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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.123 (2002/07/28)
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 □ アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』
 □ フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』
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いま、かわぐちかいじの『メドゥーサ』を読んでいて、あの「政治の季節」を思想
的に総括する(?)ためには、マルクス=レーニン主義(というより西欧の神学的
形而上学)と中国の道徳・政治思想とを比較するしかないのではないか、などと訳
の分からない思いによらわれています。

状況に応答する政治(権=状況判断)と状況を作り出す政治(力=意志)。存在(
自然)と道徳(自由)と政治の三組(『道徳を基礎づける』)の関係を原理的に考
察すること。あるいは「愛」と「仁」、「神」と「天」の関係。
 

●384●アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』
            (合田正人・平井靖史訳,ちくま学芸文庫:2002.6.10)

 新潮社版小林秀雄全集別巻1の『感想』を読む前にベルクソンの主著に目を通し
ておこうと思い立った。後が続くかどうかわからないけれど、まずは第一の主著か
ら。

 『イデーン』第一巻を献本されたベルクソンがフッサール宛書簡(1913年8月15
日付)に「しばし待って、私があなたの業績をいかに高く評価しているか言わせて
ください。私たちの考え方はたぶん、いくつかの点で違っていますが、それらは容
易に一致するようなものでもあるでしょう」と書いている。ベルクソンと現象学と
の関係についても、この際、サブ・テーマの一つとしておくことにした。

 そのフッサールとは違って、屈折のない流麗な文章と明快だがややトリヴィアル
で退屈な議論ゆえに、第一章「心理的諸状態の強度について」、第二章「意識的諸
状態の多様性について──持続の観念」と快調に(?)読み進めてきたものの、肝
心のベルクソンの自由論が展開された第三章「意識的諸状態の有機的組織化につい
て──自由」でとうとう議論の行方を見失ってしまった。

 平井靖史氏の力のこもった「解説」でこの点は充分以上に取り戻せたからよかっ
たものの(とりわけ、平井氏が本書から読み取った「表現としての自由」モデルや
「行為としての認識」説の提示はとても示唆的だった)、下手をすると「強度
intensite'」や「持続 dure'e」といったキーワード、そして「持続と延長、継起
と同時性、質と量の混同」つまり時間と空間の取り違えといったベルクソン入門書
でお馴染みの事柄の原典での確認に終わってしまうところだった。

 本書を読んで強く印象に残ったのは「浸透」という語彙だった。ベルクソンは音
楽や夢の例をもちだしてこの概念を説明している。

《しかし、自我と外的事物との接触面の下方へと掘り進むことで、有機的に組織化
された生きた知性の深みにまで入り込むならば、われわれは多くの諸観念の重合、
というよりもむしろ、それらの内密な融合に立ち会うことになるが、これらの観念
はひとたび分断されるなら、論理的に矛盾した諸項という形で相排斥し合うものと
して現れる。この二つの像が重なり合って、二人の別人を同時に呈示しているのに、
二人の人物がひとりでしかないような実に奇妙な夢を考えてみれば、覚醒状態にお
けるわれわれの諸概念の相互浸透とは何かを漠然とながら知ることができるだろう。
夢を見る人の想像力は、外的世界から隔絶した、知的生のより深層の領域で諸観念
に対して遂行されている仕事を、単なるイメージにもとづいて再現し、それなりの
仕方でこの仕事を作り替えている。》(152-153頁)

 肝心のベルクソンの自由論は、「要するに、われわれが自由であるのは、われわ
れの行為がみずからの人格の全体から発出し(e'maner)、これらの行為が人格の
全体を表現する場合、そして、前者と後者のあいだに、作品と芸術家とのあいだに
時に見られるあの定義しがたい類似が存在する場合である」(191-192頁)という
言葉にそのエッセンスが凝縮されている。

《要するに、自由に関しては、その解明を求めるどんな要請も、それと気づかぬう
ちに、「時間は空間によって十全に表されうるか」という問いに帰着してしまうの
だ。これに対してわれわれはこう答える、流れ去った時間については諾だが、流れ
つつある時間については否である、と。しかるに、自由な行為が生じるのは流れつ
つある時間においてであって、流れ去った時間においてではない。したがって、自
由はひとつの事実であり、確認される数々の事実のうちでも最も明白な事実である。
問題のあらゆる困難は、そして時間そのものもまた、延長に見出されるのと同じ諸
属性を持続に見出そうとして、継起を同時性によって解釈し、自由の観念を、それ
に翻訳することが明らかに不可能な言語でもって表現しようとする点から生じてく
るのである。》(241-242頁)

●385●フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける──孟子 vs. カント、
     ルソー、ニーチェ』(中島隆博他訳,講談社現代新書1614:2002.6.20)

 記号とは「ある観点や立場から誰かに何かを表すもの」だとパースは言った。意
識とは「何かが何かとして、何ものかに対して、姿を現していること」だと斎藤慶
典氏は『事典 哲学の木』で定義している。

 これらに共通するのは「何か1」(記号・表象)と「何か2」(対象・意味)と
「誰か・何ものか」(観察者・主体)の三項で、この三組でもって規定される「表
現・翻訳システム」は生命や精神をめぐる事象、はては物質と時空が織りなす宇宙
そのものの根源において稼働するメカニズムである。

 このことは道徳(自由)をめぐる問題にもあてはまるのであって、たとえばベル
クソンが『意識に直接与えられたものについての試論』で提唱する「自由について
の表現モデル」──訳書解説での平井靖史氏の命名によるもので、ベルクソンによ
ると、ある行為が人格の全体を表現する場合にわれわれは自由なのであり、そうし
た自由な行為によって翻訳される魂の深層の諸状態は過去の経歴の総体を表現・要
約している──は、自由(道徳)の基礎(根源)を決定論と自由意志擁護論とのア
ンチノミーをすり抜けたところに求めようとするものだった。

 ここで「何か1」を「何か2」の「端[きざし]」ととらえ(朱熹の注釈による
と「端」は糸の端のようなもので、中にとどまっていて現れず、その「緒」だけが
外に出て見える)、「誰か・何ものか」を「天」あるいは「物事を調整する大いな
る理」と置き換えるならば、西欧形而上学思想に対する「ラディカルな他者」とし
ての中国道徳思想、とりわけ孟子のそれになる。

 個人横断的で情動横断的なパースペクティブのもとにある中国的概念をめぐって、
著者は次のように書いている。

《流れとしての世界は、相互的で連続した揺らぎである。いわば、この持続体は「
感応」によってのみ織りあげられている。そして、その「感応」は、さまざまな見
方の間で産み出され続け、現実にあるものを横断して流行し、「通じ合う」(古代
の「感通」という概念を参照のこと。「感」の原義は、広がっていくことで、そう
して動かされることである)。そして、忍びざる反応は、まさにこのように読解さ
れるものなのだ。それは、わたしと他者との間の相互作用における感応であって、
他者から発せられ、わたしの感受性を通じて伝わり、直ちにわたしの反応を引き起
こす。したがって、この忍びざる反応を特徴づける情動 e'motion とは、運動を起
こすもの e'-motion であり、内側から揺さぶるその力は、利害関心や反省とは無
縁である。行動が促されるのはこの現象からであり、孤立した審級としての自我か
らではない。》(59頁)

 また、道徳思想における西欧と中国との重要な違いの一つは「内なる声」の有無
であると著者は言う。

《人類学者は、このわたしたちに語りかける声のモチーフに、牧人と彼が率いる羊
の群という、とりわけ聖書的な古代のイメージを、たやすく見いだすだろう。とこ
ろが、中国では、神と異なり、天は何も言わないし、心自体も「声」を持たない。
しかし、心は、井戸に落ちようとしている子供を前にした時に感じるような自然的
な反応において、直接自らを打ち明けてくる。ありていに言えば、「先天的な」反
応においてである。この反応が何らかの内面化の産物だとは考えられない。ニーチ
ェが言うような弱者のルサンチマンの産物でも、マルクスが言うような階級の利害
の産物でもなく、フロイトが言うような大文字の父の機能によるものでもない。そ
れは、イデオロギーに染まらず、あらゆる疎外を免れている。》(76-77頁)

 ──以上が、ルソーの「憐れみの感情」と孟子の「忍びざる心=仁」との比較を
めぐる本書第一部「憐れみをめぐる問題」のきわめて恣意的な紹介で、以下、「性
と生について」「他者への責任」「意志と自由」「幸福と道徳の関係」へと話題は
広がっていく。実に面白くて斬新。この本文の議論をさらに深く掘り下げているの
が訳者による序と随所に挿入された解説コラムと巻末の解題で、私はいま中島隆博
という人にいたく惹かれている。

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