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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.131 (2002/09/29)
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 □ 高橋秀実『からくり民主主義』
 □ 西部邁『保守思想のための39章』
 □ 神野直彦『地域再生の経済学』
 □ 江口克彦『脱「中央集権」国家論』
 □ ロバート・B・ライシュ『勝者の代償』
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『海辺のカフカ』後日譚。──その一。朝日新聞の読書欄で、川上弘美が「恩寵に
満ちたメロディーを、私はこの物語の中に聞き取った」と書いている。悲劇的な予
言、運命、暴力的な悪や「人を損なうもの」への真摯な抵抗、そして恩寵、無数の
旋律の響き、複雑なコード進行や変奏や転調の中に隠されたいくつもの主題、「も
っともっと、生きてゆきたい。物語を読んで、久しぶりにそう思ったのである」…。
短い文章の中に川上弘美がちりばめたこれらの言葉は、村上春樹の想像力が紡ぎだ
した物語世界から帰還するためのパスワードなのだと思う。

その二。産経新聞に掲載された山城むつみの書評「暴力に対する赦しの難しさ」に、
「一編の眼目は悲劇ではなく赦(ゆる)しにある」と書いてあった。あれこれ抽出す
るのは面倒なので後半部をまるごと引用しておく。(川上弘美さんの読後感とのこ
の際立った違いはとても興味深い。というのは、私も『海辺のカフカ』を読み終え
た直後には山城さんのそれに近い感想をいだき、その後、物語を反芻しているうち
川上さんのそれにやや近い感慨を覚えるようになったからです。)

《本書では、決定的な出来事は常にこの世界から外れた次元で生起するのだ。
 四歳の頃、母が姉を連れて家を出た。このとき少年の中で何かが損なわれた。父
を殺し母と姉を犯すに至る彼の暴力は、その怒りと恐怖に発している。だから、少
年がその暴力を克服できるかどうかは、母に秘められている怒りと恐怖を理解し、
自分を捨てた彼女の暴力を赦せるかどうかにかかっている。
 結末、作者は森の中に異次元を開き、少年を送り込む。そして、母と対面させる。
思うに、このとき作者自身は、地下鉄サリン事件のあの暴力と対峙しようとしてい
たはずだ。
 暴力に対する赦しとは、深く、そして難しい主題だ。主人公が金属バットで闇の
悪を撃退した『ねじまき鳥クロニクル』の結末より条理として納得がいくものでも
ある。だが、自分を捨てた母を少年が赦す場面には妙にうそ寒い風が吹いている。
少年が犯したのが母ではなくその仮象であるように、彼が赦したのも母ではなくそ
の仮象でしかない。そら寒い風はその隙間(すきま)から吹いて来るようだ。
 なぜ赦しが人間の条件も他者も問題にならない次元で探られるのか。暴力がこの
世界のものなら赦しもそこで問われるべきなのではないか。引き込まれて読んだ分、
結末にもの足りなさを感じずにはいられなかった。》

村上春樹は『からくり民主主義』の解説で、「物書きの役目は(それがフィクショ
ンであれ、ノンフィクションであれ原則的に)単一の結論を伝えることではなく、
情景の総体を伝えることにある」と書いています。ここでいう「情景」とは、「も
のごとの真相は混濁、迷走していく、結論はますます遠のいていくし、視点は枝分
かれしていく、…何が正しいか正しくないのか、どちらが前でどちらがうしろなの
か、どんどんわからなくなっていく」、そのような混濁を突き抜けたときに見えて
くるもののことです。

川上弘美さんも山城むつみさんも、『海辺のカフカ』で村上春樹が伝えようとした
「情景の総体」を端的にとらえています。それは、全49章の長い物語の終盤、第47
章に出てくる次の文章に凝縮されているはずです。《お母さん、と君は言う、僕は
あなたをゆるします。そして君の心の中で、凍っていたなにかが音をたてる。》(
下巻,382頁)

こういった内在的な「批評」とは別に、やはり全編にちりばめられた「暗号」をめ
ぐる外在的な「解読」への誘惑はたちがたいものがあって、たとえば『海辺のカフ
カ』についてのノート[http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/kafka.htm]などは
結構いいところをついていたと思います。

私自身も、カフカが死の直前、「悪夢を書きちらしただけ」とノートやメモ類の一
切を焼き捨てるように言い残したことや、未完の長編『失踪者』について、訳者の
池内紀さんが「『アメリカ』の主人公は十六歳だったが、『失踪者』のカールは十
七歳である。冒頭の一章を独立して発表するとき、カフカは一歳若返らせた。十六
歳が「大きな子供」とすると、十七歳は少年から青年に踏みこんだ最初の歳にあた
り、いわば「小さな大人」である。つまりは『失踪者』は小さな大人としてアメリ
カへやってきた。新しい主人公とともに新しい物語がはじまった」と書いているこ
となど、いくつか「解読」のヒント(?)らしきものを入手しています。

そのほか「記憶すること」と「祈ること」、贈与と交換(貨幣的なるもの)、祈り
と鎮魂と赦しと愛と恩寵と贈与、たとえばスピノザとレヴィナスの関係にヘーゲル
をからませる(他なるもの)、等々、「批評」にも迫りうる(?)いくつかの手が
かりをつかんでいるように思っているのですが、これらの話題は今回とりあげた雑
多な本とは何の関係もありませんでした。
 

●411●高橋秀実『からくり民主主義』(草思社:2002.6.5)

 ただ単に前向きに「筋のとおった」弱りかたで一生懸命弱っている。「それはこ
うだ!」みたいな「そんなわかりやすい結論が出せないんです」。そんな高橋秀実
が、とてもよく調査をして、正当な弱りかたをして、それをできるだけ親切な文章
にした。結論のなさを読者が共有できるユーモアのある、ついつい笑ってしまう「
地べたのおかしみ」のあるノンフィクション。──以上、本文を読む前に先に目を
通してしまった村上春樹の解説「僕らが生きている困った世界」から。

 評判どおりに面白かった。それはたしかに面白かったのだけれど、率直に言って、
私はこのての文章は基本的に嫌いだ。嫌いなのだけれど、面白いから最初から最後
までじっくりと読んだ。右か左か、善玉か悪玉か、加害者か犠牲者か、推進派か反
対派か、純粋か不純か、可哀相なのはムツゴロウか農民か、沖縄の心かカネか、等
々、このてのわかりやすい二分法はマスコミの専売特許で、「実は…」マスコミだ
ってビジネスで、すべての事件・出来事には真相ならぬウラがある。そんなことは
「みんな」よくわかっている。わかっちゃいるけどやめられない。このこともよく
わかっている。わかっていて楽しんでいる。時に純粋に悲憤慷慨し、時に訳知り顔
にシニカルに了解する。そうして「問題はみんなで回して先送り」(第四章「みん
なのエコロジー」)。

《本書のタイトル、『からくり民主主義』とは「からくり民主─主義」です。…か
らくり民主の「民」とは「みんな」です。「みんな」が主になるのが「民主」。…
聞こえはよいが、これには矛盾があります。全員が主役になると主役はいないのと
同じだからです。そこで「からくり」が必要になるのです。》(終章「からくり民
主主義」)

 じゃあなたは、「とてもよく調査をして、正当な弱りかたをして、それをできる
だけ親切な文章にした」ノンフィクション作家のあなたは「みんな」ではないのか。
私が嫌いなのは、そのことに忸怩としない厚顔さと、羞恥を隠さない傲岸さだ。そ
れでも面白く読めたのは、高橋秀実という人物によるのだろう。忸怩、羞恥を包み
こんでしまう深さをもった人間なのだと思う。『週刊ポスト』の「著者に訊け!」
に載っていた著者の写真を見て、そして村上春樹の高橋評を読み直してみて、そう
思う。

 ところで、この本を読んで面白がっているあなた、いや私は「みんな」ではない
のか。

●412●西部邁『保守思想のための39章』(ちくま新書366:2002.9.20)

 保守思想の真髄は平衡感覚にある。たとえば、自由の過剰は放縦にいきつく。規
制の過剰は抑圧をもたらす。規制によって制限された「自由」と自由による掣肘の
もとでの「規制」、すなわち理想価値(自由)と現実価値(規制)のあいだの平衡
が「活力」である。このようにして、経済、政治、世間、文化という社会の四側面
に平衡をもたらす保守思想の価値の四幅対、すなわち「活力・公正・節度・解釈」
が得られる(22章)。

 しかしながら、これらの価値は実体ではない。歴史・慣習・伝統に根ざした枠組
み・ルールであり(感情・思考・行動の)形式である。技術知ならぬ実際知に基づ
く「皮膚」(オルテガ)であり「額縁」(チェスタトン)である。だから保守思想
は(しばしばアナーキーにみえる語り口でもって)物語を紡ぐ。《保守思想家たち
の多くは、物語における結構がきわどい平衡感覚によって保たれることを知ってい
る。その平衡感覚を表すに際して、ニーチェ的なウィット(機知)やチェスタトン
的なユーモア(諧謔)が必要だということも知っている。》(13章)

 つまり、平衡感覚は歴史感覚である。それは「愛着[アタッチメント]」によっ
て培われる。保守主義者ならぬ保守思想家の愛着は、抽象的・一般的な「目的」(
理想)にではなく、より具体的・個別的・特殊的な「手段」や「手続のルール」(
たとえば会話の作法)に向かう。保守思想が現実主義的であるとは、その意味にお
いてである。《愛着するものを何も持たない人間だけが、変化をそれ自体として迎
え入れる、それが進歩主義の正体なのだ、と保守思想は見抜いただけのことである。
/「それ自体として」楽しみを与えるもの[たとえば会話──引用者註]を大事に
するのが保守思想だということもできる。愛着はまぎれもなくそうしたものである。
》(10章)

 かくのごとく、保守思想は具体的現実性に執着して、思想の論理的体系化を嫌悪
する。《しかし、具体的現実の存在感に訴えるというのは、思想として邪道であろ
う。保守思想は認識論と実践論において、また両者の相互関係において、かなりに
体系化しうるものである。それを述べるのが本書の趣旨ではないが──本書のねら
いはこの体系化において考察すべき事項を網羅的に指摘しようとするところにある
──その体系化の出発点として、「自分」を(あるいは自我を)、個/集と公/私
の四元軸のなかにおくことが不可欠だと思われる。》(12章)

 「四幅対」といい「四元軸」といい、旧著『知性の構造』で明かされた西部邁の
「図解思考」が特有のレトリック(語り口)を纏って存分に発揮されている。小著
ながらボディブローのように効いてくる「濃すぎる」書物で、個人的にはノヴァー
リスとキルケゴールに関する記述(12章,36章)が面白かったけれど、たぶん再読
はしないだろうし、次の記述などはいったい何が言いたいのかよく理解できない。

《保守思想の問題としていえば、国民が天皇に愛着を寄せているかどうかだけを問
うのは思想の怠慢といってよい。その国民的な愛着心の根底に時代意識としての歴
史時間が横たわっていることを知らねばならない。(中略)ほかの言い方をすると、
思想の次元では、歴史という観念を愛するならば天皇という存在に愛着を寄せざる
をえないというふうに思考しなければならない。そして同時に、実践の次元では逆
に天皇を愛することを通じて歴史の観念を抱くに至るというふうに生活する。それ
が保守的ということなのだ。》(38章)

●413●神野直彦『地域再生の経済学 豊かさを問い直す』
                       (中公新書1657:2002.9.25)

 ブレトン・ウッズ体制の崩壊がもたらした金融自由化、資本移動のボーダーレス
化とともに経済システムのグローバル化が進展し、国境=ボーダーを管理する中央
政府の所得再配分機能(福祉国家に見られる「現金」給付による社会的セーフティ
・ネットの構築)が不全に陥る。これがヨーロッパを中心に80年代以降、地方分
権(身近な地方政府の「現物」給付による社会的セーフティ・ネットの構築)への
潮流が生まれた背景であった。

 その根本にあるのが、大量生産・大量消費の工業社会から情報・知識社会への産
業構造の転換であり、これを都市(地方政府)の側からみれば、生産の場としての
荒廃から大地(自然環境)と文化に根ざした生活の場への再生でもって歴史のエポ
ックに対応することである。都市の再生は、その財政的自立なくしてありえない。
そして、財政とは地域社会の共同経済である。欲望の充足は市場に委ねればよいが、
地域住民のニーズに応えるのは財政である。

 ──こうした基本認識に立って、財政学者・神野直彦が提示する「処方箋」には
とても説得力がある。農政と税制を研究すればおよそ人の世の営みは了解可能であ
る、と誰が言ったか知らないが、本書に盛られた政策的思考は真正の「保守思想」
のみが持ちうる平衡感覚と歴史感覚に裏打ちされている。

●414●江口克彦『脱「中央集権」国家論 地域主権をいかに創造するか』
                        (PHP研究所:2002.10.2)

 日本の悲惨の元凶は国のかたち(中央集権)にある。日本には「新しい服」(地
域主権国家)が必要だ。ゼロ・ベースで考え、日本アルプス型の「州府制」を確立
して、自治体による国の「共同経営」をめざすべき。

 ずいぶんとお気軽な地方制度改革論だな。現下の問題が中央政府から地方政府へ
と、その舞台を変えるだけではないか。そこで著者は、佐々木信夫氏(中央大学教
授)の自治体機能三分論を踏まえ、政治体、政策体、事業体としての自治体の変革
の方向と住民意識の改革の必要性を論じている。

 論じるだけなら誰でもできるぞ。統治体としての地方政府の実質をどう構想する
か。システム的なものをめぐる想像力が必要だ。(言うだけなら誰でもできるぞ。)

●415●ロバート・B・ライシュ『勝者の代償 ニューエコノミーの深淵と未来』
                  (清家篤訳,東洋経済新報社:2002.8.1)

 現状分析はとても説得的。でも、二つのエコノミーの「社会的なバランス」のた
めの処方箋はやや茫漠。

《オールドエコノミーの思想と負担が、安定的な大量生産から生み出されたことを
思い返してみよう。このことこそが、一世紀前の社会改革者たちが労働条件の向上
と過度の経済力を制限することに焦点を合わせた理由である。これとは対照的にニ
ューエコノミーの恩恵は、技術革新と、買い手が世界中どこからでも、より良く、
より速く、あるいはより安い製品に、またより高い収益率の投資機会に、そしてま
た近代的な「コミュニティ」の共同快適性に、簡単に切り替えられることから生じ
ている。これまで見たように、こうしたニューエコノミーの同じ特徴が、経済的不
安定性、仕事への没頭、所得と富の格差の拡大、さらにはかつてないほど効率的な
選別メカニズムを生み出し、そして結果的に個人、家族、コミュニティの生活をむ
しばんでいるのである。》(389-340頁)

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