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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.111 (2002/05/03)
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 □ 清水徹『書物について』
 □ 鹿島茂『愛書狂』
 □ 鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』
 □ ヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』
 □ 鶴岡真弓訳『装飾文字の世界』
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昨年、評判をとった本のうち、是非とも読んでおきたいと思いながら読み切れなか
った二冊の本、『書物について』と『敗北を抱きしめて』をようやく読み終えたの
が黄金週間の直前で、その陶酔(『書物』)と感動(『敗北』)の勢いを借りて、
ついでに、これも何となく気になりながらこれまで読むきっかけがつかめなかった
『愛書狂』と『戦後的思考』を読み終えた時には、もう黄金週間も半ばを過ぎてい
て、明後日からは車を借りての小旅行に出て、あれこれ乱読してすっかり凝ってし
まった目と肩を休めるつもり。
 

●343●清水徹『書物について その形而下学と形而上学』(岩波書店:2001.7.25)

 死者を葬った場所、畏怖すべき、あるいは忌避すべき聖なる場所を示すために野
原に目印として置かれた石。これを書物の起源と考えてみたらどうだろう、と著者
は言う。すなわち、何らかの「支え」となるもののうえに記号が載せられていて(
書物を定義するための第一の条件)、時間が経過しても、それを眼にするとき、そ
の記号に託された意味作用がそこで再現されるような(第二の条件)、時間を征服
した物質的装置。書物とは、まず、そういう物体である。(この意味では、たとえ
ば壁面をモザイク画で埋めつくした大聖堂も、墓碑銘を刻まれた墓所も書物である。
あるいは図書館や劇場や世界もまた書物でありうるだろう。)そして記号が、一定
の差異の集合としてのコード体系への参照において意味作用をおこなうようになっ
たとき、つまり文字記号となったとき、さらに持ち運び可能となったとき(第三の
条件)、空間をも征服した言語装置としての書物が成立する。

 ここに示された書物の物質性(形而下学)と象徴性(形而上学)を交錯させなが
ら、著者はその流麗な、薫りたつ文体でもって、古代オリエントの音声言語からギ
リシャを経てアレクサンドリア図書館へ、聖書へ、『神曲』から中世彩飾写本へ、
そしてイエナ・ロマン派から最後のロマン主義者マラルメへと至る西欧の「文学的
近代」の百年の叙述、マラルメの三人の弟子をめぐる現代の物語へと、細部を愛お
しみつつ悠揚と筆を進める。まことに絢爛な書物である。私はしばしば陶酔し、愉
悦のうちに時を忘れた。

 とりわけ印象的だったのは、書物の領界における冊子体(コデックス)革命、グ
ーテンベルク革命に次ぐ第三の電子革命を迎え、改めて書物の物質性に思いを馳せ
ながら、リーヴル・ダルチスト(Livre d'artiste:Artist's book)が恢復させる
書物の質感や、それがもたらす「物質的想像界」の差異の感覚──「ある作品を上
質の紙のページのうえで、みごとに割付られた鮮明な活字印刷で読むことと、粗悪
な紙質のうえのぼけた印刷で読むことと、文庫版の小さな活字で読むことは、断じ
て同じではない」(348頁)──に言及し、アルトーが自分のデッサンについて自
覚的に用い、デリダによって注目された「基底材 subjectile」という語(その綴り
は、「主題 sujet」や「噴射 jet」を内蔵し、「放射体 projectile」を示唆する)
が、書物における物質的支え(紙)を指示するためにもっともふさわしい──「電
子時代となっても、スクリーン上の読書と紙の書物による読書とは棲みわけのかた
ちで共存するだろう。だがさらに、紙による書物もまた、ただ文字を載せているだ
けで物質性をあまり感じさせない多くの書物のほかに、紙がまぎれもなく「基底材
」として機能して書物が多面的な意味作用を放射する装置となることによって、書
物というもののありようを改めてつよく主張する、──たとえば《リーヴル・ダル
チスト》を重要な参考例として、そういう書物もまたつくられていかなければなら
ない」(350-351頁)──と述べた後に記された、「わたしたちは書物というもの
の可能性をまだ充分に開発してはいない」(351頁)、「《電子的書物》は《基底
材》をもたない」(352頁)という断言である。

《かつては世界のはじまりからキリスト紀元十五世紀の末まで建築は人類のもつ偉
大な書物であったが、《グーテンベルク革命》による活字印刷の書物がそれにとっ
てかわった、とヴィクトル・ユゴーは言った。しかもなお、じつは書物は、そのコ
デックス形式のもつ閉ざされた全体性ゆえに、そしてまた著作家たちがこの書物に
寄せる熱い想いゆえに、ひとつの構築でありつづけた。プルーストは長々と書きつ
づけられた作品の末尾で、そういう自分の作品を「大聖堂」になぞらえた。ユゴー
の「これがあれを滅ぼすだろう」という予言のまぎれもない真実性を認めたうえで、
しかいあいかわらず書物はひとびとの想像界では《石》であった。書物は、整然と
ページを重ねられた直方体として、手にもち、その重さを感じ、親指と人差し指と
でページを繰り、繰り返して何ごとか知と感動とをもたらす物体として、わたした
ちにいわば情緒的安心感をあててきた。そういう書物が死からの遠ざかりであるこ
とも、すでに語った。

 それにくらべると、スクリーン上の読書の流動性は、《水》のそれである。《電
子革命》とともに書物はわたしたちの想像界において「石」から「水」へという変
貌を示しているかのようだ。実際、地球をとりまいてたえず無数の情報が「流れ」、
そういう情報の「海」のなかを「泳ぎ」ながらめざすものへと辿りつき、あるいは
スクリーン上の多くの記事を「滑りゆき」──そんな言葉がスクリーン上の読書に
ついてたえず語られている。重さをもってせまってくるものから、重さからの離脱
としての軽さへ、いかつさから柔軟さへ、ざらざらしたものから滑らかなものへ、
──電子的エクリチュールはそんな変貌を感じさせる。しかし、いまの多くの著作
家たちはパソコンを使って書いていても、そのテクストを伝統的な書物の形態で出
版する場合がほとんどであり、そこでは流動性、軽快性、柔軟性という想像界は消
える。いやもしかしたら、《電子革命》以後の書物は、その側面のどこかで、流動、
軽快、柔軟という電子的エクリチュールの作用を、いわば半透明で可動的隔壁の向
こうに位置させているのかもしれない。《究極の書物》と『賽の一振り』における
マラルメの冒険以後、書物は、みずから意識するとしないとにかかわらず、全体性
と散乱とを両極とする亀裂を内部にかかえているのだから。》(352-353頁)

●344●鹿島茂『愛書狂』(角川春樹事務所:1998.3.8)

 前著『子供より古書が大事と思いたい』から二年、自称B級コレクターの鹿島氏
が自身の「マイ・コレクション王国」から二十五冊の十九世紀ロマンチック挿絵本
を選んで、生前の遺書ならぬ「競売カタログ」を製作した。このての書物について
は、何か気の利いた寸評をくわえようなどとは思わず、ただただ眺め、呆れかつ賛
嘆すればよい。

 たとえば、著者贔屓の挿絵画家グランヴィルの『もうひとつの世界』(ボードレ
ールにとってさえ不可解・不愉快と感じられ、唯一ルイス・キャロルに強い影響を
与えただけで、二十世紀にシュルレアリストに評価されるまで八十年間、古書コレ
クターの本棚で眠っていた)について、著者は「これはもはや「挿絵」とか「イラ
ストレーション」という言葉を使うべきではない。むしろ、グランヴィルの画集に
「挿文」がなされたというべきだろう」と書き、グランヴィルの次に好きな似顔絵
画家時代のナダールの『現代の顔』について次のように書いている。ただただそう
いうものかと納得するしかない。

《ナダールは、かならずしも絵のうまいイラストレーターとはいえないが、ことカ
リカチュアに関しては、独特のスタイルを持つ画家で、一見見ただけでナダールの
ものと見分けがつく。とりわけ、誇張されて大きく描かれている顔は、その人物の
もっとも特徴的なプロフィールを瞬間的にとらえていて、ナダールが、肖像写真家
となる前から写真家であったことを物語っている。ナダールにとって、写真とは、
カリカチュリストとして彼が心の中で捉えていた有名人たちの表情を、印画紙の上
に「物質的に」定着して確認する手段にすぎず、写真の中の彼らは、ナダールの「
解釈」を経て、そこにいるのである。》

 ──マイ・フェイバリット・グッズを語るには、藝が要る。

●345●鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社)

 ベンヤミンの『パサージュ論』に「夢の街と夢の家、未来の空間、人間学的ニヒ
リズム、ユング」という項目名でまとめられた資料集・覚書(訳書第3巻に収録)
があって、そのエピグラムの一つにカール・グツコウ『パリからの手紙』の次の一
文が取り上げられている。──「私の父親はパリに行ったことがある。」

 私はこういった類の断片をこよなく愛し、それがいったいどうしてなのかは判然
としないながらも、いたく想像力を刺激される種類の人間なのだが、鹿島氏の本書
を読んでいて、ああたぶんそういうことなんだろうなと得心のいく解釈を見つけた
ので、ここに書き写しておく。

《この引用のサンタグマティックな、あるいは意味論的機能はゼロに等しい。なに
か機能しているものがあるとすれば、それは、そういうタイトルの本があった場合
に、パリ関係の古本マニアが食指を動かすかもしれないという程度の極めて弱い意
味論的機能でしかない。》

 鹿島氏がここで目論んでいるのは、「『パサージュ論』は偉大なる書物蒐集家が
残した特殊な形態のブック・コレクションの売り立て目録[オークション・カタロ
グ]である」という仮説の検証である。

 鹿島氏は、『都市の肖像』に収められた小文「蔵書の荷解きをする」の一節──
《書物を手に入れるあらゆる方法のうち一番賞賛に値すると目されているのは、自
分の手で書くことです。(略)元来著作家というのは、貧しさからではなく本にた
いする不満から本を書く人々なのです。》──を踏まえながら、いま引用した文章
に続けて次のように書いている。

《では、それならばなんのために、ベンヤミンがこの引用を行ったかといえば、そ
れは彼が、古本コレクションの一冊として集めたいと願いながら現実には存在しな
いためにいっそ「自分の手で書こう」と決心した「夢の街と夢の家」というタイト
ルの本を、この引用が部分的ながら実現しているからである。つまり、グツコウの
この引用は、「夢の街と夢の家」という幻の古本の一章あるいは一節にほかならず、
ベンヤミンは、こうした断片を拾い集めて、かくあらまほしと願っていた幻の「古
本」に仕立てあげているのである。ベンヤミンこそは、「本にたいする不満から本
を書く人々」の一人なのである。》

 本書は、「本の本」あるいは「夢の本」ともいうべき『パサージュ論』のめくる
めく世界への格好の導きの書だ。

●346●ヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』(飯吉光夫訳,晶文社:1992.3.25)

 麻薬を吸飲したベンヤミンの記録。《装飾をつくりだしている一般に最も接近困
難な、隠れた表面の世界に麻薬によって不意に入っていくという意識ほど、麻薬の
正当性を後あとまで保証するものはない。》(77頁)

《第一に、真のアウラはあらゆる事物に現われる。みんなが思うように、特定の事
物にだけ現われるのではない。第二に、アウラは事物がとるあらゆる運動──それ
がアウラなのだが──につれて根本的に変わる。第三に、真のアウラは決して、通
俗的神秘主義の書物が図解したり描写したりしているような、通り一遍の心霊的光
の魔術ではない。むしろどぎついもの、その中にこそアウラがある。装飾的なもの、
事物やその本質が裏地に縫い込められているようにしっかりと入り込んだ装飾模様
──そこにこそアウラがある。》(143頁)

 また、観察者によって記録されたベンヤミンの言葉。《装飾模様は霊たちのやど
り場。》(162頁)

●347●鶴岡真弓訳『装飾文字の世界』(三省堂)

 まず、訳者あとがきに寄せられた鶴岡真弓氏の小文をご覧いただきたい。

《ヨーロッパの書物の芸術、すなわち装飾写本の芸術は、本来的にキリスト教とい
う普遍宗教の「神」の奇蹟の「ことば」を、本という物質、羊皮紙の頁という物理
的な地平に顕現させ、その声=霊を「文字」という肉体に変容[インカーネート]
させた芸術[アート]だった。もし私たちが、キリスト教文化圏で生きたヨーロッ
パの人々がもったこの「文字」にたいする信仰と理屈に無頓着であるならば、なぜ
彼らがその生命をかけて(一生を文字の装飾に捧げた修道士は多い)、「文字を飾
った」のか、「装飾する[イリュミネイト]」という動詞/行為の語源(光を入れ
る)が何なのかについて、そもそも理解することはできない。
 ひとことで言えば、「ことば」が「文字」というかたちとなって私たちの前に現
われるということに驚嘆する心をもつことは、「ことば」の力を信ずることであり、
その「ことば」の持ち主・神という超越的な存在の現われとしての「文字」という
(視覚表現上の)形式[フォーム]の力を信じることであった。…「文字の装飾」
とは、人間と超越者の間に横たわる溝への深い自覚と、彼岸/天上への憧れとのエ
ッジで生まれた、美術の一種の奇蹟である。》

 美しい文章だ。すべてが簡潔に、しかも豊かに表現されていて、何も付け加える
べきではない。ただ、ここで使われている超越者や神という語彙が、カリグラフィ
ーとは(「意識」の表現媒体でなはく)「霊性」とでもいうべきものの表現媒体な
のではないかと思わせること、そうであるにもかかわらず私の直観は、カリグラフ
ィーの表現は「人間と超越者の間に横たわる溝への深い自覚と、彼岸/天上への憧
れとのエッジで生まれた」ものであるがゆえに、霊性とは異なったものの方へ向か
っているのだと告げることを述べておく。(この直観を論証するためには、カリグ
ラフィーと、抽象と具象のあわいに意味がかたちとなって立ち上がる瞬間をとらえ
ようとする中国や日本の「書」との類似や差異についても考察しなければならない
だろう。)

 ところで、吉村正和氏は、ジョスリン・ゴドウィン『図説古代密儀宗教』(吉村
正和訳、平凡社)の訳者付論の中で、エレウシス密儀やオルペウス密儀の特性を示
す語彙として「霊的照明」(イリュミネイション)を使っている。鶴岡氏の文章に
も「装飾する[イリュミネイト]」が出てきたし、その語源が「光を入れる」であ
ることが注記されていた。これらを手がかりとして、私の直観はギリシア的霊性の
始元(ただし、ヘーゲル流の精神の歴史の上での始元)へと向かう。それはゾロア
スター教だ。

 ――とまあ、私の妄想は勝手に膨らんでいくわけなのだが、それはそれとして、
とにかく一度、本書を眺めてみてほしい。

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