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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.128 (2002/09/16)
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 □ 熊野純彦『ヘーゲル』
 □ 郡司ペギオ‐幸夫『生成する生命』
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池谷裕二さんの『記憶力を強くする』に、記憶とは大ざっぱで曖昧なものだから似
ているものを区別しようとしない、それどころか初めは似ているものを区別できな
いのがふつうである、「そうした意味でも、まず似ているものの範疇を把握するこ
とが学習の第一歩となります。細部の区別はそのつぎのステップなのです」(215頁)
と書いてあった。

別に哲学を「学習」するつもりなどないのだが、池谷さんが言うことはとてもよく
わかる。じっさい、ヘーゲルの「思考の襞」を解きほぐしてヘーゲル哲学の「はじ
まり」へと遡及する熊野純彦さんの本と、ベルクソン‐ドゥルーズの思考を展開(
転回)させて生命と時間の生成と媒介と接合の論理を構築し、意識やクオリアの問
題を解明する装置を工作する郡司さんの本を並行して読み進めているうち、私はそ
こに「似ているものの範疇」(たとえば記憶、生成、媒介)を見出していた。

それはその昔、ヘーゲルの『大論理学』を一年近くかけて読み継いでいたとき、茂
木健一郎さんの『脳とクオリア』にめぐりあい、突然、何かがシンクロナイズされ
増強された経験と比べることができるものであって、強いて言葉にするならば、認
識するものと認識されるもの、知(ロゴス)と存在、言語的構築物(示唆)と動き
移ろうもの(指示対象)、記憶と物質、時間と生命、等々、異なる起源と文脈と法
則をもった事柄の論理的同型性の発見とでも言えるだろう(いやになるくらい平板
な言い方だけれど)。

でも、それだけなら話は簡単で、大ざっぱで曖昧な概念が液状化し、消化不良のま
ま下痢とともに流されていくだけ。だからやはり「細部の区別」が大切で、そのた
めには、大切な箇所を繰りかえし読みなおし咀嚼するしかない。──ちょうど、少
年・田村カフカが本を読むときそうしていたように。

村上春樹の『海辺のカフカ』は、大人と子供、男と女、観念と具体、寓話と物語、
過去(夢)と未来(予言)、魂と容器、第三次産業革命後の情報(記号)と身体、
抽象的リリシズムと叙情的マテリアリスム、交通ネットワーク(都市)と四国の森
(大江健三郎的な?)、等々の無数の「区別」が「細部」において接合しあう特別
な場所(身体)と時間の造形をめざした作品で、まだ即断できないものの、たぶん
傑作だと思う。

その第28章で、大学で哲学を専攻していてアルバイトで娼婦をしている女の子が、
仕事の最中に、ベルクソンの『物質と記憶』とヘーゲルの『精神現象学』(たぶん
)からの引用を口にするシーンがあった。これもなにかの符合かもしれないので、
記念に抜き書きしておきます。

「やれやれ、こんなすげえの、初めてだよ」、星野さんは浴槽にゆっくりと身を沈
めて言った。
「こんなの、まだ手始めなんだから」と女は言った。「これからもっともっとすご
いやつがあるんだよ」
「でも気持ちよかったよ」
「どれくらい?」
「過去のことも未来のことも考えられないくらい」
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、
あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」(下巻,77頁)

「『〈私〉は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」
「ふうん」
「ヘーゲルは〈自己意識〉というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離れ
ばなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、
行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」
「ぜんぜんわからないな」
「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとって
は私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だ
ね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を
交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」
「まだよくわからないけど、なんか励まされるような気がする」
「それがポイントだよ」と女は言った。(下巻,79頁)

余談ですが、こういった叙述にはまることができるかどうかが、村上春樹の愛読者
になるかどうかの分かれ目だと思います。もう一つ書き連ねるならば、哲学的思考
を「意味記憶=知識」としてでなく、こういった「エピソード記憶」として蓄える
ことができたならば、たとえばヘーゲルの全哲学が「経験の哲学」であると熊野さ
んが書いていることの実質がわかろうというものです。
 

●403●熊野純彦『ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考』
                          (筑摩書房:2002.3.20)

 レヴィナスの思考との息づまるような註釈学的対話の経緯が綴られた『レヴィナ
ス 移ろいゆくものへの視線』に続いて、ヘーゲルのテクストに内在する「思考の
襞」(まえがき)を跡づけ、現代においてヘーゲルの「特異な思考」(あとがき)
をたどりなおす通路のひとつともなることを願って──そして、著者に「世界と対
峙し世界を掴みとることばに向けた、尽きることのない希望」(あとがき)を託し
た故廣松渉への応答として──著された、熊野純彦対ヘーゲルの哲学的格闘の仮決
算書。

 物事にはいつも「はじまり」がある。たとえそれがまだ終わっていないとしても。
哲学にも「はじまり」がある。たとえそれがすべてが終わった後の暮れ方に羽ばた
くものであったとしても。とりわけヘーゲルにあっては、すなわち「同一性と非同
一性との同一性」と定式化される弁証法的思考をもって「体系 System」を志向し
たヘーゲルの思考を「近代的な思考の枠組みから溢れでてしまう発想の核を内部に
懐胎していた」(まえがき)ものとして読解してみせようとするのであれば、知で
あれ意識であれ定在(Dasein)であれ愛であれ、その「はじまり」のうちに孕まれ
ていたものへの徹底的な注視を避けて通ることはできない。

 著者の議論は見事にこの課題に応えている。そこで摘出されたものが「他なるも
の」であり、あるいは「存在すること」そのものについてそれまでとは「べつのし
かたで」でかたり出そうとすることをめぐる思考(81頁)であった。──しかしそ
れにしても、ヘーゲルの思考の「はじまり」のうちに懐胎されていた「他なるもの
」の弁証法的帰結(?)をめぐる次の叙述のうちに、熊野氏の未発の思考が畳み込
まれていることは、私の早とちりだとは思われない。著者自身が「あとがき」で述
べているように、解明されるべき課題がまだ残されている。だから、この書物は「
仮」決算書なのだ。

《経験は生成する。あるいは、意識は自己の運動のなかで、みずからの知の変化と
知の対象の変容を経験する。知と対象の変容をかいして経験は生成し、〈真理〉そ
れ自体もまた生成する経験のなかでのみあらわれる。ことばをかえれば、経験は生
成してゆく真理へとみずからあずかってゆくことで、それじしん生成し変容するの
である。ヘーゲルによれば、「意識はみずからの経験のうちにあるもの以外のなに
ものも知らず、なにものも把握しない」…。経験はその意味ではいっさいであり、
それじたい不断に生成しつづける経験のなかにあらわれないもの、あらわれえない
ものはおよそ〈真理〉の名にあたいしない。そのかぎりで、ヘーゲルの『精神現象
学』は(おそらくはまた、ヘーゲルの全哲学が)ことばの十分なふくみにおいて〈
経験の哲学〉である。しかも「意識の世界性」…をあかす〈経験の哲学〉なのであ
る。
 経験が進展するそのつど、生成する知にたいしては、生成していく〈真理〉が開
示される。ヘーゲルが構想した世界のなりたちのなかでは、真理もまた経験と世界
との〈生成〉からはなれてありうるものではない。不断に生成する真理をとらえて
ゆく具体的な経験のかたちとそのすすみゆきのさまについては、さらに立ちいった
具体的な考察が必要となるだろう。そうした考察をかいして、ある思考の原型が、
ヘーゲルのうちで兆していることがあきらかになるはずである。その思考そのもの
はそして、ヘーゲルが〈否定性〉…という概念によっていいあてようとしながら、
いまだ十分にはえがきとることに成功していない、思考のタイプであるようにおも
われる。》(第一章「生成する真理」,67-68頁)

《承認とはかくて最終的には、自己が歴史にぞくし、他者とともに歴史に内属して
いること、しかし歴史そのものは人間にとって一個の〈他者〉でありつづけること
の承認にほかならない。承認はたしかに、たんに人間と人間とのあいだでのみ成立
することがらではない。承認とはまた、神とひととの間の和解を告知することばで
あった。ヘーゲルの神はだが、歴史のなかで自己を告知する。ヘーゲルのそうした
認識になお学ぶべき多くのものがあることに、ひとはようやく気づきはじめている
ようにおもわれる。》(第三章「世界という問題の次元」,207頁)

●404●郡司ペギオ‐幸夫『生成する生命 生命理論T』
          (哲学文庫6,叢書=生命の哲学3,哲学書房:2002.8.10)

 たしか『現代思想』に掲載されていた対談で誰か(大澤真幸だったと思う)が、
郡司さんのやっていることはよく分からないけれどとても大切な事が語られている
ように思う、といった趣旨の学生の発言を紹介していた。同感。

 これまで何度か郡司ペギオ‐幸夫の著者名が記された論文に目を通してきて、ま
ともに最後までつきあうことができたのは『脳と生命と心』に収められた「クオリ
アと記号の起源」くらいのものだったのだが(それとて、そこに書かれた事柄のい
くばくかでも理解できたかどうかあやしいものだ)、この人の仕事の独特の「わか
らなさ」は意識やクオリアの問題がわからないこととパラレルで、だから「わから
なさ」が「わからなさ」として示唆され示されていること(何か特定のわかりにく
い対象がそれとして指示されるのではなく)にこそ、私にとっての郡司ペギオ‐幸
夫という存在の意味があったのだと無理にでも納得している。

 その点、本書は、クオリアの生成や意識の問題を認知科学的実験を通して解読す
るための計算モデルが提案される第二部に先立って刊行された方法論的素描の書で
あって、細部のこだわりに目をつむれば比較的見通しがきいていてとっつきやすか
った。(最初から最後までいちおう集中を持続させて目を通すことができました。)

 ドゥルーズ=ガタリが『哲学とは何か』で示した哲学・科学・芸術の三つの方法
論的区別とそれら三つの「統合なき接合」の存在論=方法論的敷衍、そしてベルク
ソン=ドゥルーズ(『差異と反復』)の時間の存在論の独自の展開=転回によって、
パース=ホフマイヤー由来の記号論的三項関係(「現実性─可能性─必然性」もし
くは「文脈─含意─記号(名)」)から郡司ペギオ‐幸夫独自の生成の論理(「規
範─変化─起源(単独性)」)と「拡張された科学」(「原生理論─原生計算(現
象論的計算)─原生実験」もしくは「証明過程としての過去─計算過程における現
在─前提と帰結の共立が媒介する未来」)へと至るその叙述はスリリングでさえあ
った。(でも、やっぱり郡司ペギオ‐幸夫は分からない。)

《潜在性に開かれ、いかなる変化・変容をも受け入れながら、「いま・ここに」に
ある存在。本書はこういった存在態=生成として世界を把握し、こういった世界内
存在としての私を理解し続けるための、生きている私にとっての存在論=方法論で
ある。潜在性に開かれた単独者という存在態は、唯一のここにある存在であると同
時に、ドゥルーズ=ガタリの意味で無限速度を有する存在である。無限速度とは有
限の果て、極限なのではなく、いかに有限領域を設定してもその想定外部を取り込
み得る現実という様相のことである。ここから我々は、生成が継起する運動、生成
であるが故に現前する起源、生成の担う規範性という三つの様相を解読することに
なる。私は、以上三つの存在論的様相を、我々の生活する現実的世界の中で展開し
ていこう。すなわち存在論=方法論として構成していくのである。私はこの存在論
=方法論を拡張された科学と呼びたいのだ。》(44頁)

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