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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.113 (2002/05/12)
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 □ 野村万之丞『マスクロード 幻の伎楽再現の旅』
 □ 土取利行『縄文の音』
 □ 金塚貞文『マリー・アントワネットは夜、哲学する』
 □ 宮本久雄・岡部雄三編『「語りえぬもの」からの問いかけ』
 □ 富岡幸一郎『使徒的人間』
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ゴールデン・ウィークの前半、二本のビデオを観ました。青山真治監督の『EUR
EKA(ユリイカ)』と滝田洋二郎監督の『陰陽師』。『EUREKA』の「三時
間三七分の旅」(阿部和重 http://boid.pobox.ne.jp/critic/abe1.htm)はちょっ
と比類のない映像体験で、たぶん生涯忘れられない作品になると思う。

『陰陽師』は岡野玲子版の奥深さにはとても及ばないし、ドラマとしてはNHK版
の方が好みだけれど、娯楽映画としては悪くない。サイボーグ・萬斎の演技はちょ
っとイメージが違ったが、これはこれでいいと思った。その萬斎ならぬ万之丞さん
が、雲南、ブータンからチベット、新彊、インドへと幻の芸能・伎楽のルーツを訪
ねるフィールドワークの旅に出た。『マスクロード』はその十年にわたる源流遡行
と「真伎楽」復元の記録。
 

●352●野村万之丞『マスクロード 幻の伎楽再現の旅』(NHK出版:2002.1.25)

 仮面は「隠す」と「見せる」、見えない神と見えない人の心、過去と未来を繋ぐ
多表情なインターフェイス・装置であり、主観・客観・大客観(大客観とは第三の
視点、たとえば茶室で亭主と正客の「見る・見られる」という関係を「見ている」
次客の視点をいう)の三つの視点を持った生きた「無形文化」(歴史の生き証人)
である。

 ヨーロッパ演劇武者修行でイタリアの仮面劇「コンメディア・デル・アルテ」が
残存する仮面をもとに復元された経緯を知った若き日の著者は、中世初期に滅びた
仮面劇「伎楽」の再現を志し、伎楽面復元の終了とともについに十四種の仮面のル
ーツをつきとめ、環境芸術であり「哲学娯楽」でもある伎楽の意味を解明する。

《私は伎楽は太陽を信仰し、火を見つけた原始の人々が、どのように自然と共生し
たらよいかを考えたエコロジー劇だったと考えている。決して仏教芸能や演劇とい
うカテゴリーの小さなものではない。自然と共生する人間の叡智を表した、人類が
最初に考えた芸術、それが伎楽なのである。》(239頁)

 イタリアでの経験を通じて「世界中、仮面だらけなのだ」(48頁)と喝破した著
者は、本書のあとがきで「二十一世紀は仮面の時代になると信じている」と書いて
いる。それは多神教の時代というより、見えないもの同士を繋ぐインターフェイス
としての「哲学娯楽」(アート・オリンピック)の時代を意味している。

《仮面を失い、仮面の心を忘れた人々は、不安の解消法を失ったのも同然である。
仮面を失ったものたちの画一的な発想こそ、アメリカンスタンダードであり、それ
に対抗するイスラムの、テロリズムに訴えてでも世界をイスラム一色にしようとす
る発想ではないか。私は、二十一世紀の平和はアジアの中で仮面の心を伝え続けて
いる人々によってつくられると信じている。多様な文化や思想を包含し、見えない
物を信じる仮面の心こそ、様々な不安にさいなまれている現代人に必要なのではな
いか。私は同時多発テロ事件をきっかけに、仮面によって世界を繋ぐマスクロード
・プロジェクトを実現しなければならないと、一層強く考えるようになったのであ
る。》(210頁)

●353●土取利行『縄文の音』(青土社:1999.12.10)

 いつの頃からか、仮面もしくは仮面的なものに惹かれ続けてきた。仮面の素材や
形態や機能には、なにかしら原始的とでもいうべき感覚に根ざした根源的な「記憶」
が蓄えられているように思ったし、真正の哲学的思考のうちには、そういった意味
での仮面的なものが脈々と流れ、あるいは突発的に噴き出しているのではないかと
思った。(たとえばキルケゴールやニーチェが「仮面の哲学者」と名ざされること
があるけれど、あれは一体どういう意味なのか。)

 私なりのつたない考察の結果を述べると、まず仮面的なものの物質的「素材」に
ついては、ギリシャ語の「ヒュポスタシス」(「下に+立つ」という動詞から生じ
た名詞で、ラテン語 substantia の語源)がもつ「濃いスープや膿などの液体と固
体の中間のようなどろどろしたもの」(坂口ふみ)という意味が大いに関係しそう
だ。

 また、仮面的なものの原初的「形態」は、複数の穴をもった管(多孔体、たとえ
ば笛や藁)とか内部世界をもった器(たとえば洞窟や盤・椀・壷、壁面=表層=皮
膚に刻印された動物系・植物系の装飾を含めて)であって、それらが「音=声」「
顔=貌」「身=実」といった物質の三態に準えることのできる「機能」を備えた時、
仮面的なものの原型がほぼ出来上がるのではないか。さらに物質の第四相、つまり
プラズマに相当する第四の機能としての「名=徴」をめぐる「仮面の記号論」(パ
ースのインデックス・イコン・シンボルに次ぐ第四の記号としてのマスク、あるい
はイェイツの「仮面」をめぐる考察が拓く世界)が仮面的なものの実質と射程を余
すところなく開示するのではないか。

 いずれもまだ生煮えの粗雑なアイデアでしかないものなのだが、そうしたパース
ペクティブから見た場合、たとえばガウディが構想した楽器としての大聖堂、都の
サウンドスケープ創出装置としての梵鐘、そして銅鐸や太鼓は、その素材や形態や
機能を含めた存在まるごと、まさしく私が夢想する仮面の実現態そのものではない
かとにらんでいる。

 ──かつて近藤等則、坂本龍一といった面々と組んで活躍し、ピーター・ブルッ
ク国際劇団で音楽を担当したこともあるパーカッショニストの土取氏は、その後、
古代音楽の研究へと活動を進め、本書で丹念に述べられているように、その用途を
めぐって土器鼓説と酒造具説が対立している縄文時代の有孔鍔付土器を土器鼓とし
て復元し、自ら演奏してみせる『縄文太鼓』演奏プロジェクトに取り組んだ。

 この有孔鍔付土器をめぐって繰り広げられる土取氏の探求と洞察と想像力の旅の
記録である「縄文の音へ」が本書のハイライトで、縄文の音世界という「見えない
世界」に関するこれからの課題である「縄文の仮面」──その冒頭で土取氏は「縄
文人は、カミの声を発する道具として土製楽器を作ったのに続いて、カミの相貌を
擬するための道具」として土製仮面を作り出したと書いている──や「縄文の歌」
を扱った文章もインスピレーションに満ちた素晴らしいものだったのだが、ここで
はそれらの間に挟まれた「縄文楽器の世界」の一節を抜き書きしておこう。

 縄文人の観念において、楽器は「生命の器」であったと土取氏は唱えている。そ
の観念を読みとるために触れられているのが、縄文中期以来の土偶に広く見られる
マジカル・ライン──「土偶の体の前面、正確には喉か乳房の真ん中あたりから臍
の位置まで下がって刻印された点線や傍線」(166頁)──である。

 土取氏はそこに縄文人の生命観を解明する重要な鍵が秘められているのではない
かとにらんで、三木成夫の『ヒトのからだ─生物史的考察─』を参照しながら、ヒ
トのからだの中にある二つの器官と機能──すなわち「栄養‐生殖」にかかわる植
物性器官と「感覚‐運動」にかかわる動物性器官がそれぞれ心臓(血管)と脳(神
経)に代表され、そこからこころ(心情)の機能とあたま(精神)の機能が由来す
る──のうち、マジカル・ラインが象徴しているのは「からだの内なる植物的いと
なみ、つまりこころの存在」だったのではないかと推測している。

《人間の歴史において生の中心が心臓から頭に移行していくものだということを先
述したが、縄文人の生の中心がこのこころ(心臓)にあったことを土偶はカタチと
して如実に教えてくれているのではないだろうか。そしてこのことは、なぜ発生期
の土偶に頭がないかということへの理解にもつながるものと、わたしはひそかに考
えている。このようにヒトをこころでとらえた縄文人にとっては、まさに人と動物、
そして科学が無生物とよぶ石や土や風などの自然現象さえもすべてがイキモノとし
て存在したのである。》(171頁)

 土取氏は、このマジカル・ラインに表現された縄文人の観念を、縄文中期、後期
の一穴の土笛が後期から晩期にかけて二穴に移行していったことに重ね合わせてい
る。

《ここで、これまで一穴だった土笛はこの観念の移行によって二穴となり、これま
で木の実を想像させた形そのものも、おそらくはトーテミズムと関わりをもつ陸上
動物、海獣、鳥、昆虫の形をとった精霊の姿として、新たに蘇るのであるが、これ
はイキモノをココロでとらえる縄文人にとってはごく自然のことだったであろう。

 縄文鼓、土製ラットル(土鈴)は音以上に形を重視していたが、このことは土笛
も例外ではない。この動かしがたい観念によって、笛の穴を三つにすることも四つ
にすることもなかった縄文人は、単に音そのものを楽しんだのではなく、音の背後
にあるものこそをそれによって認知し共有したのである。》(172頁)

 見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないものとのインターフェイ
スにおいて思考する音楽家土取利行の想像力は、何かしら途方もない観念世界の所
在を告知している。

 付記。考古学に認知論的アプローチというものがあって、それはどうやら脳のニ
ューロン・ネットワークが関係するらしい(ミズン『心の考古学』)。土取氏の考
古学はなんと言えばいいのだろうと思ってインターネットで検索したところ、音響
考古学(acoustical archaeology)や音の考古学や音楽考古学(musical archaeol
ogy)や音声考古学や楽器考古学や楽器楽(organology)といった言葉が出てきた。
これはその過程で見つけた情報なのだけれど、「土取利行の音楽世界」[http://h
omepage2.nifty.com/w-perc/]の「縄文の音」のコーナーに、本年9月、香川県で
縄文太鼓の本格的なコンサートを予定していると書いてあった。

●354●金塚貞文『マリー・アントワネットは夜、哲学する』
                         (三笠書房:2001.11.10)

 土屋恵一郎、田原八郎、そして金塚貞文の三人の異能の哲学者(異端・異例ある
いは肉体派・舞踏派・武闘派・生理派等々の哲学者と言ってもいい)にはずっと興
味をもってきた。金塚氏の本は『オナニスムの秩序』『オナニズムの仕掛け』『人
工身体論』の三冊まで読んで、その後出た『眠ること夢みること』や『デカルトの
鏡』は未読。

 本書は、「淫ら」であったがゆえに(?)ギロチンで首をはねられてから二百年、
いまや考えることだけが退屈を紛らわす唯一の楽しみになったマリー・アントワネ
ット──「だって、そうでしょう? 身体から切り離された頭に他に何ができるで
しょうか」──が八夜にわたって繰り広げる何もなかった初夜の出来事からその後
の放蕩、レスビアン、不倫、SM、フェルセン伯爵との生涯一度の命を賭した愛、
そして近親相姦(仮想としての)にいたる生涯のエピソードと、性欲や性的快楽を
めぐる(死後の)思索の開陳である。前代未聞の奇書にして、きわめてまっとうな
性欲哲学。

 以下、マリー・アントワネット「夜の哲学講座」からの名言をいくつか。

「わたしは、こういうふうに、格闘技のように考え抜くことが、哲学することだと
思うの。」
「わたしが一生懸命、二百年かかって、考えた結論は、「[セックスとは]エッチ
することである」という、まさしく単純明快な、アホのような結論でした。(中略)
「エッチって何だ?」って問われたら、…そうね、「セックスについて想い描いて
いるイメージ[性的幻想]を自分の身体で演じること」って言ったほうがいいかし
ら。(中略)それはこうも言い換えられますね、「セックスとは、性欲なるものを
身体で演じることである」って。」
「性欲は自然の衝動だから抑えが効かないだとか、セックスは自然で美しいものだ
とかそういう物言いはもういいかげんに止めましょう。自分の都合のいいように自
然を使うのは、「自然破壊」というものではないでしょうか。」
「愛するとは、愛する相手に、愛されていることを一瞬たりとも疑わせぬ不断の努
力なのではないでしょうか。(中略)だから、わたしは臆せずに言います。わたし
は、愛している、愛おしく思っているということを一途に演じ通したって。それが、
それこそが、わたしにとって、愛するということの真実だったって。」
「これは私の思いつきですが、…近親相姦の禁止、そのタブーとは、子どもに対し
てよりも、むしろ母親に対して、より強く働いているもので、母親に母性を強いる
ための仕掛けのようにさえ思えてくるのです。近親相姦願望によって、子どもは性
に目覚め、そのタブーによって母親は母性に目覚めなければならないというわけな
のでしょう。」
「性欲なんていう制服は脱ぎ捨てましょう! そうしたら、セックスだって、異常
だとか、偽物だとか、やたら排他的な「自然の性欲」にとらわれないで、もっと自
由な、もっと創造的な、もっと愉しいものになるに違いないのです。空想するだけ
で、何かワクワクしてきませんか。」

●355●宮本久雄・岡部雄三編『「語りえぬもの」からの問いかけ
      ──東大駒場〈哲学・宗教・芸術〉連続講義』(講談社:2002.3.15)

 本書は…「語りえぬもの」のポリフォニィーにみちた魅力ある「語り」なのです
(宮本「序」)。わたしたちが自由に語れるのも、気ままに空想を遊ばせうるのも、
そしてなによりも活き活きと生きかつ創造しうるのも、語りえぬものがあればこそ
です(岡部「おわりに」)。この二人の編者の言葉の間に、編者自身を含む十一人
の講師による一、二年生を対象としたテーマ講義の記録。

 たとえば、第1講で野矢茂樹氏は、ウィトゲンシュタインの『論考』がしかけて
くる退屈の罠から逃れるために、「無限とは本質的に退屈なのだ」(そして、人生
も)という構成主義的無限論の立場を保持しながら、思考可能なものたち(語りう
るものたち)の総体は不動ではない、だから「いつか新たな思考の可能性が開ける
かもしれない」という期待あるいは「予感」(野矢氏はそれを「野生の無限」と呼
ぶ)に賭けて、「なるほど、語りえぬものについては、沈黙するしかない、だが、
語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」と語
る。

 続いて門脇俊介氏が、二十世紀の哲学者にとって語りえぬものの別名であった「
世界の神秘」をめぐって、ハイデガーの哲学は、ハイデガーが人工的に仕組んだ世
界の「故障状態」(そこにおいて、世界という語りえぬものが一瞬われわれの経験
において閃く)だったのではないかと語る。

 そのハイデガーが愛してやまなかったエックハルトについて、岡部雄三氏は第8
講で、「エックハルトにとって、自己を荒野化する、無化するとは、…自己を空に
し透明化することによって自己の臨界を明確に線引きし、語りえぬかのもののエネ
ルギーをその自己のうちに自由かつ個性的に噴出させ体現させることにほかならな
かったのです」と語る。

 最終講義で沼野充義氏が、「個の魂に宇宙を見る」ロシア・コスミズムの香気を
ふりまきながら、「文学的創造とは、「表現されないもの」と向き合い、かりにそ
れを克服できなくとも、表現されえないものがいかに表現されえないかということ
を表現しようとする過程から成り立ってきた」と語る。

 ──「語りえぬもの」の語り(哲学の思考)と表現(芸術の美)、そして「語り
えぬもの」との対峙(宗教の智慧)をめぐるこれらの連続講義を総称する言葉は、
「科学基礎論」(デカルトの哲学の樹の根っこにあるもの)なのではないか。

●356●富岡幸一郎『使徒的人間』(講談社:1999)

 『「語りえぬもの」からの問いかけ』を読んで、なぜか本書を想起した。──富
岡氏は「使徒」的な人間をめぐって、「預言者や使徒たちに始まる、この人間像こ
そ、むしろ、これからの時代の新しい人間像となり得るのではないか」と述べてい
る。これはいったいどういう意味なのだろう。そのことを確認するために私は本書
を読み、そして瞠目した。

 たとえば富岡氏は次のように書いている。

《「初めに、神は天地を創造された」にはじまる、創世記の歴史物語が証しする「
人間存在の最初の場面」と、ヨハネ黙示録が啓示する「わたしはまた、新しい天と
新しい地を見た」という「最後の場面」──近代の史観はこのふたつの場所を見よ
うとはしないし、見ることができない。しかし、イスラエルの想像力はこのふたつ
の場面を、すなわち神と人との間に生起する救済史の歴史[ゲシヒテ]を、その出
来事の秘義を見る。(略)歴史家が世界史の「はじまり(アルケー)」を神話のう
ちにさぐり当てようとするとき、使徒的人間は、「はじまり」を、聖書の天地創造
の業のうちに見る。来るべき世紀が、問いかけ、求めるのは、この歴史にたいする
古く、そして新しい想像力であり、創造の時にむけての使徒的人間のアルケオロジ
ーである。》

 始まりと終わり。人の世の業を、すなわち歴史を超越するもの。「空洞を露呈す
る人間」(カール・バルト『ローマ書』)としての使徒が宿す「神の言葉」とは、
神になりあがった20世紀の人間の秘匿された空虚(オリジナルなプライヴァシー?)
を撃つ。

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