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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.133 (2002/10/13)
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 □ 後藤明生『カフカの迷宮』
 □ 粉川哲夫『カフカと情報化社会』
 □ 三原弟平『カフカとサーカス』
 □ 平野嘉彦『プラハの世紀末』
 □ 池内紀『ちいさなカフカ』
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カフカの長編小説は完結しない。というより、どのまとまった部分や挿話や断片を
切り出してみても、それが一つの短い作品になっている。(カフカは朗読するため
に小説を書いたらしい。だとすると、ちょうど古典落語のように、どのさわりの箇
所を読みあげても、一つのパフォーマンスとしてなりたつことになるのだろう。)

このことをふまえて、三原弟平さんは『カフカとサーカス』で、川端康成とカフカ
の作品はまるで「方解石」のようだと書いている。池内紀さん(『カフカのかなた
へ』)が、カフカの方法は「工区分割方式」であって、その作品は一連の断片から
なる「空隙だらけの長城」そっくりだと書いているのも、これと同様のことを書き
手の側から指摘したものなのかもしれない。

私自身は、たとえば『源氏物語』のような歌物語(歌の挿入による切れ目をもった
小説)や、さらに悪のりをすれば、合唱つきの演劇(コロスによって「中断」され
るギリシャ悲劇)をここで連想している。──というわけで、まるで法学士・カフ
カの作品のように、さまざまな「解釈」(謎解き)を誘う村上春樹の『海辺のカフ
カ』に触発されて、読みちらかしたカフカ関連の本の報告。第一弾(たぶん)です。

今回、読んだなかで一番、印象に残ったのは、マッハの経験批判論の影響下にあっ
た「唯名論」的な時代背景のなかで、来るべき電子メディアの時代を(悪夢のなか
で?)「予見」したカフカと、『論考』のウィトゲンシュタインとの相似性の指摘
で、池内紀さんが『カフカのかなたへ』と『ちいさなカフカ』の二冊の本のなかで
引用したカフカの文章を、以下に抜き書きしておきます。

◎わたしは問題なく、伝え得ないものを伝えること、説き得ないものを説くことを
試みた。(日記)

◎伝え得ないのは、いいあらわすすべがないからである。いいあらわすすべがない
からこそ、伝えられようとしてもがく。(断片「田舎の結婚準備」)

◎わたしが記す語は、ほとんどどれも、ほかの語と折り合わない。わたしは子音が
ふれ合ってがたつくのを聞きとるし、母音が見せ物の黒人のようにわめくのを耳に
する。どの語のまわりをもわたしの疑惑がとり巻いており、語よりもより早く、む
しろわたしは疑惑を見つける。いや、そうではあるまい! 正確にいえば、わたし
は語を見つけない。わたしは語を生み出す。(日記)

◎言葉の弱さについてのあなたの指摘、語の限界性と、感情の無限性との比較はま
ちがっています。語における無限の感情は、自分の内部における無限の感情とひと
しいのです。わが胸にあきらかになるものは、同時に、語においても同様にあきら
かになるのです。ですから、けっして語をめぐって悩むことはないのです。語を見
つけて、しかるのち、わが身自身にこころをくばるべきでしょう。(フェリーツェ
宛の手紙)

◎わたしはかつて、自分がどうして自分の問いに対して答えられないのかがわから
なかった。しかし、いまわたしは、自分がかつて、どうして問えるなどと思うこと
ができたのかがわからない。(日記)

◎内的人生は、ただ生きることができるだけだ。描写できない。(日記)

◎沈黙は完全さの属性である。(日記)
 

●419●後藤明生『カフカの迷宮 悪夢の方法』
             (シリーズ「作家の方法」,岩波書店:1987.10.30)

 迷宮としての世界に迷い込んだ人間。これがカフカの最も基本的な認識で、その
迷宮としての世界を書き表す方法が悪夢であった。つまり、原因不明の運命として
の迷宮=世界を、原因不明の悪夢の方法で書くこと。これが、著者が示すカフカの
基本公式である。──カフカの小説は、読むたびに変わる。カフカを読むことによ
って、わたしが変わるからだ。無限に自己増殖する「超ジャンル」としての小説。

《カフカはあるいは、この[シベリアもしくはウラル・アルタイに発するシャーマ
ンとしての──引用者註]ピタゴラスの転生した二十世紀のシャーマンである、と
もいえます。「忘却」された「過去」を「想起」させるシャーマンです。そのシャ
ーマンとしてのカフカの物語から、いかなる声をきくか。何を発見するか。それが
「カフカからの路」であります。

 カフカの物語は、神秘的な「予言」ではありません。彼が語るものは、「未知」
としての「過去」です。その「未知」としての「過去」と重層し、離れようとして
も離れられない連続としての「現在」です。「現在」は、ちょうどコマのように、
常にくるりと「変転」します。そして、その変転を変転として物語る方法が、すな
わち「未知」としての世界──原因不明の迷宮としての現実への回路なのでありま
す。》(226-227頁)

●420●粉川哲夫『カフカと情報化社会』(未来社:1990.7.2)

 カフカの作品は物語られる(朗読される)ために書かれた。語り手が主人公のな
かに身を隠し、語り手と聞き手の分業関係が固定する近代小説とは違って、言わな
ければならないことをいわなかったり、二重三重の暗示をかけておきながら聞き手
に気づかせない仕掛けを施したりするしたたかな語り手、情報操作者としての語り
手がカフカなのである。

 このように「カフカは物語に前近代の語りの伝統をよび戻した」のだが、「それ
を最先端のテクノロジーのインパクトを受けながらやったということが非常に重要
」である。両者をつなぐものはイーディッシ演劇であり、映画であった。

 たとえば、ベンヤミンはカフカの作品を「身ぶりの法典」と呼んでいるが、カフ
カの登場人物の芝居がかった身ぶり(「サイレント映画のなかの役者の身ぶりのよ
うにそれ自体がすでに意味を提示している」)は東欧ユダヤの民衆演劇であるイー
ディッシ演劇の影響を受けている。また、ベンヤミンが「一大道化芝居」と呼んだ
『失踪者』の主人公カールは、バスター・キートンのスラップスティック・コメデ
ィを連想させる。

 じっさい、レコードが浸透し映画が出現する情報環境の大きな転換期をカフカは
生きた。そして、カフカは電子的コミュニケーションの時代の到来を予見していた。
カフカを読むことは、「情報操作に耐える訓練、情報化社会でしたたかに生きるた
めのトレーニング」をすることにほかならない。

《カフカの作品においては、読者は主人公や語り手よりもうわ手に立たなければな
らないのであって、読者こそが本当の“主人公”になるべきなのである。が、こう
した読者の主体的復権というまさに二○世紀文学のテロスを体現しているはずのカ
フカの作品が、世に言う“魔術的リアリズム”なるものをもって読者を呪縛し、そ
の主体性を拘束しているのは皮肉な逆説というほかはない。》(263頁)

 ──カフカに謎があるのではなく、謎はむしろこちら側にある。「こちらの謎が
増えれば増えるほど、カフカのテキストはそれをまともに引き受けてしまうのであ
る」。この「あとがき」に出てくる文章をふまえるならば、著者はここで「カフカ
作品の新しい解釈」を示してみせたわけではないのだろう。

 それにしても、おびただしい手紙による恋人フェリーツェの意識操作、あるいは
言語による身体の遠隔操作(ドゥルーズ/ガタリは、カフカのなかには「手紙によ
るひとりのドラキュラ」がいると書いている)の指摘をはじめ、アンドロイドとし
てのザムザやディジタル・ネットワークとしての城、等々、いたるところに鏤めら
れた「新しい解釈」への身ぶりは、それ自体「カフカ・ゲーム」にかすめとられた
一読者が演じるパフォーマンスなのであって、だからこそ私はこの本をとても面白
く読んだ。

●421●三原弟平『カフカとサーカス』(白水社:1991.5.10)

 カフカを評して「テキスト・パフォーマー」であると著者はいう。カフカにとっ
て書くことは生演奏(ライヴ)にも似た行為であったと。

《つまり、カフカにとって朗読がパフォーマンスであったことはさることながら、
ここで重要なのは、書くことそのものがカフカにとってパフォーマンスであったと
いうこと、すなわち、紙のうえで不可能性の観客をまえにして言葉そのものに化し
ていくというアクロバティックなパフォーマンスを行ってゆくことであった。カフ
カの作品、いや、カフカの書くものにみられる演劇性ということは、むしろ、パフ
ォーマンス性として考えられるべきものだろう。(中略)カフカがサーカスに興味
を持つ、というより、あんなに多くのサーカス物語を書いていることの理由の一つ
は、カフカにとって書くことが、それまでの書く概念とは違って、テキスト・パフ
ォーマンスとでも呼ばれるべき性質のものであったからだと思う…。》(「カフカ
のテクストの特異性」)

 こうして、フェリーニ(『フェリーニの道化師』)やエンデ(『サーカス物語』)
やヴェンダース(『ベルリン・天使の詩』)とは違う独特の空気を呼吸している、
しかし、ドガやスーラやロートレックが魅せられ己の画題にしてきたサーカスと深
い親縁関係にある、そして、最後に「オチ」をつけてしまうボードレールのそれと
も決定的に異なるカフカのサーカス物語──梯子乗り、曲馬嬢、空中ブランコ、動
物物語、夢のサーカスの破片、「断食芸人」、移動する祝祭劇場(『失踪者』のオ
クラホマ劇場)等々──をめぐる、とても刺激的で面白い本が書かれた。

 ベンヤミンはある書評で、本来的に平和と親密な職業は数学者と道化師である(
「抽象的な思考の大家であり、抽象的な身体の大家である数学者と道化師、彼らの
署名で保障されている平和だけが、私の信頼できる唯一の平和であるだろう」)と
書いている。

《しかし、二○世紀も終りかかっている今となっては、もはや数学者をベンヤミン
のように語ることはできなくなっているのかもしれない。また、ベンヤミンが本来
的平和と親密な職業として期待をかけたもう片方のクラウンたちも、その生存の場
であるサーカスが昔日の勢いを失い、数を減ずることによって、今やその存在その
ものが絶滅の危機に瀕している。しかし、ベンヤミンが『サーカス』についてのこ
の書評を書いた一九二七年、そして、カフカが生きていて、いくつものサーカス物
語を書いた一八八三年から一九二四年にかけては、サーカスが大衆の娯楽としてい
まだ黄金期にあった時代であり、そこには、オクラホマ劇場にみられるように、ユ
ートピアとしての具体的イメージをかいま見ることのできるものだったのである。》
(「組織体としてのサーカス」)

●422●平野嘉彦『プラハの世紀末 カフカと言葉のアルチザンたち』
                          (岩波書店:1993.7.21)

 ボヘミヤ出身のユダヤ人でのちにプラハに移住したマウトナーは、マッハの影響
下にある在野の言語思想家だった。そしてホーフマンスタールはマウトナーの主著
『言語批判論集』を読んで散文「手紙」を書いたとされ、カフカの初期の作品『あ
るたたかいの記』がその「手紙」の影響をうけている。こうした影響関係の有無を
別としても、カフカが、ウィーンの世紀転換期に有力であった認識系、つまり唯名
論の再来ともいうべきマッハ、アヴェナリウス由来の経験批判論を共有していたこ
とはまちがいない。しかし『あるたたかいの記』と同様、プラハとおぼしき街を舞
台とした『審判』では、カフカは実在論へと移行している。

 この冒頭で示された仮説はとても魅惑的で、その論証「過程」も刺激的だ。斬新
な着想と意表をつく展開が全編につらぬかれていて、「一介のモノマニア」の面目
が躍如した書物である。(木田元さんの『マッハとニーチェ』の系譜にまた一人、
魅力的な文章家が加わった。)──ところで、件の仮説はどう決着がつけられたか。
以下、備忘録。

 著者によると、カフカの時代、プラハでは交通標識の表示言語をめぐるドイツ語
とチェコ語の「戦争」が勃発していたらしい。(池内紀さんは『ちいさなカフカ』
に収められた「日記──カフカとヴィトゲンシュタイン」で、「ことによると、ハ
プスブルク統治下の諸都市で生まれあわせたユダヤ人は、ひとりのこらず言語哲学
者に生まれついていたのではなかろうか」と書いている。)

 また、著者によると、カフカが『審判』において普遍的な実在として、もしくは
実在としてほのめかしたものは「法」である。(池内紀さんは『カフカのかなたへ』
の「失踪者」の章で、失踪者とは失踪宣告を受けた者のこと、「城」にあたるドイ
ツ語は「(錠をかけて)閉じ込める」といった意味の言葉から派生していることに
ふれたあとで、「判決、失踪者、審判、流刑地、城。あきらかにカフカは同じ一つ
の主題のもとに一連の作を書いていた」と指摘している。)

●423●池内紀『ちいさなカフカ』(みすず書房:1999.12.17)

 カフカと手紙、カフカと映画、カフカと賢治、カフカとロボット、カフカとサリ
ンジャー、カフカとクンデラ、カフカとウィトゲンシュタイン、カフカと多羅尾伴
内(「カフカとアルセーヌ・ルパン」を読んでみたい)、カフカと長谷川四郎、そ
してカフカの息子と名乗る男の話。池内紀さんから読者への、十の言葉の贈り物。

 『失踪者』と『ライ麦畑でつかまえて』を比較した「少年」から。──《カフカ
とサリンジャーは、それぞれ自分の方法で無垢な魂の遍歴を描いた。それはいわば
打てば一瞬に砕けちるガラスのような影と光の子であって、人が早々と失いはては
はずの少年というフシギな生きものが、まざまざと感応を求めてくる。その息づか
い一つにも緊張して聞き耳をたてずにいられない。》

 カフカの『日記』と『論理哲学論考』を比較した「日記」から。──《カフカに
特有の語り口、とりわけ小説の書き出しを思い出そう。(中略)奇妙な経過が、ま
るで自明の理の事実であるかのように、簡潔で冷ややかな言葉で告げられ、報告さ
れる。それは『論理哲学論考』の…碑銘のような口調と、そっくりである。》

《カフカもヴィトゲンシュタインも、くり返し、書くことに対して気むずかしかっ
た。「語りえぬもの」の背後ににじりよるとき、当然、その表現は、限界に向けて
の発音練習といったものになるしかない。発音はむろん形を規定する。カフカもヴ
ィトゲンシュタインも言語の破壊によらず新造言語によらず、再現、つまりことさ
ら「述べ」ようとはせず、むしろ「現われ出る」方法によった。ヴィトゲンシュタ
インは『論考』においては、十進法の構成を採用し、またしばしば、「喩え話」を
用いたが、カフカの小説のことごとくが「喩え話」ともいえるのだ。そしてヴィト
ゲンシュタインと同様にカフカもまた、ことのほかキルケゴールを好んだが、──
同じ婚約者と二度婚約するなど、キルケゴールをまねたふしさえあるのだが──両
者はともに、あの北方の気むずかしい哲学者が得意とした「間接的伝達」の方法に
ひかれたからではなかろうか。》

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