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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.124 (2002/08/04)
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 □ ゲアハルト・フォルマー『認識の進化論』
 □ スティーヴン・ミズン『心の先史時代』
 □ A.G.ケアンズ‐スミス『〈心〉はなぜ進化するのか』
 □ ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想』
 □ コリン・マッギン『意識の〈神秘〉は解明できるか』
 □ リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常』
 □ 佐藤徹郎『科学から哲学へ』
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暑い夏で体力が大きく減衰。何も考えずに陶酔もしくは熱中できる長い小説を読み
たくなって、トム・クランシーの『大戦勃発』を手にしたら、もう他の本が何も読
めなくなってしまって、過ぎ去った日々が溶解融合して、記憶が混沌朦朧かつ曖昧
な断片と化していきます。

こういうときは、私にとって永遠の夏休みの宿題である心脳問題解明のための素材
集づくり、つまり抜き書きにいそしむに限る。──物的なもののリアリティと心的
なもののアクチュアリティ、それぞれに対峙するイマジナリー(可能的・想像的)
なものとヴァーチャルなもの。この「世界」の四つの領域を統一する究極の理論。
 

●386●ゲアハルト・フォルマー『認識の進化論』
                    (入江重吉訳,新思索社:1995.4.5)

《進化論的認識論は総合的アプリオリの判断の議論に役立つ。人間精神は出生時、
決して構造のないタブラ・ラサではない。一定の認識構造が生得的であり、その限
りでそれはアプリオリかつ経験構成的である。しかしそれは系統発生的に獲得され
たものである故に、結局アポステリオリである。合理論と経験論は、いずれにしろ
絶対的対立をなすものではないが、両者はしばしばこの対立の中に投げ込まれるこ
とが多い。これらの問題において進化論的認識論はカントを乗り越え、先験的哲学
の修正を可能にするのである。
 言語能力もまた進化の成果であり、そこから言語の優位性と境界が明らかになる。
それはたんなる情報伝達の道具でもなければ、「存在の住み処」[ハイデガー]で
もない。言語と認識は相互関係のうちにあり、その中で両者は相互に変更し合うの
である。》(320-321頁)

●387●スティーヴン・ミズン『心の先史時代』
                    (松浦俊輔他訳,青土社:1998.8.24)

《現代人類の心への進化の決定的な一歩は、スイス・アーミー・ナイフのような構
成の心から認知的流動性をもった心への切り替わり、特化した心から一般化した心
への切り替わりだった。これにより、人間は複雑な道具を考え出したり芸術を創造
したり、宗教的なイデオロギーを抱いたりすることができるようになった。(中略)
一○万年前から三万年前にかけての特化型から一般型への心の切り替わりは、進化
が選んだ驚くべき「一八○度転回」だった。そこにいたる六○○万年間の進化では、
心の専門化がどんどん進んでいた。博物的知能、技術的知能、ついで言語知能が、
現生の類人猿と人類との共通祖先[コモン・アンセスター]の心にすでに存在して
いた社会的知能に加えられていった。しかしさらに驚くべきことに、特化型の思考
様式から一般型の思考様式へのこの新たな切り替わりは、現代人類の心への進化の
途上でだけ起こった「一八○度転回」ではない。もし心の進化を、たかだか六○○
万年のこの先史の中だけでなく六五○○万年にわたる霊長類の進化の中に位置づけ
れば、専門化と一般化の思考様式の間を行ったり来たりする動きが見てとれる。》
(258頁)

●388●A.G.ケアンズ‐スミス『〈心〉はなぜ進化するのか
          心・脳・意識の起源』(北村美都穂訳,青土社:2000.8.30)

《ぼくは、ルクレティウスが、心は他に例のない種類の物質だ(「他に類を見ない
ほど小さく滑らかで丸い粒子」)と書いたのは、いい線を行っていたと思う。一九
世紀と二○世紀の科学は、われわれをこの線に沿って少しばかり進歩させてくれた
かもしれないが、二一世紀の神経生物学と物質の理論は、われわれの内なる存在を
担う実質に向けて、この意識、自然が心を進化させる中で発見したしろものは何か
に向けて、もう少し奇妙な、もう少し賢明な、洞察を与えてくれることは疑いない
だろうよ。》(381頁)

●389●ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想
          生命の意味と進化』(山口泰司監訳,青土社:2000.12.20)

《メンデル図書館(や、その双子の片割れであるバベル図書館──これらは、けっ
きょくのところ、お互いに含み、含まれる関係にあるのだが)は、もうこれ以上考
える必要はありえないと思われるほど優れた「普遍的デザイン空間」の、近似モデ
ルである。この四十億年かそこらの間、生命の系統樹は、この超天文学的に多次元
的な空間をジグザグに進み、ほとんど想像を絶するような生産力でもって分岐した
り花開いたりしてきたが、もろもろの「可能的なものたち」の空間のゼロに近いほ
ど小さな部分を、「現実の」デザインで満たしてきたに過ぎない。ダーウィンの危
険な思想によれば、デザイン空間のすべての〈可能的〉な探索はたがいに結び合っ
ている。あなたの子供たちとあなたの子供たちの子供たちのみならず、あなたの脳
の産物とあなたの脳の産物の脳の産物も、デザイン因子、つまりは遺伝子とミーム
の、共通の蓄えから生じるのに違いない。それらはこれまで、厳然たるリフティン
グのアルゴリズムによって、すなわち自然淘汰とその産物という、スロープとクレ
ーンの上に乗ったクレーンによって、蓄積され、保存されてきたのである。

 もしそのとおりだとすれば、言語、芸術、宗教、倫理学、科学それ自身など、人
類文化の偉業はすべて、それ自体、バクテリアや哺乳類やホモ・サピエンスを開発
したのと同じ基本的プロセスの産物(の産物の産物……)だということになる。言
語の「特別な創造」などというものはなく、芸術や宗教にも、文字通りの聖なる啓
示などというものはない。ヒバリを作るのに必要なスカイフックもなければ、ナイ
チンゲールに寄せるオード(頌詩)を作るのに必要なスカイフックもないのだ。そ
のミームも島(孤立した存在)ではない。》(198-199頁)

●390●コリン・マッギン『意識の〈神秘〉は解明できるか』
                    (石川幹人他訳,青土社:2001.7.25)

《私の考えでは、意識とその身体との関係をめぐる永遠の混迷は、私たちのとって
理解可能なものの限界点に達している徴候なのだ。…人間の知能は進化によってつ
くられたものであり、深遠な哲学的問題の解決とは遠く隔たった目的のためにデザ
インされている。だから、人間の知能が、どんな問題でも解決できるという道具を
欠いていても、さほど驚くべきことではない。》(56頁)

《初期状態の宇宙は空間と物質によって覆い隠されてしまったが、依然としてその
光景の背後にかいま見えるものがり、時期の到来を待っている。ついに脳が、この
前空間的次元に画期的な道筋をつけて忍び入った。脳は、世界の自然的特徴を組み
合わせながらだろうが、その次元を意識に変換したのである。非空間的次元はいわ
ば、脳によって復活させられ、意識の衣をまとったのだ。(中略)これが意味する
のは、心とはやはり物質の一側面なのだが、通常の物質概念にあてはまらない一側
面であるということだろう。実際のところ、原始の前空間的な諸特徴は、ビッグバ
ンと意識の誕生を〈ともに〉説明するのだから、物質と心と両方の原因となってい
る。それらの特徴が〈もっとも〉基本的な実在になる資格があるのだ。》(132-133頁)

《…意識をもつ心は〈ある〉意味で空間に存在するにちがいない。だが、この存在
の仕方は私たちの理解を超えている。心がいかにして空間の最適なひだに滑りこむ
かを明らかにするために、私たちには新しい空間概念が必要だ…。》(139頁)

《脳は単なる肉塊ではなく、心も現れ以上のものである。それらの異なった現れを
支えるものには、ひとつの秩序がある。あるにちがいない。さもないと私たちは存
在しえないだろう。自然は軌跡を嫌うのだ。公平に言っても、私たちもまた、自然
に存在する他のものと同様に、うまく組み合わさった材料からだんだんと自然に構
築されてきたのである。私たちが滑稽な存在に〈見える〉のは、この統合された実
在を構成するものが把握できないからである。》(239-240頁)

●391●リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常
        形を味わう人、色を聴く人』(山下篤子訳,草思社:2002.4.30)

《共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞ
き見ている状態だ。辺縁系に集まるものは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受容
体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての多感覚の評価で
ある。
 私は共感覚者を認知の化石と呼んでいる。人間であること、哺乳類であることの
きわめて根本的な部分を認識する能力を、ほんの少しではあるが、彼らが運よく保
っているからだ。
 私たちはひょっとして、この付加的な能力をもつ共感覚者に進化するのだろうか
? いや、私たちはすでに能力をもっているが、それを知らないのだ。共感覚は付
加されるものではなく、すでに存在している。多感覚の意識は、大多数の人におい
て意識から失われたものなのだ。この点からも、共感覚者は認知の化石であると考
えざるをえない。
 私たちは、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。多感覚の、
共感覚的現実感は、まちがいなく私たちの意識から失われているものの一つにすぎ
ない、ほかにもたくさんあるかもしれない。もしあなたが、このより深い知をいく
らかでも取り戻してみたいと思うなら、情動からはじめるのがいいと私は思う。情
動は私たちの自己の、意識がアクセスできる部分とできない部分との接点に存在し
ているように思えるからだ。》(239-240頁)

《…認知と、認知の意識的自覚は分離できる。情動の論理が理性と分離しているの
がいちばんわかりやすいのは、それが創造的、霊的[スピリチュアル]な領域で働
いているときである。たとえば私たちは、漠然とした考えにとりくみ、自分をはっ
きりと言葉にできない目標にむかわせる感情にしたがっていくことがある。また、
しばしば「わかるときがくればわかる」、「やってしまえばわかる」と言う。情動
脳の主観的な部分は、深い知恵の源に同調し、認識する心がアクセスできない過程
に従事している。認識する心は、情動の論理が指令をつくりだしたあとに、はじめ
てその一貫性が見えて、その解決法を自由に「説明」できるようになる。(中略)
洞察とは、ことなる前提のあいだの関係を見抜くことであり、脳の情動機能に依存
する能力であると私は定義する。》(296頁)

●392●佐藤徹郎『科学から哲学へ 知識をめぐる虚構と現実』
                           (春秋社:2000.9.25)

《しかしもし哲学が科学的学問でも歴史的学問でもなく、個としての精神が世界を
明らかに見ようとする努力であるとすれば、そのような哲学がそのまま他人に伝達
できないのは当然のことであるといえよう。『哲学探究』の一節でウィトゲンシュ
タインが指摘しているように、われわれは人が他人に伝達しうることを、あまりに
も当然のこととみなしすぎている。われわれが彼の哲学から学びうることは、現代
の学問が築き上げた知識の保存と伝達のメカニズムは普遍的なものではなく、それ
とはまったく異なる知と伝達の形態がありうるということである。》(「科学的〈
知〉の概念を超えて」,70-71頁)

《私はむしろこう言いたい。われわれのすべてが属している世界は、思考によって
のみとらえられる世界である。この世界は、知覚されないものや、知覚できないも
ので満ちており、知覚されるものはこの世界の小さな部分を占めるにすぎないのだ、
と。われわれの生活における知覚の役割を過大視することは、経験主義の哲学に共
通の偏見であるとしか私には思えないのである。》(「見えない世界」,222頁)

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