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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.112 (2002/05/03)
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 □ ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』上
 □ ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』下
 □ 加藤典洋『戦後的思考』
 □ 加藤典洋『日本の無思想』
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●348●ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』上
                    (三浦陽一他訳,岩波書店:2001.3)

 カラオケにはめったに行かないし、行ってもあまり唄わないが、何曲か唄うこと
もたまにはあって、気分がのってくると必ず一度は「星の流れに」を唄う。この流
行歌を同時代の体験として懐かしむような年齢ではないのだけれど、うまく説明で
きない回路でもってそこに痛切な郷愁を覚える。この歌の低層に漂う感傷的な哀切
感と表層を覆う不思議な明るさに現代性をすら感じてしまうのだ。

 この感覚、というか感情の生理は本書を読んでいる時のそれとほとんど同じもの
だった。たとえば次の文章など、すぐれた歴史家の凄さにつくづく感じ入ってしま
う。(第四章「敗北の文化」の149頁に「闇の女」をとらえた「古典的とも言える
」写真が掲載されていて、そのキャプションが「こんな女に誰がした?」だったと
紹介されている、その少し後にでてくるもの。)

《米兵と腕を組んで歩いたり、米兵のジープに乗って陽気にさわいだりするパンパ
ンの姿は、突き刺すように日本人の誇りを傷つけたし、とくに男性には、男として
情けなさを感じさせた。と同時に、パンパンの姿は占領下の日本人の誰もが巻きこ
まれていた「アメリカ化」という巨大で複雑な現象のなかの、ひとつの目立つ例な
のであった。パンパンは公然と、恥しらずに征服者に身を売ったが、他の日本人、
とくにアメリカ人のお近づきになった、いわゆる「善良」な特権的エリートたちも
また、肉体そのものではないが、ある意味で身を売っていたのである。》(162-16
3頁)

《ひょっとすると、この時代のパンパンたちは日本の「水平的」な西洋化という、
それまでなかった文化交流現象の、もっともわかりやすい象徴かもしれない。かつ
ては、この国で文化交流の影響といえば、まず例外なく「垂直的」に、つまり上層
エリートから浸透していったものである。「モダン・ボーイ」や「クララ・ボウ・
ガール」がもてはやされた一九二○年代のフラッパー文化は例外のようにもにえる
が、これでさえ余裕のあるブルジョア階級にかかわりがあっただけで、一般庶民は
あまり影響をうけなかった。社会の下層であるパンパンたちは、民衆レベルの「水
平的」な西洋化という、それまでにないものの象徴となったのである。したたかで
明るい彼女たちほど、比喩的にも文字通りにもアメリカ人に「近い」存在はいなか
った。快楽主義と物質主義にもとづくアメリカ的消費文化の先駆者として、彼女た
ちにまさる者はいなかったのである。》(166頁)

●349●ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』下
                                        (三浦陽一他訳,岩波書店:2001.5)

 上巻が敗戦後の民衆と文化と革命(精神)をめぐる過去の物語であったとすれば、
「さまざまな民主主義」(天皇制民主主義、憲法的民主主義、検閲民主主義)と「
さまざまな罪」(勝者による戦犯裁判、死者に対する懺悔)と「さまざまな再建」
(占領軍の経済政策)を取り上げた下巻は、政治と経済をめぐる現代の物語である。

 上巻に収録された写真が何かしら懐かしさを喚起する「記憶」のインデックスで
あるのに対して、下巻のそれ、たとえばマッカーサー元帥と天皇裕仁の初会見時の
写真や無名の戦争犯罪人の絞首刑の写真は、あまりに身近すぎて客観化できない無
意識、あるいは起源神話ともいうべき「忘却」を形象化するアレゴリーである。

 ──敗戦と占領を経て現代の思想状況や社会システムのうちに引き継がれたもの
を端的に言い当てる言葉は「ダブルスタンダード」と「ハイブリッド」であり、そ
れは歴史家によってたとえば次のように表現されている。

《この検閲民主主義は、イデオロギーを超越した根深いところに遺産を残した。表
向き「表現の自由」を謳うなかで実施された秘密検閲システムと思想統制が、戦後
の政治意識になんの害ももたらさなかったと、ほんとうに信じる人などいるだろう
か? 屋根のてっぺんで「表現の自由」の旗を振りたてながら、その一方で、マッ
カーサー元帥の批判も、SCAP当局の批判も、巨大な占領軍全体の、占領政策全
般の、アメリカをはじめとする戦勝連合国の、戦犯裁判における判決はもとより検
察側の弁論の、買った側が実利的な理由から「ない」と決めた天皇の戦争責任の、
ありとあらゆることの、批判を徹底的に抑えこんでおきながら?(中略)

 この観点からみると、この「上からの革命」のひとつの遺産は、権力を受容する
という社会的態度を生きのびさせたことだったといえるだろう。すなわち、政治的
・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右す
ることなどできないのだという意識の強化である。征服者は、民主主義について立
派な建前をならべながら、そのかげで合意形成を躍起になって工作した。そして、
きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知
恵だとはっきり示した。それがあまりにもうまくいったために、アメリカ人が去り、
時がすぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な
態度とみなすようになったのである。》(第14章「新たなタブーを取り締まる──
検閲民主主義」,248-249頁)

《…二一世紀への戸口にある日本を理解するためには、日本という国家があいも変
わらず連続している面を探すよりも、一九二○年代後半に始まり、一九八九年に実
質的に終わったひとつの周期に注目するほうが有益である。数十年間のその年月は
短く、かつ暴力と変化に富んだ時期であったが、これを精密に観察すれば、戦後「
日本モデル」の特徴とされたものの大部分が、じつは日本とアメリカの交配型モデ
ル a hybrid Japanese-American model というべきものであったことがわかる。こ
のモデルは戦争中に原型がつくられ、敗戦と占領によって強化され、その後数十年
間維持された。そこに貫いていた特徴は、日本は脆弱であるという絶え間ない恐怖
感であり、最大の経済成長を遂げるためには国家の上層部による計画と保護が不可
欠だという考えが広く存在したことであった。この官僚制的資本主義は、勝者と敗
者がいかに日本の敗北を抱擁したかを理解したときはじめて、不可解なものではな
くなる。敗戦直後に流布したユーモラスな新語を借りて言えば、いわゆる日本モデ
ルとは、より適切には「スキャッパニーズ・モデル a SCAPanese model[総司令部
と日本人の合作によるモデル]」というべきものであった。》(エピローグ,418頁)

●350●加藤典洋『戦後的思考』(講談社:1999.11.25)

 語りえぬものについては沈黙しなければならないとしたら、語りえぬ死者の沈黙
に対して生者は何を語りうるのだろう。誰が死者を「代弁=代表」しうるのか。そ
れが「歴史主体」というものなのだろうか。──加藤氏は本書第四部「戦前と戦後
をつなぐもの」の注の中で次のように書いている。

《しかしここでの問題の起点は、わたし達が戦前と戦後の「つながり」を何らかの
意味で作りださなければ、他国の人間と了解可能な関係をもてないということであ
る。自国の戦争の死者との新しい「関係」を作りだせなければ、他国の死者の前に
「わたし達」が立つことにはならないではないかとわたしは考えている。(中略)
わたし達は戦前に侵略行為をした。その戦前とのつながりがなければ、わたし達は、
その「罪」を引き受けなくともよい。他国の死者への「謝罪」は、自国の死者との
「つながり」によって、そこから現れてくる。》(495頁)

 日本の戦前と戦後はつながらないことがその本質である。この「つながらなさ」
を、どのような自己欺瞞にも陥らず過不足なく説明できたその時、その説明は戦前
(戦争の死者)と戦後(わたし達)の「つながり」そのものであろう。この断絶、
この「つながらなさ」(「意味づけられないこと」)の川を最も深い瀬で渡ること。
つながらないものをつなぐ「歴史意識」を作りだすこと。加藤氏が言っているのは、
ただそれだけのことだ。

 それにしても加藤的思考は屈折している。「ねじれ」であれ「よごれ」であれ、
加藤氏の戦後論のキーワードはいずれも多義的で逆説的でにわかに掴みがたい。あ
るいは「私利私欲」。次のような説明を読んで、いったい誰が納得するだろうか。

《それ[公共的なもの──引用者]は、人の関係から作られるのではなく、人の関
係を作るのだが、その力の根源とは、愛だというのが、ドストエフスキーの答えに
ほかならない。彼は、愛は、その原因を人間の中にはもたないという。ラスコーリ
ニコフは理由もなくぼろきれのようにソーニャの足もとに投げ出される。しかし、
それをこういってもよいだろう。その最後の場所には一つの声[「死にたくない!
」という声──引用者]の出る場所がある。わたし達は、それがどこからくるかは
知らないが、少なくとも、それを聞く。それは生命の声である。人は公共性への回
路をその内部の根源にもっている。わたし達はそれを、ドストエフスキーにならい、
浅く受けとられてはならないという自戒をこめて、私利私欲と呼んでいるのである。
》(275頁)

 ──いまのところ私は、加藤氏の戦後論に対する態度を決定できない。強烈な魅
力と微妙な違和感の質をにわかに測定しがたい。加藤氏の言説がきわめて論争的で
ありながらも、どこかで「論」や「論理」を切断するところがある以上、私自身の
耳で、戦前と戦後の亀裂をうがつ「トカトントン」(太宰治)のかすかな響きを聞
き取ることからはじめなければならないと思う。

●351●加藤典洋『日本の無思想』(平凡社新書:1999)

 著者は『人間の条件』でのハンナ・アレントの議論に準拠しながら、戦後日本に
生まれた「タテマエ」と「ホンネ」(口にされない本心)の区別は、ヨーロッパ1
8世紀に起こった公私観の地殻変動につながるものだと指摘している。

 そして、無原則かつ融通無碍にタテマエ(公)とホンネ(私)が入れ替わる戦後
日本の「二重構造」のもとでは、アレントがいう意味での「活動」や「考えている
ことを口に出して言うこと」に誰も尊敬を払わなくなり、ひいてはそのことが政治
と思想の貧困化をもたらすこととなったと述べている。

 加藤氏によれば、アレントが提唱する「公的領域の復権」は、近代的な公私観や
戦後日本の「タテマエとホンネの論理」にうちかつ「対案」にはなりえない。とい
うのも、アレントの議論は、18世紀のヨーロッパにおいて「社会的なもの」(近
代的な意味での「公的領域」)の勃興を促し、それに対抗するものとしての「親密
なもの」(近代的な意味での「私的領域」)を生み出すこととなった第一原因を組
み込んでいないからである。

 それでは、その第一原因とは何か。加藤氏は、それは「欲望」であり「利己性」
であり、平たくいえば「私利私欲」の発動であったと述べ、この「私利私欲」に立
脚した公共性構築の可能性を福沢諭吉の議論に見ている。

 福沢諭吉は「痩我慢の説」で、江戸城の無血開城によって勤王勢力に降伏した勝
海舟を批判した。加藤氏は、福沢諭吉が勝海舟に対して最も許し難いと感じたのは、
勝の「皇国の大義の前で幕権強化は一家の私論にすぎず」という考え方だったので
はないかと指摘している。つまり、「幕権強化」という「公」が「皇国の大義」と
いうより高次の「公」の前では「私」にすぎないといった勝海舟の公私観を、福沢
諭吉は批判したのではないかというのである。

 福沢諭吉が「痩我慢の説」で主張していることは、「公」は「私」から作られる
のだということ、それも私利が集まって公益となるといった算術的な問題としてで
はなく、価値の後先の問題として提示しているのだ。――加藤氏はこのように指摘
した上で、いま本当に公的なものを更新するためには、「私利私欲」を否定したり
これに敵対するのではなく、「私利私欲」の上にこそ公共性を築いていかなければ
ならないと提案している。

《ルソーは、あの『社会契約論』の冒頭近くで、この人間の私利私欲を重要なもの
と見て、もし、これがなかったら、人間は無垢なよき存在だったかもしれないが、
複数の人間間に結合は生まれなかったろうと書いています。人間の中にこの私利私
欲という厄介なものがあるので、人は外に出てゆき、対立を生み、そうであればこ
そ、この対立を調停することなしに生きてゆけないというところまで追い込まれた
ところで、はじめて公共性の必要にぶつかる、というのがルソーの思い描いた人々
が社会を作らざるをえない、その普遍的な理由でした。ルソーはもう一歩進めて、
もしこの私利私欲という悪がなかったら、人間に結合ということが起こらなかった
ばかりか、善というものも生じなかったといってもよかったでしょう。善悪の観念
は、この人間の結合、人間の関係に基礎をおくからです。》

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