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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.120 (2002/07/07)
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 □ 斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』
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2002年も前半が過ぎて、この半年のあいだに読みえた哲学書を思い出してみる
と、木田元さんの『マッハとニーチェ』と斎藤慶典さんの『フッサール』という、
とりわけ深く心にとまった二冊の書物が、いずれも「現象」という言葉をめぐる書
物であったことにいまさらながら驚いています。(現象学的転回の年?)

たとえば私は『脳とクオリア』(その最大の功績は「認識におけるマッハの原理」
の提唱だと思う)以降の茂木健一郎氏の仕事に注目しているのですが、クオリアや
志向性や主観性といった心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに関する記述で、
茂木氏が「表象」という言葉を採用していることにずっと不満をもっていました。
むしろ「現象」あるいは「現象すること」というべきではないかと。

このことに関連して(関連しないかもしれないけれど)、斎藤氏は、超越論的還元
以前の自然的態度に基づく心理学が、哲学的思考が要求する厳密さを欠いているこ
とをめぐって、「それは「心」というみずからの対象領域の存立を自明のものとし
て前提してしまっており、そもそもいかにして「心」なる領域がその存立を保証さ
れるのか、あるいはそれが前提される理由は何かについて問うことがない」こと、
そしてもしこの問いが問いとして成り立つのであれば、「少なくともそのときには
何らかの仕方で「心」の領域の外部に立つ視点が確保されているのでなければなら
ない」と述べた後で、次のように書いています。

《これに対して、かりに「心」の外部として、物理的なものとしての「大脳」やそ
こでの「神経細胞の興奮」、あるいはそこを流れる「微弱電流」が確保されるので
あれば、それらによって「心」の成立を立証する途が開かれることになる(これが
物理学主義である)。だが私の見るところ(ここでは詳論するだけの紙幅の余裕は
ないが)、「大脳」にせよ「微弱電流」にせよ、それらが「心」の領域をいかなる
仕方でも経由せずに「現象」にまでいたることはありえないように思われる。少な
くとも私の知るかぎり、こうした「現象」を一切抜きにしてこの問題を処理できた
物理学主義にお目にかかったことはない。どの物理学主義も、暗黙の内にそうした
物理的なものの「心」への「現象」を前提にしているのである。超越論主義が徹底
しているのは、こうした「心」における「現象」の成立をはっきり認めた上で、さ
らにその「心」を可能にする次元へと)したがって「心」を相対化しもする次元へ
と)問題を解き放った点にある。もちろん、それが成功したか否かはおのずから別
の問題である。》(129-130頁)

「表象」と「現象」の(哲学用語としての)違いや、「脳」の大きさと「心」の成
立の関係をめぐる物理学主義(生物学主義?)の可能性など、いくつか補足してお
かなければならない論点はあるでしょうが、いまのところ、私は斎藤氏の上記の議
論に全面的に賛同しています。

また『〈私〉のメタフィジックス』以来の永井均さんの「独在性の私」をめぐる議
論とフッサールの「超越論的主観性」との関係や、「ありあり感」とか「生き生き
感」(あるいは「みずみずしさ」や「神々しさ」?)といった、「現象すること」
にまつわる「質」(クオリア)との関係も気になっているのですが、これについて
は斎藤氏も「私がフッサール現象学の内に見てとったものと[永井]氏が語ってい
る事柄が重なるものなのか否か、いまだに判断がつきかねている」(109-110頁)
と述べているくらいなので、はたして解けるかどうか解らない「問い」として、今
後とも一生つきあっていかなければならないものだと考えています。

強いていうと、それは、エックハルトが「わたしの体の内にわたしの魂はあるとい
うよりは、わたしの体がわたしの魂の内にむしろあるのだ」というときの「魂」、
つまりプシューケーをめぐる問題圏につながっていくものなのではないかと、私は
思っています。

いろいろ書き連ねてきましたが、要するに、斎藤氏の著書は汲めどもつきない豊饒
なもの(潜在的なもの)を孕んでいて、簡単に要約して通り過ぎていくことなどで
きない書物だということ、そのことを私なりの「問題」に引き寄せて述べてみたわ
けです。

当面の「作業」として、養老孟司氏が『人間科学』で論じた事柄を本書の議論へと
接続してみること、そして、『現象学』『記号学』『形而上学』の三巻で編集され
た勁草書房版パース著作集との関係を探ってみること、これらを自らに課して、興
奮を鎮めることにします。
 

●377●斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』
                    (講談社選書メチエ240:2002.5.10)

 世界には「ありありと」(もの[res]に即してリアルに、あるいはノエマ的に)
現象するものと「生き生きと」(はたらき[actus]に即してアクチュアルに、あ
るいはノエシス的に)現象するものがある。私たちの経験世界、たとえば知覚世界
を考えると、それはいつも「いきいきと」しているが、すべてが「ありありと」現
象しているわけではない。「いきいきと」かつ「ありありと」現象しているものに
即しつつ想像力を駆使した省察によって見出されるのが、「いきいきと」してはい
るが「ありありと」現象しているわけではない可能性の領野である(知覚表象に対
する「物自体」を考えてもいいし、理念的な世界や本質の世界を想定してもいい)。
これを敷衍すれば、そもそも「ありあり感」(リアリティ)が伴う領野から非現実
的な可能性の領野へと省察を進めることが「形相的還元」で、そこで決定的な役割
を果たすのが「想像力」である(だから、可能性あるいは理念性の領野で現象する
ものをイマジナリーなものと呼んでもいいと思う)。

 それでは、「いきいきと」かつ「ありありと」現象しているものを「手引き」も
しくは「導き」──数学者の山口昌哉氏は生前、intentionality は「志向性」で
はなく、トマス・アクィナスにまで遡る神学的意味合いを込めて「導き」と訳すべ
きだと主張したという(津田一郎『ダイナミックな脳』28頁)──とする省察によ
って見出される領野とは何か。あるいはこれを敷衍して、そもそも「生き生き感」
(アクチュアリティ)が伴う領野からそうでない領野へと至る省察を何というか。
もちろんそれがデカルト的省察を徹底した「超越論的還元」であり、この態度変更
によって見出されるのが超越論的領野である。ここで超越論的領野とは、ものやは
たらきではなく力[vis]に即したヴァーチャルな「潜在態」(アリストテレスの
デュナミス)ないし「無限定なもの」(アナクマンドロスのト・アペイロン)のこ
とであって、世界(紛れもなく存在=現象するもの)を成立させる「実質」そのも
の、すなわち「充満する空」である。

 こうしてフッサールの現象学を構成する二つの方法が位置づけられたわけだが、
超越論的還元(「私には〜と思われる」純粋な現象の獲得)と形相的還元(現象す
るものの「何であるか」すなわち本質=意味の明示)はどちらが先にたっても構わ
ない。アクチュアリティからヴァーチャリティへの超越論的還元を経て、超越論的
領野において(超越論的想像力によって)形相的還元を行おうが、あるいはまず経
験的・自然的な次元における(想像力を駆使した)形相的還元を経て、その後に超
越論的還元を行おうが、行き着く先は同じ(ヴァーチャルでかつイマジナリーな領
野、あるいは純粋な可能性)である。そこで獲得されたもの、つまり「現象」の内
実をなすものは「記号」というメカニズムであった。すなわち、絶えざる時間的流
動(ヘラクレイトス的流れ)のうちにある私たちの経験を根底で支えているのは自
己同一的なものなのだが、その存立は「不在における現前」という事態を可能にす
る想像力に負っている。そしてこの自己同一的なものの中核をなす「不在における
現前」という構造は「記号」の構造そのものなのである。

 ──以上が本書の前半部分をなす第三章までの内容を、第四章3節に出てくる語
彙群を使ってかなり恣意的に「要約」したものである。以下、記号という機構にお
いてとらえられた「現象すること」(何かが何かとして、何ものかに対して、どこ
かで、現れていること)の媒体(何ものかに対して)と場所(どこかで)の分析、
そして最終章での時間論を経て再び記号という事態へ、すなわち「あるものがみず
からの不在という仕方で、みずからでないもののもとで、みずからを現前へといた
らしめる」(270頁)という事態の成立(想像力が「不在における現前」の能力と
して私たちのもとに姿を現すこと、何ものかが「自己同一」でありうること、すべ
てが流動したやまないことと三つの事態が一挙に成立すること)へと説き及び、つ
いに「空」(ヴァーチャリティ)という充満した潜在態を中核に宿した世界の「現
象すること」の外部、すなわち想像力の限界であり「絶対に未知なるもの」として
の「無」をめぐる問いを指し示す。

《そもそも数学者として、「数」や「三角形」といった「理念的なもの」の成立の
事情に一個の「問題」を見てとった彼が、その五十年を超える思考を通じて考えつ
づけたものは、「理念」というその本質が「不在」であるようなものの出現の秘密
に、その「起源」を探るという仕方で迫ること以外ではなかった。(中略)そして
ご覧のとおり、この問いから彼が解放されることはなかった。すなわち、この問い
に回答が与えられたわけではなかった。あえて言えば、この問いには答えがないこ
と、したがってそれは解体されねばならないこと、ただそのことを示すことにのみ
、哲学者の一生は費やされるのである。(中略)だが、ひょっとしてこの「無駄」
は、そもそも私たちのこの現実が「現象する」ことの中に孕まれていた「余剰」と
同じものではないのか。世界は現象することも、しないこともできたのではなかっ
たか。別に、世界が現象することの方が、現象しないことよりも「有益」であった
わけではなかったのではないか。そして、有益なことも、そうでないことも、すべ
てはこの「現象する」ことから始まっていたのではなかったか。すべてはこの「現
象する」ことの「享受」だったのではないか。これが、私たちの世界の「起源」が
「無い」ということ、なぜか世界はその根本において、現に在るとおりのものとし
ていつもすでに「受けとられて」しまっていることにほかならなかったはずである。
(中略)いまにして想えば、私ははじめからこの「問い」を抱えてフッサールを読
んでいたのかもしれないのである。みずからの「問い」を、より強固なものとする
ために。すなわち、その実質が「空」であるこの現実のすべてが、その根本におい
て「無」に接している(=何にも接していない)という事態に絶えず帰還し、その
ことに不断に覚醒し、そこからすべてを考えるために。》(エピローグ)

 まことにスリリングで強靱な力に溢れた書物。哲学とは常に「問い」の再発見で
あり、根本から哲学を「新たに始める者」(フッサール)こそが哲学者、すなわち
世界をより深く享受する帰還者=覚醒者である。

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