〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記               ■ No.114 (2002/05/19)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 保坂和志『生きる歓び』
 □ 保坂和志『明け方の猫』
 □ 養老孟司・甲野善紀『自分の頭と身体で考える』
 □ 養老孟司・甲野善紀『古武術の発見』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

保坂和志と養老孟司。この二人は、『季節の記憶』(中公文庫)の解説を養老氏が
書いていること、それから、続編の『もうひとつの季節』で「頼朝八歳の頭蓋骨」
をめぐる会話(中公文庫,166頁以下)が交わされ、養老氏の『人間科学』に「頼
朝公六歳のみぎりの頭骨」という小咄についての言及(筑摩書房,64頁)が出てき
て、いずれも、変化するものと変化しないもの、養老本のキーワードを使えば「実
体」と「情報」がクロスする重要な場面転換を担っていること、といった表面的な
切り結びを超えて、何かしら深いところでつながっているように思えてならない。
 

●357●保坂和志『生きる歓び』(新潮社:2000.7.30)

 保坂和志の文体は癖になる。(それはどこか吉田健一の文体がもっている力を思
わせるところがある。)──それ自体、一編のホサカ式短編小説の趣をもった「あ
とがき」の中で、保坂和志はアウグスティヌスの「神はただ精神それ自体でしか知
ることができない」という言葉を引いた後、次のように書いている。

《私たちは言葉によって客観的に記述可能なものを「事実」としたがるけれど、言
葉の歴史にとってそのような「事実観」はとても最近のもので、言葉は客観的に記
述できないものもごくあたり前に含み込んで「事実」としてきた。言葉というもの
は単語や概念だけ新しいものを作っても、結局は全体としてのシステムの中で使わ
れなければ意味がなくて、今のシステムそのものが客観的に記述可能なものしか「
事実」としないのだから、そうでない「事実観」を考えようとしたら、新しい言語
体系を私が作り出さなければならないということで、そんなことは躊躇なく不可能
だけれど、一九九六年に『季節の記憶』を書いて以来、私の中で芽生えてどんどん
肥大化している願望とはそのようなことだ。》(156頁)

 保坂和志が『生きる歓び』に収録された二つの「小説」で試みたのは、生きる歓
びを表現する言語体系あるいは世界を肯定する言語体系を作り出すこと、それも『
季節の記憶』や「明け方の猫」(この作品で保坂和志は新しい「感覚世界」まで作
り出そうとしている、というか猫の感覚世界を語る言語体系を作り出そうとしてい
る)のように「きちんとした話を立ち上げ」るとか「新しい小説世界を立ち上げる
」(あとがき)のとは違って、「死んでしまったらすべてが終わり」という言語シ
ステム(あとがき)しか持っていない今の社会の中で作り出すことだったのだろう。

 だから、捨てられたか親とはぐれた全盲かもしれない子猫を拾ってきてサリバン
先生みたいに世話をして、テレビで見た全盲の天才少年ピアニストが中学高校で同
級だった友人の子どもだということが分かって友人の職場に電話して子どもが夢を
見ることを教えられて「知覚によって構成された世界を持っているかぎり、視覚が
なくても、夢はみるだろう」と思う「私」の五月から六月にかけての出来事を綴っ
た「生きる歓び」は──たとえば「人生というものが自分だけのものだったとした
ら無意味だと思う」(30頁)とか「「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」
という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。…「生命」にとっては
「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食
べて、段ボールの中を動き回りはじめた子猫を見て、それを実感した」(45頁)と
か「私がこんなことを感じたのは子猫の「花ちゃん」が二日目の夕方あたりから、
存在の全体で生きる歓びをあらわすようになったからで、…「花ちゃん」のこの様
子を見て、私はまるで小さい子どもが花をきれいだと思ったときに花の絵を描くよ
うな気分で、そのことを小説か何かに書きたいと思った」(49頁)などと「私」の
観察記録や心境や雑感や「哲学的」考察を記しているとしても──けっしてエッセ
イではなくて、紛れもない「小説」なのだ。

 それは、文字どおり混じりっけなしに「小実昌さんのこと」だけを書いた文章に
ついても言えることだ。──この保坂和志の「新しい言語体系」はほんとうに癖に
なる。

●358●保坂和志『明け方の猫』(講談社:2001.9.25)

 「生きる歓び」の「私」は「猫の五官の特徴にまつわる小説」を書いていて、そ
こでは視覚に依存した人間の生と思考をめぐる考察もなされている。

(このことに関連して「私」は、捨てられた子猫ごときにかかずらっているヒマが
あったら世界の難民救済の募金にでも行った方がいいというような「世智にだけ長
けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、五十す
ぎの関西芸人」の「バカな理屈」について、「人間というのは、自分が立ち合って、
現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ている」のであって、「人間
の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処す
るように発達した」から「純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につ
きあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から
受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然
の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもな
い、ご都合主義のフィクションでしかない」と語っていた。)

 その「生きる歓び」の「私」が書いていた小説というのが、明け方の夢の中で猫
になった「彼」による猫の触毛と聴覚と嗅覚をめぐる体験と考察(猫であるとはど
のようなことか)を、人間の言葉と概念で記録した「明け方の猫」だ。

 人間の大きな手で撫でられてゴロゴロ喉を鳴らしたり毛づくろいの愉悦にうっと
りしたりと、まず猫であることの歓びを存分に味わった「彼」は、やがて触毛と聴
覚と嗅覚がもたらす猫的クオリアの世界やそうした「世界を丸のまま受け入れる力
」に満ちた猫の生、そして触毛を失った代償として人間が獲得したものをめぐる考
察を始める。

 ──「いまの自分の感じていることと人間だった自分の感じていたことは、現実
と写真ほどの差がある」(26頁)。「そのつど世界と関わりそのつど世界に送り返
す生き方をしている猫にとって、世界そのものは人間よりずっと濃密で、…猫にと
っては自分の中にあるものよりも外にあるものの方がずっと多くて、自分が生きて
存在していることよりも世界があることの方が確かなのではないか」(79頁)。「
人間は猫の外界の豊富さを失ったのだから、パースペクティブを獲得してもいいは
ずだ」「パースペクティブを持たない猫は、外界との緊密な繋がりを持ち、生存の
記憶を外界に送り返しているはずだった」(74頁)。「猫にとって外界は自分の体
の一部であり、自分の体は外界まで浸透しているに違いない」(97頁)。

 それにしてもこのような「小説」は前代未聞なのではないだろうか。

 ところで今回、私は保坂和志が小説家として世に出る(変な言い方)前に書いた
「揺籃」を(敢えて)読まなかった。この作品と「明け方の猫」とを組み合わせる
ことで保坂和志は何を表現しようとしたのか、それを考えるのがちょっと荷が重す
ぎるのではないかという予感があったからだが、たんに体力が足りなかっただけな
のかもしれない。

●359●養老孟司・甲野善紀『自分の頭と身体で考える』
                        (PHP研究所:1999.10.4)

 以前、養老・甲野『古武術の発見』(光文社カッパサイエンス)を読んで、いた
く感銘を受けたことがある。それから七年、過激で辛辣でいながら品格を損なわな
い大人の本質談義をふたたび満喫した。目次の小見出しがとてもよくできていて、
臨場感があふれている。

 「養老節」から、科学をめぐる発言を少々。

《…池田清彦さんじゃないけれど、僕は科学を信じてませんよ。科学は方法論です
もん。何にも保証しません。(中略)その必要[宗教による社会的押しつけに対抗
して、カチっとした手続で「やっぱりこうじゃないか」と実証してみせる必要]が
ないところで科学と言っても、そんなもの全然、本気ではないわけです。鴎外が書
いているように「かのように」の世界ですから。だから日本は科学風とか、科学的
というのは成り立つけれど、科学は成り立たない。》(53-55頁)

《「あなたのやってるのは科学じゃない」と言われるから、「それじゃ、今、そっ
ちが言った、『あなたがやってるのは科学じゃない』っていう言葉は科学か」って
僕は言い返すの(笑)。それは哲学ですもん。
 そうすると「私は哲学はやってない」とそういう人は言う。「お前の頭はどうな
ってんだ」って言いたくなるでしょう。科学とはこういうものだというのは、完全
な哲学ですからね。》(60-61頁)

 甲野氏の養老評が決まっている。《以前、ある人が、信頼できる人の条件の一つ
として、「少年の面影をどこかに持ち続けていること」と言われていたが、養老先
生は、現代では数少ない、大人の上品さと、純さ、そして、少年の心を持ち続けて
いる方のように思える。》(おわりに)

●360●養老孟司・甲野善紀『古武術の発見』(光文社カッパサイエンス)

 昔の日本人は走れなかった。それが証拠に一揆を描いた絵で逃げまどう百姓はバ
ンザイをして右往左往している(ええじゃないか踊りのように)。そんな雑学の種
本としても面白いが、「質的に転換した動きを育てる」とか「多方向異速度同時進
行」、円ではなく二力合成の平行四辺形をベースにした「井桁崩し」など武術家の
言葉が新鮮。気に入ったのは「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りてみよ花のあり
かは」という柳生但馬守宗距『兵法家伝書』の極意。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       :http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP:http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓