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■ 不連続な読書日記 ■ No.119 (2002/06/30)
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□ 石川九楊『「書く」ということ』
□ 大澤真幸『文明の内なる衝突』
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上は観たと思う。鮮烈なシーンの記憶と結構を伴わない印象の細片群と情緒の余韻
が見終えたばかりの夢のように頭の中を飛び交っている。忘れやすい夢。夢を記憶するためにはできるだけ早いうちに言葉にしてしまうに限る(と、大澤真
幸氏が書いている)が、そのためには夢の「批評言語」を磨かなければならない。──突然、現象学の凄さに目覚めてしまって、何を読んでも見ても思っても、現象
学に関連づけて考える癖のようなものがついてしまって、今回取り上げた二冊の本
も、サッカーのピッチと同様、超越論的な領野をめぐるものに思えて仕方がない。続けて、小林敏明氏の『西田幾多郎 他性の文体』と山城むつみ氏の『文学のプロ
グラム』(いずれも半分ほどで中断)を読むつもりだったけれど、ブラジル対ドイ
ツの決勝戦の時間が迫っているので断念。
●375●石川九楊『「書く」ということ』(文春新書246:2002.5.20)
白川静の文字学の起点はトレースにあった。「文字を一字一字なぞること」を通
して明らかにされたその「中国古代社会の思惟の宇宙は、レヴィ=ストロースの無
文字社会の解明をはるかに凌ぐ巨大な業績である」(172頁)と石川氏は言う。そ
して、発音記号的音写文字中心の西欧の「はなす」(放、離、話)文化に対する書
字中心の東アジアの「かく」(欠、掻、画、描、書、耕)文化に立脚した新しい「
文[かきことば]の言語学」や「書字の哲学」を構想している。ここに出てくる「音楽」の西欧と「書」の東アジアの対比は石川氏の従来からの
説だが、本書ではこれに独自の資本主義論が付け加えられる。すなわち、近代資本
主義は「ギリシア=ラテン的商業主義」と「印刷文字的大量生産主義」と「キリス
ト教的消費主義」の複合体として成立したのだが、それらはまさに声中心言語とし
ての西欧語の歪みによってもたらされたものだというのである。《この西欧思想を超えたのは西欧においては唯一マルクスではなかっただろうか。
マルクスが戦ったのは、まさしく、この音声中心、活字=複製中心、新教主義[
プロテスタンティズム]、資本主義つまり西欧思想の総体であった。「はなす」こ
とに終始した声中心の西欧的視野の中に、「かく」ことつまり労働と労働力の理論
を導入した時、資本主義の構造が明らかになり、その超克がみえてきたということ
ではなかっただろうか。
読者=消費者に貶められた…従来のキリスト教思想と、侵略と収奪という西欧商
業思想を克服し、労働=書き手こそが世界の中心にあってこれを動かすという、世
界観のコペルニクス的転回を思想したのである。》(159頁)以下、荒削りながら迫力と創見に満ちた議論が凝縮された本書から、ドル・ショ
ック(1971年)以降の世界情勢や「現代思想」に言及した箇所を引用しておく。《想像を逞しくすれば、西欧やイスラムにおいては、文字が失われて発音記号と化
し、声中心の言語と化したがゆえに、書字に神を宿す文化を産むことができずに、
やむなく言[はなしことば]の信用を裏打ちするための仕組みとして絶対神神話の
ユダヤ教、キリスト教やイスラム教なる二次的宗教がつくられ、二十一世紀に至っ
てもなお、宗教を超えることができないでいるのではないだろうか。キリスト教原
理主義のブッシュ大統領とイスラム原理主義との争いの根は深い。》(102-103頁)《さて、ギリシア=ラテンの声中心主義的、そこから流れ出した印刷文字中心主義
的、キリスト教的、資本主義的西欧が、結局のところ、神の言[メッセージ]の読
者的、鑑賞者的、消費者的人間像しか描けず、ついに消費者という立場に限定され
た「読む」理論は構築することはできても、ついに「書く」創造の理論については、
うまく構築できないでいる。(中略)キリスト教のごとき神をもたない東アジアで
は、人間は神の言を「聴く・読む・見る」受動的な動詞以上に「話す・書く・描く
」ところの能動的な動詞を生きる。このため、東アジアにおいては能動的な創作の
秘密を垣間見たことのない批評家による作品の解読、評価は不十分であると考える。
》(163-164頁)●376●大澤真幸『文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える』
(NHKブックス943:2002.6.30)石川九楊氏は『「書く」ということ』で、「なぜ人を殺してはいけないか」とい
う問いに「相手の身になってごらん」云々と答える論法を等価交換の論理と呼び、
「やられたらやり返す」式のヤクザの論理(復讐[リベンジ]=応報)になぞらえ
ている。そして、ソーニアの宗教的、倫理的文体(「汝、殺すなかれ」)に敗北し
たラスコリニコフの物語を踏まえて、「人間の社会や文化の根柢は、双務的な等価
交換ではなく、片務的な「絶対」と「無償」の交換を基盤にしている」(81頁)と
書いている。大澤氏が本書の最終節で、大澤社会学の「方法」ともいうべきメタレベルでの言
説分析(というより諸言説の編集)と論理的逆説の摘出、つまり社会的事象や出来
事をめぐる原理的で抽象的な考察を駆使して到達した具体的な実践(9.11テロに対
してなされなければならなかったこと)が「アフガニスタンへの徹底した大規模な
(経済)援助」、すなわち抗争しあうすべてのグループへの無差別絶対で無償の贈
与であった。いわく、イスラームの正義の原点にあるのは交換における公正の感覚なのだが、
それはキリスト教‐資本主義においても同断である。しかし、前者が交換を価値体
系(等価性を評価する体系)の中心部においてのみ活用するのに対して、後者はそ
の境界部において交換を活用し、このことによって剰余価値を発生させる。両者の
違いは、ユダヤ‐キリスト教が交換の原理に反する原罪の観念を教義の中心に据え
ていたことだ。原罪とは交換に先行する返済義務のことで、原罪の観念は交換の関
係を搾取の関係へと質的に転換させる潜勢力をもっていた。まさにこの点においてイスラーム原理主義(実はそれ自身、資本主義の産物であ
りその補完物でしかない)は資本主義と対立するのだが、それが等価性の原理への
忠実な回帰をめざすものである限り不徹底である。イスラームの教義において神の
人間への最初の贈与が交換関係に起因する義務に規定されない無条件なものであっ
たこと、そして喜捨とはこの最初の神の贈与を反復するものであると解釈できるこ
とを踏まえるならば、イスラームの原理を自己超過的に徹底し、搾取の関係とは反
対側で、つまり贈与の側で等価的な交換関係を否定に導いていくべきだったのだ。ここで、標準的な等価交換に対して原罪の観念とはシンメトリカルな位置を占め
るものとして大澤氏がもちだすのが「本源的な恥の観念」である。つまり「誰もが、
単に存在しているということだけで、自らにとってポジティヴな何かを(他者に)
してもらえる権利を有している」という交換に先行する原権利であり、「何ら善い
ことを行っていないのに、初めから赦されている」という観念である。《われわれは、「普遍性」が不可能であるということ、それは偽装的なものでしか
ないということ、このことを何度も強調してきた。だが、実は、もし赦しが、ここ
に論じたような、私と他者のアイデンティティの根本的な変容を必然的に伴うとす
るならば、その赦しの瞬間にのみ、奇跡的に〈普遍性〉が到来する。私と他者は、
何かであることにおいては一致してはいない。私と他者が共通にそれであるところ
の「普遍的な同一性」はどこにもない。両者がともに認める善や正義を探ろうとし
ても、見つかるまい。両者に共通しているのは、どちらも変容しうるということ、
どちらも「何かであること」を根本から否定し、無化することができるということ
である。こうした徹底した否定性において、両者は共通しているのだ。》(234頁)──大澤氏は「あとがき」で、「あの出来事」は忘れやすい夢のようなもので、
忘れないための最も効果的な方法はそれをできるだけ早く言葉にしてしまうことだ
と書いている。本書の大半が費やされた論理的、抽象的な考察(というより諸言説
の編集)にはいつものスリリングさや華麗さがあまり感じられず、どこか吃音めい
たところがあって、それ自体忘れやすい夢のような印象しか残らず、最終節での「
実践的」な議論とのつながりもぎくしゃくしている。むしろ最後の文章から叙述を
始めればよかったのではないかと思うが、それは一つの夢を見終えたばかりの読者
の仕事なのかもしれない。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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