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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.132 (2002/10/05)
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 □ ジル・ドゥルーズ『スピノザ』
 □ 合田正人『レヴィナスを読む』
 □ 野矢茂樹『同一性・変化・時間』
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●416●ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』
            (鈴木雅大訳,平凡社ライブラリー440:2002.8.10)

 この本は昔、一度読んだことがあって、そのときは頁数にして全体の半分くらい
をしめる第四章『エチカ』主要概念集をとばした。いよいよ『エチカ』全編の精読
を敢行しようと思いたって血気盛んな頃だったので、ドゥルーズ流のこの概念カタ
ログを参考書がわりにして、かつ実地に検証してみるつもりだったのだ。その後、
作業は遅々として進まぬどころか、実際のところ着手さえできなかった。田島正樹
さんの『スピノザという暗号』を読んだときも、今度こそはと奮いたったものだが、
それも一時の陶酔に終わった。

 そして三度目、いや、はじめて『エチカ』を手にした高校の頃から数えるとおそ
らくは十数度目になるだろう、この「小さな宝石のような書物」(訳者)が平凡社
ライブラリーに入ったのを機に、今度こそ「第二の『エチカ』、地下の『エチカ』
」(ドゥルーズ)ともども、風のように疾駆しながら、「スピノザの火のような言
葉」(ロマン・ロラン)に全身をさらしてみようと思っている。

●417●合田正人『レヴィナスを読む 〈異常な日常〉の思想』
                    (NHKブックス866:1999.8.30)

 合田正人は文体(律動)を持っている。これは思想を語る文章としては希有なこ
とだ。縦横にはりめぐされた磁力線にひきつけられるように具体的なものたちが、
たとえばテクストの断片や出来事や個人的記憶が思わぬ近さのうちにコラージュさ
れ、おそらく長い沈黙と自閉と熟成の時を経たならば垂直的に合成され著者自らの
思想もしくはフィクションとなって結実するであろうそれら具体的なものたちが、
これとは別の論考群へと水平的に開かれながら、いくつもの穴を穿ちながら異常な
スピードで一冊の書物を液状に編集していく。

 それをたとえて音楽のような──即興音楽でも具体音楽でも引用音楽でもなくて、
「超越論的経験論」と「アレルギー」という二つのライトモチーフを持ったブリコ
ラージュ音楽あるいはモザイク音楽のような──書物と言っていいかもしれない。
読者は、合田正人というミュージシャンが奏でるいくつもの旋律、律動に身をゆだ
ねながら、同じもの(超越論的)と他なるもの(経験的)との界面=浜辺で途方に
暮れている。

●418●野矢茂樹『同一性・変化・時間』(哲学書房:2002.9.15)

 人物の同一性(identity)ってなんだろう、と野矢さんはまず考えた。この「人
物」が「私」の場合と「他人」の場合とでは、問題の意味、存在論的意味とでも言
えるものが違ってくるのだろうけれども、野矢さんは、「私」という語はそれを発
言した人物を指示するのだと割り切る。(このあたり、野矢さんは永井均さんのこ
とを気にしながら議論を進めていて、232頁と252頁に永井さんの名が二度出てくる。
)そして、この「人物」をたとえば「船」に置き換えたとしても変わらない、問題
の「構造」そのものを問題にする。つまり、なぜ同じものが同じものでありながら
「変化する」と言われるのだろう、質的な同一性ではなく数的な同一性(numerical
 identity)を考えるかぎり、同一性の概念と変化の概念は折り合わないんじゃない
か。これが野矢さんにとっての哲学の問題だった。

 野矢さんはこの問題を数年間考え続けた。本書は、この同一性と変化の関係をめ
ぐる野矢さんの現在なお進行中の哲学的思考が、時間と言語の関係をめぐるひとつ
の思想へと時々刻々と熟成していくプロセスをあますところなく伝える哲学的実況
中継である。野矢さん自身は「哲学ライブ」とか「哲学の大道芸」と書いているけ
れど、まだ熟してもいない果実が木から落ちることがあるように、思想の種子も、
すぐれた編集者の手にかかると、語られている思想の内容がその語り方のうちにく
っきりと示されている本のかたちになって、読者の脳髄のうちに芽吹いてしまうこ
とがある。本書は、そんな前代未聞の本だ。

 だから、野矢さんが書いている「存在論が異なるならば、その言葉は異なる」(
流転的言語観)とか「言語がなければ同一性はない」「同一性がなければ変化はな
い」したがって「言語がなければ時間は流れない」等々の命題は、それだけを取り
あげて云々してみたところでどうしようもないのであって、ましてやそれを同一性
と変化と時間をめぐる野矢さんの哲学的思考の結論だなどと了解してしまうと、本
書が世に出たことの意味のおおかたが打ち消されてしまう。語りえないもの、ある
いは語りきれないもの(変化)については、沈黙するのではなくて語り続けること、
いや実況中継しつづけること。それこそがまた、一回性をもった出来事に対する、
つまりは歴史に対する態度でなければならないのだと思う。

 いま、「語りきれないものは、語り続けねばならない」と書いたのは、同じ哲学
書房から出ている野矢さんの『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を
念頭においたもので、この「二○○二年春、ついにウィトゲンシュタインが理解さ
れた」というとんでもない謳い文句でもって世に出された本は、「最近出た哲学者
の中ではピカイチ」の野矢さんの代表作になるのではないか。(さっそく買ってこ
なければ。)

 それにしてもこの本は、ずいぶんとたくさんの人々の思考や書物にリンクが張ら
れている。ウィトゲンシュタインや永井均をはじめ、大森荘蔵、田島正樹(『スピ
ノザという暗号』)、信原幸弘といった面々、それから第T部が第二回養老孟司シ
ンポジウムでの発表と討議の記録であることから、このシンポジウムに関係した面
々、とりわけ「差異と同一性」の章をもつ養老さんの『人間科学』、それから養老
さんからの連想もあって保坂和志さん、その他言及された数人の哲学者たち。

 なかでも保坂和志は、かつて『文學界』(2001年1月号)で対談した間柄だし(
この対談は、保坂和志さんのHPにアップされています)、クイちゃんが写真の中
の赤ちゃんだったパパと大きくなったパパとの間にうまく折り合いがつけられない
エピソードに始まり、迷い猫と茶々丸の同一性をめぐる騒動で終わる『もうひとつ
の季節』や、写真の中の猫や犬を見て、自分が生まれるよりずっと前に生きていた
無名の犬や猫がいたことをリアルに感じ、「時間がこの世界に残らないで消えてし
まう」ことをめぐる「思考の生[なま]」の生理を綴った「写真の中の猫」ほか九
編の小説を収めた『〈私〉という演算』などを思いうかべてみても、それに関する
生理を綴るか論理を中継するかの違いはあっても、「これから生まれようとする不
確かなもの」(『同一性・変化・時間』4頁)をめぐる保坂和志と野矢茂樹の感受
性というか感覚は、とてもよく似ていると思う。

 そういえば『同一性・変化・時間』の最終局面(278頁)に出てくる「残響」と
いう言葉は、保坂和志さんの同名の作品と響きあっているのではないか。(さっそ
く読まなければ。)

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