほうが、バルテュスの場合、より真
実に近いような気が私はする。》

◎種村季弘「永遠に通過する画家」
「…幼年時からの部屋のなかを毒虫に変身して身をよじりながら這い回るグレゴー
ル・ザムザにも似た、あのバルテュスの少女たち…」

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