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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.125 (2002/08/16)
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 □ 酒井邦嘉『言語の脳科学』
 □ 信原幸弘『意識の哲学』
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砂時計のように数分ごとに記憶をなくしてしまう男の非日常的日常をえがいた映画
『メメント』を観て、この体験は読書に似ていると思いました。ただし、物忘れが
ひどくなった最近の私の読書の特徴に。

数頁毎に記憶がおぼろげになり、すでに読んだはずの頁の書き込みやアンダーライ
ンを付した箇所をときおり読み返しては、ああそうだったと新鮮な思いを新たにす
る。唯一の違いは、そこにリコールがあるかどうか、そのつど何かしら同一なもの
が立ち上がるかどうかです。

たとえば、ここ一月ちかく丹念に読みすすめてきたル・クレジオの『偶然』。私が
読むことで、ナシマやモゲルやアンドリアムナは生きる。読まれることで立ち上が
る(生きる)ものが確かにそこに息づいています。(あるいは、読む体験を通じて、
その対象から逆に読まれるものの同一性が立ち上がる=生きる?)

信原幸弘氏は、「思考は内語/発語である」と言っています。そうだとすると、「
聞くこと/読むこと」の根源性をこれに対峙させることが可能なのかもしれません。
じっさい、私自身は「内語/発語」するずっとまえに、たくさんたくさん聞いてい
るはずだからです。(あるいは、「他なるもの」の根源性?)

──いま書いたことと関係するのかどうかよくわかりませんが、たまたま手元にあ
った本に次のような文章が出てきます。実は、何がそこで言われているのかいまは
まだよく理解できないのですが、気になったので抜き書きしておきます。

《…〈翻訳としての人間〉とはまずもって、知覚によって翻訳されてしまうほかな
き人間存在を指す。筆者の依拠するフロイト精神分析にはまず〈なにか〉(das Ding)
を、すなわちモノを黙殺するプロセスである「判断」を介して生じる知覚という根
柢的な視点が据えられている。そこで人間存在はすでに自らの「無・知覚=無自覚
=無・知」によって翻訳されてしまってある。つまりそこに、ハイデガーの言う「
存在忘却」(Seinsvergessenheit)ならぬ〈モノ忘れ〉(Dingsvergessenheit)に
翻訳・翻弄される主体の姿が、「在りそこない」として呈示されている。また、そ
の〈モノ忘れ〉という忘却はメタファーを生む。人間存在がそのメタファーと化し
てしまうこと、そこに〈翻訳としての人間〉の生成がある。そこには同時に、フロ
イトの語るあの知覚記号(Wahrnehmungszeichen)、すなわちラカンの言うシニフ
ィアンの「情熱」(la passion du signifiant)的な介入によって、言語のレヴェ
ル、すなわちディスクールのレヴェルでの翻訳が連動しているのだった。》(石澤
誠一『翻訳としての人間 フロイト=ラカン精神分析の視座』271頁,平凡社)
 

●393●酒井邦嘉『言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか』
                        (中公新書1647:2002.7.25)

 チョムスキーが「人間に特有な言語能力は、脳の生得的な性質に由来する」と主
張したように、言語は自然法則に従っている。すなわち、言語はサイエンスの対象
である(はじめに)。

 著者は、二十世紀の物理学の成功が理論物理学と実験物理学の融合によってもた
らされたように、最終的な言語理論に到達するためには、言語学と脳科学が互いに
協調しなければならないという(122頁)。たとえば、著者自身がかかわった脳機
能イメージング実験の結果から、文法の処理は主としてブローカ野の活動を必要と
していることがわかった。

《文法の処理が脳の機能として局在しているという発見によって、「言語のはたら
きは、一般的な記憶や学習では説明できないユニークなシステムである」という言
語学の主張が裏付けられたことになる。(中略)従って、この結果は、これまで別
々に考えられてきたブローカによる言語の機能局在という仮説と、チョムスキーに
よる文法のモジュール性という仮説の両方が正しいことを示しただけでなく、両者
の卓見を結びつけることに役だったと言えるだろう。》(251頁)

 チョムスキーとブローカの仮説を結びつけると、言語システムを構成する統語論
・意味論・音韻論の三つのモジュールと脳の三つの言語野、すなわちブローカ野、
角回・縁上回、ウェルニッケ野との対応関係という「言語の脳科学が解明していか
なくてはならない重要な課題」(79頁)が導かれる。

 こうした言語学による理論・説明と脳科学による実験・発見の共同作業による「
言語の脳科学」は、それがサイエンスであるかぎり物理学を基礎とする。

《そこで、物理学と言語学(linguistics,philology)との境界領域は、「言語物
理学(philo + physics,philophysics)」とでも呼ぶべきであろうが、この言葉
がこれまで使われたことは恐らくないだろう。学問の精神としては「言語物理」を
目指しながら、物理学の手法による脳機能の計測を基礎として、言語の脳科学を生
み出すための努力が必要だと考える。》(131頁)

《私が言語を研究の対象として本格的に取り組み始めたのは、MITの言語・哲学
科にいたときである。そこで言語学を学ぶうちに、言語学は実に物理学のアプロー
チと似ていると確信するようになった。できるだけ少ない文法規則(法則)を見つ
けて、さまざまな言葉の現象を説明しようとする、言語学の演繹的な方法論は、物
理学そのものである。
 文学は主観的な要素が強いかもしれないが、媒体となる言語そのものは、極めて
客観的である。むしろ、客観的であるがゆえに、言葉を通して多くの人と意思の疎
通がはかれるのだろう。それは物質─心─言葉というサイエンスの対象が、客観─
主観─客観というサイクルに従っていると考えれば、自然なことなのである。物質
の側と言語の側の両方が客観ならば、その両方から進んで行けば、一方だけよりも
早く心にたどり着けるかもしれない。》(134-135頁)

 また、言語の脳科学は単に文系と理系をつなぐだけではない。サイエンスに人間
の復権を促す新しい学問の起点である。

《文系と理系の境界にある言語の脳科学で、欧米に遅れずに第一線の研究を推進し
ていくためには、社会科学に勝るとも劣らないもう一つの柱として、人間科学を確
立する必要があると考える。つまり、大衆や国家を対象とするのではなく、個を持
つ人間そのものを対象とする学問が必要だと提言したい。》(327頁)

●394●信原幸弘『意識の哲学 クオリア序説』
                  (双書現代の哲学,岩波書店:2002.7.26)

 目の前に赤いトマトが見える。このとき瞼を軽く押さえると、トマトが二重に見
えてくる。トマトは二つに見えるけれど、実物のトマトが二つになったわけではな
い。つまり、意識に現れたトマトは、それが二つに見えようが一つに見えようが、
実物のトマトではない。

 そうだとすると、意識に現れるもの──これを信原氏は、「感覚質」という本来
の語義を超えて、たとえば想像経験におけるイメージなども含めて総じて「クオリ
ア」と呼ぶ──はどんな存在論的身分をもつものなのだろうか。トマトのクオリア
は物か心か。

 これが信原氏にとっての哲学の問題(悩みのたね)で、本書はほぼ十年に及ぶ「
クオリアの神秘」との戦いを経て、クオリアの物的なもの(脳のある部位の状態)
への還元可能性を、とはすなわち自然科学による経験的な探求への接続可能性を論
証しようとしたものだ。

 だから本書は、クオリアの存在論的身分そのものを実地に解明するものではなく
て、そのような探求の原理的な可能性を呈示しようとするものである。信原氏自身
の言葉で言えば、それは「意識は物的なものと必然的な結びつきをもたない」とい
う強固な意識観を乗り越える新たな意識観の呈示であって、だから意識の「哲学」
であり、クオリア「序説」なのだ。

 物心二元論や意識一元論の理論的破綻、哲学的ゾンビ(物的には意識をもつ人と
まったくおなじでありながら、意識を欠く人)をめぐる思考実験が準拠するクオリ
ア概念の不完全性、直接・無媒介な内観をめぐる無謬・十全性の神話批判といった
露払い(1〜3章)を経て、信原氏が到達した境地は「志向説」と呼ばれる立場で
ある(4章)。

 それは、たとえば「意識的経験のクオリアはその経験の志向的特徴[表象(何か
を表すもの)それ自体に備わる内在的特徴に対して、表象によって表されるものに
備わる特徴]である」といった命題で表現される。

《知覚経験の表象内容は、語の意味と同じく、その機能によって説明される。赤い
トマトの知覚経験が眼のまえに赤いトマトがあることを表象するということは、そ
の知覚経験が眼のまえに赤いトマトがあるときに形成され、赤いトマトを手でつか
んだり、色で分類したりするのに用いられるという機能をもつということである。
(中略)
 こうして知覚経験によって表象されることがらを何らかの意味で存在者として立
てることなく、知覚経験がある一定のことがらを表象するということを説明するこ
とができる。知覚経験の機能は、可能的な事態や物的でないものを必要としない。
それは純粋に物的なものだけで規定できる。知覚経験の志向性をその機能によって
説明することは、物的一元論の枠内に完全に収まる説明である。》(117頁)

 信原氏は続けて、感覚経験もまた知覚経験と同様に志向的な経験であること、た
とえば手が痛いこと(感覚的性質)は手に痛みを感じること(経験)から独立の客
観的性質であり、痛みは痛みの経験とは別の仕方でも知られうるものであることを
論じ(5章)、さらにクオリアを伴わない無意識的な経験との比較や、意識的な経
験の思考(知覚・感覚・想起・想像といった「経験」とは異なる心的状態で、信念
や欲求といった「命題的態度」)への変換可能性の議論を通じて、クオリアは言語
化可能な志向的特徴であると規定する(6章)。

《クオリアとは何であろうか。それは結局、選択的な行動を可能にする経験の志向
的特徴である。選択的な行動は自由な行動であり、それゆえ、クオリアは自由の領
域の構成員である。意識と自由は不可分であり、クオリアを伴う意識的な経験は自
由な行動を可能にする。
 しかし、意識的な経験は直接、選択的な行動を可能にするわけではない。それは
思考への変換を通じて、選択的な行動を可能にする。意識的な思考は実践的推論を
形成して、合理化された行動を導き出す。(中略)
 意識的な経験は思考に変換可能であり、思考に変換されることによって、選択的
な行動を可能にする。だが、思考は言語活動である。したがって、意識的な経験は
言語化可能な経験である。意識には思考が不可欠であり、したがって言語が不可欠
である。言語をもつ者だけが意識への現れ、すなわちクオリアをもちうる。》(21
1-212頁)

 ──各章の議論はまことに汎用性に富んだ鋭いものだ。全体の構成も実に緻密に
かつ有機的に練り上げられている(ように思う)。論旨そのものは、『意識の科学
は可能か』(苧阪直行編著,新曜社)に収められた講演記録「言語からみた意識」
を一読する方がよほど見通しがいいけれど、本書には次の考察へとつながる豊饒な
もの、あるいは過剰なものが孕まれている。

 私自身は、クオリアの謎がこれで解明されたことになるのかどうか、腑に落ちな
いものを感じている。それは結局のところ、それでは「物的なもの」はどんな存在
論的身分をもつものなのだろうか、あるいは誰が、もしくは何が「思考」するのか
といった私自身の哲学の問題に伴うものなのかもしれない。

 信原氏は「おわりに」で次のように書いている。この必ずしも充分に議論が尽く
されたとは思えない「過剰」が、本書のたまらない魅力であることは間違いない。
本書でもって更新されるのは、意識観であると同時に物質観である。

《世界はわたしにとって汲めども尽きぬ多くの未知のあり方で満ち溢れている、し
かも、わたしにだけでなく、誰にもまだ知られていないような多くのあり方で満ち
溢れている。世界は自然科学的に表象される性質だけではなく、知覚的、感覚的に
表象される無数の性質から成る。それじつに豊かな世界なのである。

 物的一元論は世界をこのような多様な性質から成るものとして描く。それはけっ
して自然科学的な性質のみを認めて、その他の性質は排除するというわけではない。
しかし、物的一元論は、多元論と違って、たんに世界が多様な性質から成るという
ことでよしとするわけではない、それは多様な性質のうち、どれとどれが同一視し
うるのか、どの性質がどの性質を実現しているといえるのか、どの性質からどの性
質が創発しているとみなせるのかといったことを明らかにして、諸性質のあいだに
階層的な秩序を打ち立てようとする。そしてその階層的秩序において物理学で扱わ
れる諸性質がその基盤になるだろうと考える。多様な性質がすべて物的とみなされ
るのは、それらがこのような物理学的性質を基盤とした階層的秩序のうちに位置づ
けられるからである。物的一元論は、物理学的な性質を基盤にして多様な性質の階
層的秩序を構築しようとする点で、物的であり、かつ一元論的なのである。》(21
6-217頁)

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