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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.127 (2002/09/08)
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 □ ル・クレジオ『偶然』
 □ 中沢新一『熊から王へ』
 □ 柄谷行人『日本精神分析』
 □ 坂本龍一+河邑厚徳編著『エンデの警鐘』
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ここに取り上げた四冊の書物を、私は一連のものとして読み進めてきた。読み終え
るのに、三月以上もかかってしまった。だから、いったいどういう「一連」性があ
ったのかについて、いまとなっては語るべき言葉を見失っている。
 

●399●ル・クレジオ『偶然──帆船アザールの冒険』
                     (菅野昭正訳,集英社:2002.3.31)

 美しい書物に盛られた美しい物語。「偶然──帆船アザールの冒険」と「アンゴ
リ・マーラ」の二つの作品と作者のことは、訳者のあとがきにほぼ書き尽くされて
いる。ここでは「偶然」から、とりわけ美しい訳文を二つ抜き書きしておこう。

《いま、空は雲ひとつなく、海は強烈な青だった。ひとつひとつの細かいところ、
ひとつひとつの波頭、ひとつひとつの煌めきが眼に見えるのだった、水平線で区切
られた円のなかに閉じ込められて。モゲルはアザールのたどっている航路を、太平
洋を表わす大きな海図の上でナシマに教えてくれた。(中略)「この航路以上のも
のはないんだよ」、と彼は言った、「これだと二つの世界のあいだを進むんで、そ
のどちらに属するということもないし、それに最後まで行きつけるかどうかさえ確
かじゃない。これは砂漠のようなもので、名前もないし、特徴もないし、誰のもの
でもないし、歴史もないし、いつでも新しいんだ。」》(85-86頁)

 ──「ナシマ」は、カリブ海クレオール語で「風」。帆船アザールに乗りこんだ
とき、この十五歳の少女は、ナシム・ケルガスと名乗り少年に変装していた。

《娘たちは大部分がとても若く、なにか変装の少女といったような感じだった。マ
テはそういう娘たちに似ていなかった。彼女は、いつもかならずモゲルをくらくら
眩惑させる、あの子供と女性との混合といったふうな娘だった。マホガニーに彫り
こんだような、すべすべと滑らかなきれいな顔、アーモンド型の細長い大きな眼、
唇がちょっぴり上のほうにめくれ、みごとな歯をのぞかせている口、そしてのんび
りしているようでもあり注意ぶかいようでもある風情。彼女は厚かましくもなけれ
ば、恐れげもなく、モゲルをじっと見ていた。妖精を、ちょっとくるりと自分で身
体をめぐらしさせすれば、腰で身体を支えるその支えかたをただ変えさえすれば、
女性に変ることができるような妖精である子供を、モゲルは思いうかべていた。》
(195-196頁)

●400●中沢新一『熊から王へ カイエ・ソバージュU』
                   (講談社選書メチエ239:2002.6.10)

《秘密結社には、個人のもっている個体性を否定する、なにかの力が宿っています。
結社に入り、今まで外の世界で与えられてきた名前を捨てて、社会よりも大きな力
(権力)をもった何者かに服属するとき、はじめて結社の一員となることができる
わけですから、結社はある種の「人食い」である、と言えるかもしれません。世俗
的な社会でのその人の位置づけ…を「食べ尽くして」、秘密結社は、個人をかたち
をもたない「たましい」の状態に連れ戻そうとする働きをする、と言うことができ
ます。この裸にされた「たましい」たちのつくる秩序が、結社の構成原理である年
齢階梯制にほかなりません。》(177-178頁)

《いったん流動体となった金属から取り出されるのが剣という武器です。この武器
の登場が、王権の出現には決定的な重要性をもったと考えられていますが、このこ
との奥には、ふつう考えられているのとは違う意味が隠されているのではないでし
ょうか。恐ろしい殺傷力をもった武器も、「人食い」としての王も、そこから生ま
れるクニという組織体も、すべてが「流動するもの」に関わっています。そしてそ
れは、私たち現生人類の脳の内部に開かれた流動的知性の働きと、密接なつながり
をもっています。
 流動的知性は優しい「野生の思考」を突き破ってしまう力を秘めています。その
ことに気づいた人人は、人間と自然の間に保たれるべき対称性のバランスを守るた
めに、速度と力を秘め持つ流動的知性の活動領域に厳しい制限を加えておかなけれ
ばならない、と考えたはずです。そのために、権力は自然のものであるとして、「
人食い」は森に住む精霊たちの特許にしておいたのです。》(198-199頁)

《つまり、はじまりのときから、「自然」はつねに「文化」を無化する力をあらわ
していたのです。アメリカの北西海岸インディアンが創造した、さまざまな「人食
い」がそれを象徴しています。「人食い」は深い森の奥、「自然」の領域の深みか
ら立ちあらわれて、「文化」があたえてくれる人間の意味を、容赦なく食べ尽くし、
無化していく力を体現しています。その「人食い」の概念を社会の内部に組み込ん
だ瞬間から、権力を持った首長すなわち王が出現したわけです。
 ブッダは「自然」のもつこの無化する力を、「空」としてあらためて概念化する
ことをおこなっています。この「空」は、同時代のインドの哲学者たちを震え上が
らせるほどの威力をひそめていた、と言われています。インド哲学は、「ある=存
在する」という概念を土台にして、構成されていましたが、ブッダの唱える「空」
はその土台さえも無化してしまおうとしていました。》(212-213頁)

●401●柄谷行人『日本精神分析』(文藝春秋:2002.7.30)

 柄谷行人の本はたいがい最後までたどりつけない。よほど気概と膂力が漲ってい
る場合を除いて、無理に読み進めると決まって「言秘」状態に陥ってしまう。最近
では『トランスクリティーク』がカントの部を勢いで通過したあとマルクスの部で
早々に頓挫したままだ。

 その『トランスクリティーク』の具体的な解説を意図した四つの講演が収められ
た『日本精神分析』ならこの停滞、というか柄谷帝国による植民地主義的支配状態
からの解放(柄谷的語彙と思考様式からの自立)の糸口がつかめるのではないかと
思って読み始めたのだけれど、やはりいけない。第一章「言語と国家」が半分も進
まないうちいきなり危険信号が点滅した。

 柄谷氏は、ネーション=ステート(国民国家)はそれに先行する「帝国」の宗教
・法・言語をめぐる三つの布置、つまり包摂原理(世界宗教)と交通・通商制度(
国際法)と超越的概念(普遍言語=文字)を全面的に組み替えること(主観化・自
然化すること)で形成されたのであって、このことは古代・近代、西洋・日本の別
を超えた世界史的に普遍的な現象であるという。

 たとえば、ルターの宗教革命はキリスト教を諸制度から主観的な信仰に移行させ
ることで近代的な諸個人を作り出した、というだけでは不十分である。それは免罪
符を財源とするローマ教会の植民地主義的支配に対する反抗という意味をふくんで
いたし、なにより重要なことに言語論的な意味をはらんでいた。教会その他の形式
が第二次的であるように、大事なのは心(内的な音声)で、ラテン語の文字(多様
な音声から独立した普遍的・超越的概念)はそれをあらわす二次的・副次的なもの
にすぎない。宗教革命の普及は『聖書』の俗語訳(口語訳)なしにはありえなかっ
たし、このドイツ語がドイツ民族の言語を、ひいてはドイツ民族を形成していった。

《以上は西欧の例です。しかし、ネーション=ステートを、帝国内で諸国家の自立
として見るとき、各地における歴史的文脈の差異を越えて、共通の問題を見出すこ
とができるのです。私が『日本近代文学の起源』において考察した「言文一致」が
普遍的に見えるのは、そのためです。一般的にいって、ネーションは、旧来隔絶し
ていた書き言葉と話し言葉を、新たな書き言葉(言文一致)によって綜合していく
過程なしには成立しません。ナショナルな言葉は、それが書き言葉(ラテン語や漢
字)からの翻訳によるということが忘れられ、直接的な感情や内面に発すると思わ
れた時点で完成します。

 ルソーやヘルダーのような一八世紀の哲学者たちがそのような観点から「言語の
起源」を考察しはじめたのですが、実は、そのときにはすでに、ナショナルな言語
が完成していたのです。彼らは近過去の「国語の起源」を問うべきであるのに、遠
い「言語の起源」を問うています。そのことは、「国語」の歴史性を隠蔽し、それ
を自然化することにしかなりません。彼らの歴史的な視点そのものが歴史を隠蔽す
る。一九世紀に確立された歴史言語学は、実際は書き言葉によって形成された話し
言葉を、根源的なものとみなす遠近法的倒錯にもとづいており、さらに、それ自身
が「国語」を形成する作用をもったのです。

 したがって、音声中心主義的な考え方は、近代のネーションの形成にとって不可
欠なのです。私が、デリダが西洋における音声中心主義をプラトンに遡って見るこ
とに批判的だったのは、そのことが「近い起源」を隠蔽することになると思ったか
らです。しかし、その後、私が気づいたのは、古代においても、一つの国家が帝国
から自立しようとするとき、自らの文字言語をもつ、そして、その時、音声中心主
義的な考えがとられるということです。》(21-22頁)

 ──柄谷氏の本を最後まで一気に読み切ることが難しいのは、その時々の考察対
象を規定する論理が柄谷氏自身の思考の生理と相まって、それらを超過する何かし
ら「数学」めいたものを指し示してしまうからだ。少なくとも私は柄谷氏の著書を
読むたびそのような抽象的論理の世界に誘いこまれ、いたずらに想像を刺激され漂
い始めるのである。

 『日本精神分析』の冒頭部分が指し示す「世界帝国の言語(文字=超越的概念)
→内面の言語(音声)→ナショナルな言語(言文一致)」という推移は、「客観→
主観→客観」(あるいは「物質→現象(クオリア)→言語」もしくは資本の自己増
殖運動「M−C−M’」)とでも仮に表記できる、より普遍的で抽象的な推論過程
の一例であって、このことはおそらく理系と文系を通底する言語や歴史の問題に帰
着する。

●402●坂本龍一+河邑厚徳編著『エンデの警鐘
         「地域通貨の希望と銀行の未来」』(NHK出版:2002.4.25)

 柄谷行人は『日本精神分析』の第四章「市民通貨の小さな王国」で、資本制=ネ
ーション=ステートに対抗する運動の「経済的下部構造」であるような通貨、地域
に限定されず「アソシエーション」を形成する通貨を「市民通貨」と呼び、地域経
済の活性化や地域コミュニティの親密化を目的とする地域通貨と区別している。

 そして、エコマネーは「世界的なエコシステムを破壊する資本制=ネーション=
ステートを存続させるためにこそ、必要とされている」もので、提唱者の加藤敏春
の文章は「官僚の作文」にすぎないし、『エンデの遺言』で有名になったゲゼルの
スタンプ通貨は「相当にいかがわしいもの」であって、「ゲゼル主義は地域通貨と
してよりも、国家に推進された時に有効」なものだと書いている。

《理想的な社会をすぐに実現しようとすると、人は国家権力に訴えることになりま
す。それは国家を強化することにしかならない。だから、これは、決して性急にな
されてはならないのです。(中略)とはいえ、われわれが、そのような状態を実現
するのに急がなければならない理由があります。地球温暖化、環境汚染、遺伝子改
良食品、などが差し迫っているからです。これらは資本の自己増殖運動M−C−M’
の産物です。個々人がどう考えをあらためても、この運動は止まらない。それを止
めるには、非資本制的な市場経済を作り出すほかないのです。だから、最終的にど
うなるかということとは別に、われわれはこの運動を急いで進める必要があるので
す。そのためには、市民通貨の普及が不可欠です。(中略)環境問題で人を啓蒙し
ている人がいますが、なぜ彼らは市民通貨に参加しないのでしょうか。》(『日本
精神分析』208-210頁)

 この柄谷氏の激烈さにはついていけない。でも、その一方で、『エンデの遺言』
や『エンデの警鐘』に漂う独特の雰囲気にも違和感が拭えない。現代の金融システ
ムや資本制に対する「認識」は、それとは異なるシステムを作り出す「工学的」方
法によるしかない。そのためには、生物学的で主観的な要素を抜きにした性愛経済
学とか宗教経済学、芸術経済学を打ち立てるしかない。──エンデの次の言葉が印
象的。

《ヨハネ黙示録には、バビロンの記述があります。そこではバビロンは生物である
と同時に大きな都市でもあるとされます。つまり文明です。黙示録には、バビロン
は淫売行為の母と書かれています。(中略)ここで淫売行為が意味するのは、そこ
では、本来捧げられるべきものが売買されているということでしょう。性愛とは、
強制されたり、売買されるものではなく、本来、互いに捧げるものなのです。バビ
ロンは、売買してはいけないものが売買されていることと同義語なのです。》(『
エンデの警鐘』54頁)

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