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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.129 (2002/09/21)
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 □ 田口ランディ『7days in Bali』
 □ 村上春樹『海辺のカフカ』
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『7days in Bali』の中で、像のように太った異形の画家ラーマがスズ
キマホに次のように語っています。

《あんたは耳で音を聞いているように思っているだろうけど、それは違うよ。人間
の脳はコラム構造によって身体の各部位と繋がっている。だから脳のどの部分を刺
激するかで身体の反応する場所も違う。音は身体で聴いているんだよ。わかるかい
? 身体は音と呼応して個別の色と音をもっている。それがチャクラと呼ばれる七
つのゲートだ。かろうじて過去の賢者たちはここまで発見したが、なかなかその先
には行けない。七は神聖な数字。スペクトルの七、音階の七、七の上にも無数の七
が存在し、八に移行するときが新しい七の始まりとなる。これが法則だ。》(201-
202頁)

脳のコラム構造云々のところは何は言っているのか判然としませんが、このあたり
のことは中田力さんの『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』、とりわけ「リーマン紀
元」の章と見事にシンクロしています。そういえば、田口ランディさんは『7da
ys in Bali』の参考文献の筆頭に『生命記号論』を掲げていました。

関連のない話題をもうひとつつけくわえておくと、『海辺のカフカ』を構成する二
つの物語の軸(家出少年田村カフカと大島さんと佐伯さんの物語、猫探し名人のナ
カタさんと星野青年の物語)は、まるでDNAの二本の鎖のように糾われています。

完成度や抽象度という点ではまるで正反対の二つの小説(奇しくも同じ発行日が刻
印されている)をほぼ同時に読み終えて、科学と文学、生命と虚構、法則と形態、
等々といった事柄をめぐる漠然とした物思いにふけっています。このあたりのこと
はうまく表現できないので、村上作品の上巻の最後に出てくる「海辺のカフカ」と
題された詞を書きうつすことでお茶を濁します。(不連続な前置きでした。)

 あなたが世界の縁にいるとき
 私は死んだ火口にいて
 ドアのかげに立っているのは
 文字をなくした言葉。

 眠るとかげが月を照らし
 空から小さな魚が降り 
 窓の外には心をかためた
 兵士たちがいる。

 (リフレイン)
 海辺の椅子にカフカは座り
 世界を動かす振り子を想う。
 心の輪が閉じるとき
 どこにも行けないスフィンクスの
 影がナイフとなって
 あなたの夢を貫く。

 溺れた少女の指は
 入り口の石を探し求める。
 蒼い衣の裾をあげて
 海辺のカフカを見る。
 

●405●田口ランディ『7days in Bali』(筑摩書房:2002.9.10)

 田口ランディさん、あなたはいったいどうなってしまったのでしょう。なにかの
手違いで世に出た草稿(エンブリオあるいは幼体のまま成熟してしまった小説)を
ついうっかり盗み見てしまったような、無惨とも禍々しいとも後ろめたいともなん
とも形容のつかないとても残念な思いで読み終わりました。

 絶対音感にコンプレックスを持つピアニストくずれの母親との確執から解離性傷
害におちいったフリーライターのスズキマホが、失踪し友人や母親の記憶からも消
去されつつあった友人のミツコを探しに一週間のバリ島旅行に出かけ、バリ島の菌
類と生態系の関係を研究している青年オダに案内されてお参りしたアグン山でバリ
のホストコンピュータにアクセスするパスワード(Gメジャー7)をもらい、ミツ
コから届いた3枚の絵はがき(密林の絵、ダンスを踊る少女の写真、美しい花の写
真)に導かれるようにして、サンヒャン・ドゥダリの神聖なダンスを見物しながら
「アジアに魅せられた不良外人」に犯され、その最中にトランス(幽体離脱)して
聖獣バロンと出会い、オダに欲望を感じ、魔術師に呪いを解いてもらうために「オ
クターブ」の螺旋を五つ降りて子供の意識とシンクロし、身体から「青虫」を取り
だしてもらい、ニュピ(ノームーン、新月)の祭りの日に「上のオクターブ」に行
ったミツコ(幼い肢体のままのネオテニー)に憑依されてオダと交わり──《別の
世界の存在に身体を明け渡すことは、快感なのだ。イヌが人間に従うことが快感な
ように。青虫が針で刺されて死ぬのが快感なように。私たちは常により高次な存在
の下等な遊び相手なのだ。》(196頁)──、帰国の飛行機のなかで記憶がリセッ
トされる前に「世界はひとつではない。世界は無数にある。自分は自分というひと
つの固定した存在ではない。もっと多様で、もっと柔らかな存在だ。そのことを書
きたいと思った」(210頁)。

 「ああ、私はこの世界の外に出たい。形をもちたい。私だって形を持って存在し
たい」(159頁)。そうやって呪詛の言葉を世界に向けてまき散らす磁場に支配さ
れた無の宇宙(子宮)から、倍音が渦巻くガムランの響きとリズムに螺旋状に導か
れて、記号化されモノ化した生命の世界──《魂は記号化できないのだ。》(117
頁)──をつきぬけ、「Nowhere」が「now here」と重なりあう「知覚できない高
次な世界」──《どこにもいない。だけど、いま、ここにいる。》(187頁)──
へと接近する、無限速度に貫かれた「バリ島の体験」をめぐる小説「7days
in Bali」をスズキマホが書きはじめるところでこの作品は終わっています。

 でもこれでは小説でもなんでもなくて、少なくとも田口ランディが書くべき新作
長編ではなくて、ただのほのめかしと素材と記号の羅列でしかありません。「バリ
には、本当の音楽がある」(20頁)とか「音楽には秘密がいっぱい。…音として感
じることもできるし、記号として理解することもできる。音楽の意味はたくさんあ
る。…音楽は、エネルギーだし、乗り物なの」(130-131頁)とか「シは有限の極
み。上のドは無の世界」(132頁)とか「世界はオクターブだ」(148頁)とか「ネ
オテニーは打楽器を好むのだ」(173頁)とか「音楽の世界はとてもシンプルに宇
宙と呼応している」(202頁)とか、全編にちりばめられたアフォリズムに畳み込
まれた「思想」をひとつひとつ小説的具象のうちに展開してみせてこそ、私が愛読
してやまない田口ランディです。もっと濃密で豊饒で官能的で非人間的な作品。田
口ランディさん、あなたなら書けるはずです。(それともこれは、音楽の秘密、つ
まり世界の実相は言葉では描ききれないという、小説の限界を宣告する小説だった
のでしょうか。)

●406●村上春樹『海辺のカフカ』上下(新潮社:2002.9.10)

 田口ランディの『7days in Bali』は、絵や写真と音楽とダンス(神
とのセックス、夢の中のセックス)の重ねあわせのなかで記号(差異)と生命(反
復)の錯綜した関係が糾われ、受胎と死(世界のリセットあるいは完全な消失とし
ての死、記憶に残らない完璧な死)を起点とする身体と世界の解離と重層性(たと
えば「Nowhere」と「now here」との一致)の叙述のうちにいまだ書かれざる小説
が紡がれる「エンブリオ」もしくは「ネオテニー」とも称すべき作品だったけれど、
これと同じ発行日付を刻印された『海辺のカフカ』はほぼ完璧な抽象度と造形性を
湛えた熟成された作品で、同じ名(「海辺のカフカ」)をもつ絵と歌が過去と現在
をつなぐ媒体機能を担っていたり、シューベルトのピアノ・ソナタニ長調とベート
ーベンの『大公オラトリオ』が重要な舞台転換の契機となったり、あるいは夢の中
での(生き霊との)セックスや十五歳の家出少年田村カフカの解離(カラスと呼ば
れる少年との対話)、女性でありながらゲイの大島さん(兄に恋する性同一性障害
の妹?)と二つの年齢と身体をもって登場する佐伯さん(少年カフカの仮説の母)、
そして田村カフカや大島さんや佐伯さんやこの作品にしめる位置がとても微妙なさ
くらさん(少年カフカの仮説の姉)が織りなす物語(図書館と森の物語=記憶を蓄
積し保存する物語)と星野青年との四国道膝栗毛でボケの超絶技巧を発揮する猫探
し名人で文盲のナカタさんをめぐる物語(逃走と異界探索の物語=記憶を消費し接
合する物語)との二層構造等々、その気になって探してみると『7days in
Bali』との不思議な符合と微妙ながら決定的な違いはまだまだ見つかるかもし
れないし、なにより興味深いのは、『海辺のカフカ』の二つの物語世界の接触の結
果唐突に死を迎える佐伯さんが同様に醒めない眠りにつくことになるナカタさんに
「原稿」の焼却を依頼し、ナカタさんが約束を忠実に守ることで結局その「原稿」
(佐伯さんの記憶)は永遠に読まれることなく消滅してしまう(小説の埋葬?)と
いう結末で、物語の発端にして分岐点ともなる謎の殺人事件(少年カフカに血とD
NAを分かち与えた父の殺害)ともども『海辺のカフカ』が作品の奥深くに潜めた
無意識(たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェ
イの森』、あるいは『オイディプス王』や『源氏物語』といった固有名で指し示さ
れる物語的もしくは演劇的もしくは小説的無意識)の輪郭をかたちづくっているの
ではないかと思う。

 それにしても村上春樹の虚構世界はいつもながらの暗号解読と想像力の追体験と
いう尽きぬ愉しみ(要するに深読みの快楽)を与えてくれた。たとえば『源氏物語
』の宇治(憂路)十帖が「橋姫」からはじまるように、『海辺のカフカ』は本州と
四国を結ぶ橋を(二重に)渡ることから始まるまったく新しい物語(続編)であっ
て、田村カフカは死にきれなかった直子(『ノルウェイの森』)の霊を慰める薫で
もあればいまなお漂白するテーバイの王なのかもしれないのであって、ジョニー・
ウォーカーやカーネル・サンダーズといったイコン(遺恨?)に託された第三次産
業革命後の記号と身体をめぐる寓話と神話と物語と悲劇と小説との異種交配、さら
には『物質と記憶』や『精神現象学』を下敷きにしながら意識と記憶と身体(性)
をめぐって最初から語りなおされた哲学的思索の新しい表現を目論んだものなので
はないかとさえ思えてくるのだが、このままでは深読みが深みにはまって抜け出せ
なくなる。

 付録として、期間限定サイト「海辺のカフカ」に掲載されたロングインタビュー
からの抜粋をいくつか。[http://www.kafkaontheshore.com/top.html]

◎カフカはもちろん僕の好きな作家だし、音の響きも好きだった。「海辺のカフカ
」って、なんかイメージを喚起するものがありますよね。
◎反復性には間違いなく呪術的なものがあります。ジャングルの奥から聞こえてく
るドラムの響きみたいにね。そこに自分を自然に同化させることが大事なんです。
◎結局のところ、四国を舞台に書いてはいても、結局それはどこでもない場所なん
ですよね、僕の場合。いつでもない時間の中の、どこでもない場所なんです。でも
ね、「こういう場所がきっと高松市のどこかにあるはずだ」と考えて書いていると、
必ずそういう場所って実在するんだよね。
◎でもね、もうひとつ小説のスケールを大きくするためには、ボイスの多様化とい
うのはどうしても避けて通れない問題だった。
◎「中間地点」というのは、僕にとってはとても象徴的な意味をもっているんです。
英語で言う「リンボ」ですね。現世と黄泉の世界とのあいだにある中間地点。
◎本を読んでいると、たくさんの異界とのリアルな接触があります。僕の場合もそ
うだった。
◎で、好きになるっていうことは、相手の中にある「良き元型」を見いだすことな
んです。
◎もともとは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編みたいなも
のを書こうと考えていたんです。

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