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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.122 (2002/07/21)
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 □ 伊藤邦武『偶然の宇宙』
 □ 内田樹『寝ながら学べる構造主義』
 □ 関満博『現場主義の知的生産法』
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先日、仕事で沖縄へ出向いたついでにリゾートホテルで数時間、無為な時間を過ご
してきました。活字から解放されて、こざかしい「思索」などにもわずらわされず、
時間を気にせず、ただただ自失することで、何かことさら得られたものはないのだ
けれど、己の空虚に身をよせたあの数時間の余韻のようなものはいまでもからだと
こころに残っています。──「神」(太古的‐身体的想像力)のいる場所。「問い
」が生まれる現場。私の「前史」が記憶されている所。
 

●381●伊藤邦武『偶然の宇宙』(双書現代の哲学,岩波書店:2002.6.27)

 西欧の哲学者には四つのタイプがある。自らの哲学思想を語る者(たとえばプロ
ティノスやスピノザ)と語らない者(たとえばプラトンやハイデガー)、哲学思想
を語ることの限界を問う者(たとえばカントやウィトゲンシュタイン)と自らの身
体をもってその限界を生きるもの(たとえばパスカルやニーチェ)。

 ここでとりあえず「哲学思想」と表記したのは神をめぐる形而上学的探求の所産
のことなのだが、本書を読み終えてそこに第五の類型を、すなわち神学的・形而上
学的な探求そのものを探求した哲学者(たとえばヒュームやパース)のタイプを付
け加えなければならないと思った。

 著者が本書で試みたこと、それは十八世紀のヒュームの神学批判と現代の宇宙生
成論を踏まえた神概念の模索(人間原理、多宇宙論、神の想定)との対比を通じて、
今日において「真剣な顧慮を払う必要のある形而上学的問いかけがひっそりと生ま
れつつあるのかどうか」(21頁)を吟味すること、つまり科学的な探求と結びつい
た新たな神学的・形而上学的な問いの設定である。

 ──ところで、ヒュームと現代宇宙論との間には、「要素どうしの可能な組み合
わせが作り出す確率的蓋然性の世界から、要素の組み合わせの分布が織りなす統計
的法則性の世界への移行」(125頁)とともに、科学的探求をめぐるパースの独創
的な思考が介在している。

 著者が訳したパースの『連続性の哲学』を読んでもっとも刺激的だったのは、人
間による探求の対象と探求の論理(推論)とが基本的には同一であるという指摘だ
った。このことは本書でも最終章で、『自然宗教についての対話』の登場人物(懐
疑論者フィロ)の口を借りて「宇宙のうちなる秩序の原因、あるいは諸原因は、お
そらくは人間知性となんらかの遠い類比をもっているのであろう」と書いたヒュー
ムやジョン・レスリー(宇宙の内在神の思想)とパースとの「一致」を示唆する文
脈のなかで言及されている。

《われわれは自然の驚異を前にしつつ、本能的に働きだす内なる知性の推測力を意
識する。そしてこの精神の力の働きそのものに驚きを覚える。外なる自然の驚異と
知性にたいする内なる驚異の共鳴そのものが、ガリレイの足もとを照らした「自然
の光(il lume naturale)」の存在を知らしめる。そして、光の輝き自身が、その
光の遠い源泉を指ししめす──。

 このパースの考え方によれば、外なる宇宙の驚くべき相貌をきっかけとして働き
だす人間の精神は、さまざまな合理的説明を求める憶測の試みのなかで、自らのう
ちに多くの想念が集まって、次第にひとつの知解可能な観念の形を形成することを
感得する。そしてこの想念どうしの自由な展開を通じた適合の過程が、宇宙全体の
諸法則の自由な展開を通じた体系化の過程の、遠い残響に他ならないことを感知す
る。このとき、ひとつの精神のなかで生じる合理的な仮説の形成過程と、宇宙全体
の遠大な形成過程とは、それ自体が大きな類比的関係に立っているように見えてく
る。それゆえ、仮説的観念を生む主体である人間知性に類比的な存在者として宇
宙の生成発展過程の作者としての神の観念が立ち現れてくる、というわけである。

 しかし、それは個々の仮説形成的推論が直接生み出す観念ではなく、あくまでも
仮説の形成に附随して自然に生み出される、漠然とした宇宙の創造者の観念として
の神である。》(215-216頁)

●382●内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書:2002.6.20)

 いま絶好調の書き手による切れ味と滋味と戦略に満ちた構造主義の入門書。

 入門書が提供しうる最良の知的サービスは「根源的な問い」の下に繰り返し繰り
返しアンダーラインを引くことであり、そして知性がみずからに課すいちばん大切
な仕事は「答えを出すこと」ではなく「重要な問いの下にアンダーラインを引くこ
と」なのだというまえがきでの「名乗り」は実に清々しい。

 マルクス、フロイト、ニーチェといった構造主義前史の先人たちと始祖シュール、
そしてフーコーと系譜学的思考、バルトと「零度の記号」、レヴィ=ストロースと
終わりなき贈与、ラカンと分析的対話といった構造主義の「四銃士」をめぐる本文
での引用の素晴らしさは、優れた書き手が備えるべき天性の資質というものだ。

 結局のところこの書き手の関心は、というより著者にとっての「根源的な問い」
は他者との応答の実質であり、その起源ならざる前史と現場(零度)、その媒質た
る記号(言語)と身体の問題が本書の通奏低音をなしている。

《ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断がまじり込んでき
て、それを汚す前の「まなの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」
(degre′ zero′)と術語化しました。構造主義とは、ひとことで言えば、さまざ
まな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求
」であると言うこともできるでしょう。》(80頁)

《他者との言語的交流とは理解可能な陳述のやりとりではなく、ことばの贈与と嘉
納のことであって、内容はとりあえずどうでもよいのです。だって、「ことばそれ
自体」に価値があるからです。ことばの贈り物に対してはことばを贈り返す、その
贈与と返礼の往還の運動を続けることが何よりもたいせつなのです。(中略)

 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治
す」ことです。そして「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている
被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことば
をかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうち
に巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「
物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私た
ちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なの
です。》(196-197頁)

●383●関満博『現場主義の知的生産法』(ちくま新書340:2002.4.20)

 朝日新聞の書評で山形浩生氏が「すごい本」と絶賛している、と第三刷の帯に書
いてあって、刊行された時からどういうわけか気になっていたので少し遅くなった
が読んでみた。じっさいのところ「すごい」どころか凄みのある凄まじい本で、君
は「現場」と豊かな関係を築いているか、「熱い思い」を共有しているか、と叱咤
されているのか激励されているのかはともかく、とにかく途方もなく濃密な情報が
充満した本だった。

 内田樹氏が『寝ながら学べる構造主義』のニーチェに触れた箇所で、適切な自己
認識を可能にするのは「遠い太古の、異郷の人の身体に入り込めるような、のびや
かで限界を知らない身体的想像力に裏打ちされた知性」だけだと書いていたのを思
い出す。構造主義にせよ、最近ようやくその凄みの一端に触れることができた(よ
うな気がする)現象学にせよ、それぞれの「現場」は必ずあるはずで、それはもし
かすると寝ながら、というより眠りながら見る夢のことなのかもしれない。

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