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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.115 (2002/05/26)
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 □ 保坂和志『もうひとつの季節』
 □ 保坂和志『羽生』
 □ 村上龍『アウェーで戦うために』
 □ 村上龍『悪魔のパス 天使のゴール』
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●361●保坂和志『もうひとつの季節』(中公文庫:2002.4.25)

 文庫版解説でドナルド・キーンが「世界の文学を広く読んでもクイちゃんほど、
面白みをそなえた少年は少ないだろう」と書いている。クイちゃんというのは本編
の語り手の「僕」こと「中野さん」の五歳になる息子圭太のことで、著者によると
そのモデルはうちで飼っていた猫なのだそうだ(『アウトブリード』に収められた
「『季節の記憶』の記憶とそれ以降」)。

 そういえば「僕」の家から道をはさんで三軒先の松井さんのところに生後半年く
らいで迷い込んできた猫の茶々丸とひたすら遊ぶクイちゃんは、たしかに猫を思わ
せる愛らしさときかん気と臆病さと無邪気さをもっている。そのクイちゃんがおば
あちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらっ
て、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃ
んだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどう
しても納得できないところからこの作品ははじまる。

 その後かわされる「僕」と松井さんや美砂ちゃんや蝦乃木との会話──茶々丸の
アタマのちっちゃさや人生の一回性、機能と構造、自由律俳句や「世界」と触れ合
うこと、言葉がシステムとして閉じられていること、自我と自意識の関係、量子力
学にまつわるわかりにくさや混乱は無意識の中で起こっていることを普通に意識し
ているときの論理や時間性の中で考えようとすることから起こる混乱と似ているこ
と、有機体の複雑さの奥に流れつづけるほとんど無機的といっていいような現象の
こと、「世界」や「時間」は「死」の置き換えであること、定義とリアリティと物
事の変化をめぐる考察、等々──はすべてこの「子どもの疑問」をめぐる「堂々め
ぐり」であって、この堂々めぐりが続くかぎり、保坂和志が創造した小説に流れる
時間は、クイちゃんにとって「赤ちゃんだったパパ」ともう死んじゃった「猫」が
そうであるように、永遠のうちに置き去りにされ、記憶として存在しつづけていく
だろう。

●362●保坂和志『羽生 21世紀の将棋』(朝日出版社:1997.5.20)

 保坂和志と将棋。このミスマッチに興味を惹かれて、将棋ファンでもないのに、
書店や図書館でさんざん探しまわって、ようやく見つけた時には本当にうれしくて
ワクワクしながら読んだ。

 将棋観戦記で有名な倉橋武二郎の娘が『季節の記憶』や『もうひとつの季節』の
モデルとなった人物の奥さんだったり、学生時代の友人が『将棋世界』の編集長だ
ったりすることが保坂和志と将棋の関係を解き明かすヒントなのではなくて、とい
うより、そもそも「保坂和志と将棋」ではなくて「保坂和志と羽生善治」だったの
だということがよくわかった。

 以前NHK教育の『未来潮流』で放映された吉増剛造と羽生善治との対談がとて
も面白くてずっと記憶に残っていたので、「保坂と羽生」だったらたしかに根深い
ところでつながっているかもしれないと思ったし、実際本書を読んでそのことが(
言葉ではうまく表現できないけれど)よく理解できた。

 技術論や人生論として将棋を語るのではなくジャンル横断的に将棋を語ること、
つまり「将棋が、他のジャンルと同様の、きちんと考え、論ずるに値するゲーム=
ジャンルなのだという了解を作り出す」ことでもってインター・ナショナルならぬ
インター・ジャンルの方向へと将棋を開くこと、そして「一局の将棋とは、その将
棋が固有に持った運動や法則の実現として存在するものであ」るという「将棋観」
を持つこと。これが「序」で要約される羽生善治のすべてなのだが、それは保坂和
志がめざしている小説そのものなのかもしれない。

《将棋とは個人の欲望や執念の産物でもなければ、個人の人生の比喩でもない。将
棋というゲームの奥行き、広がりは、個人の人生よりもはるかに大きい。もし将棋
が個人の欲望や人生の比喩程度のものであったら、とっくに必勝法が作られていた
だろう。
 したがって、棋士は棋風という個人のスタイルを持つのではなくて、スタイルを
乗り越えて、持てるものすべてを投入して、将棋の法則を見つけ出そうとする必要
がある。》(14頁)

●363●村上龍『アウェーで戦うために フィジカル・インテンシティV』
                   (知恵の森文庫,光文社:2001.10.15)

 中田英寿には世界観がある。これは文庫解説で増島みどりが紹介している村上龍
の言葉で、この後、二人の「アウェーの人」は出会うべきして出会った。村上龍が
言う「世界」とは「アウェー」のことだと増島みどりは書いていて、「アウェーの
概念は、一度体感したら忘れることができない。そしてそれはホームでの戦いの際
に、自分を客観視するのを助けてくれる」と村上は書いている。

 この「世界観」と、組織的なサッカーとは組織への従属ではなく「内部構成員同
士の相互信頼」(111頁)が確立されたサッカーのことだ、あるいは「スポーツを
構成しているのはコミュニケーションだ」(43頁)と村上龍がいうときの「相互信
頼」や「コミュニケーション」とを組み合わせるなら、それこそ脳の機能であり、
意識が果たす機能である。

●364●村上龍『悪魔のパス 天使のゴール』(幻冬舎:2002.5.10)

 作品のほぼ四分の一、九十頁にわたって繰り広げられるメレーニア vs ユヴェン
トスの壮絶な戦いと臨界点へ向かう熱気と心も凍る冷気が入り交じる観客席の描写
は、あの『五分後の世界』の長い長い戦闘シーンをひょっとすると凌駕しているの
ではないかと思わせる興奮とカタルシスと痛切を湛えていた。

 著者は「あとがき」で「選手たちはピッチの上で、自分の物語などには関係なく
シンプルにボールを追い、ボールを蹴っている。…ピッチは選手たちのものであり、
選手たちの聖地だ。わたしは、サッカーがいかに魅力のあるスポーツかということ
を描きたかった」と書いている。

 この目論見はものの見事に成功していて、だからユヴェントスとの死闘を繰り広
げる夜羽冬二が死のドーピング剤アンギオンに犯されているのかどうかといった「
物語」的趣向などにはいっさい関係なく、私はただただシンプルに息をのんで冬二
の「天使のゴール」が繰り出されるゲームの推移を見守った。その余の部分は、対
パルマ戦と冬二の「悪魔のパス」が見られる対フィオレンチーナ戦の描写を除けば、
DNAの剰余部分のようなもの、あるいは図と地の対比でいえば地であって、作家
村上龍の濃度(強度・密度)の迸りとも筆の遊びとも言えば言える。

 村上龍は『奇跡的なカタルシス』で「サッカーのカタルシスは爆発的でそれがゴ
ールという奇跡によって成立することを考えると宗教的ですらある。サッカーより
刺激的な人生を送るのはそう簡単ではないような気がする」と書いた。これをもじ
るなら、サッカーより刺激的で宗教的な小説を読むのはそう簡単ではない。そのこ
とを完璧に示したのがこの小説で、それは凄いことだ。

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