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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.110 (2002/04/27)
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 □ 津田一郎『ダイナミックな脳』
 □ 津田一郎『複雑系脳理論』
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●341●津田一郎『ダイナミックな脳──カオス的解釈』
              (双書 科学/技術のゆくえ,岩波書店:2002.3.25)
●342●津田一郎『複雑系脳理論 「動的脳観」による脳の理解』
     (臨時別冊・数理科学SGCライブラリ13,サイエンス社:2002.2.10)

 『ダイナミックな脳』は一級カオス鑑定士にして脳のカオス的解釈学の提唱者「
木偶の坊博士」と二人(二匹?)のデーモンTとOによる津田版『新科学対話』。

(デーモンには本来名前がない。デカルトのデーモンであれラプラスのデーモンで
あれマクウェルのデーモンであれデーモンはデーモンであって、それはアトムやモ
ナドと同様のことだ。そもそもカオスと対になるデーモンといえばラプラスのそれ、
つまり完全情報を持ちすべての個人的経験を時間順序に従って正確に記憶し共有し
あうデーモンのことではないか。なぜ二人なのか、なぜTとOなのか。超越者と観
察者の略称なのだろうか。本書に仕組まれたこの謎は私には解けない。)

 著者によると『ダイナミックな脳』と『複雑系脳理論』は対をなすもので、デカ
ルトの『省察』に対する『方法序説』に相当するが『複雑系脳理論』に対する『ダ
イナミックな脳』なのだそうだ。(デカルトの方法が旅にあったのだとすれば、津
田氏の方法はデーモンとの対話による「カオス的遍歴」である?)

 私には木偶の坊博士とデーモンたちによって縦横に論じられた事項に即してあれ
これ述べる力量はない。ましてや『カオス的脳観』(1990年)の改訂版として、そ
して大学院過程のテキスト・参考書として著された『複雑系脳理論』で展開された
省察の内容を咀嚼し評価することなどできない。

 でも、振り返ってみると途方もない起爆力を孕んだアイデアがそこに鏤められて
いたことが判明する、といった事態が津田氏の著書には生じているのではないかと
思う。《私たちは脳と心を記述する第三の言語を望んでいるのだ。》(74頁)──
「カオス言語」(クオリア付き言語?)へと向かう津田氏の「導き」(=インテン
ショナリティ:28頁)はニューラルネットに潜むデーモンの影を垣間見せてくれる。

 そういうわけなので、ここでは『ダイナミックな脳』から私が汲み取れたかぎり
での津田氏の「方法」をめぐる二、三の事柄を祖述(ならぬ粗述)しておこう。

【二重の解釈学的循環】

 脳が解釈的であるからといって脳を研究する方法が解釈的であらねばならないと
いうことは論理的には言えない、と迫るデーモンに対して木偶の坊博士は次のよう
に応じる。

 脳の情報表現は多くの場合脳全体として意味を持っているのであってニューロン
は必ずしも情報単位(機能を表現する媒体)ではない、意志や志向性、意識や無意
識、信念や判断といった全体的な機能に応じて何が情報単位になるかは変わってい
く、そしてニューロンやニューロン集団の活動において同じことは二度と起こらな
いかもしれないがそれでもなお表現においてはある種の同一性が保たれることは理
論的にはあり得ることだ、それはちょうど水の流れをある時点で観察すればどの時
点をとってみても二度と同じ分子は現れないがある時点の水の流れと別の時点の水
の流れをわれわれは同一だと感じる、それと同じことだ(36-37頁)。

 行為や判断といった全体的な機能を実現するために何が単位になるか、単位が何
を表現するかに関して誰もあらかじめ知ることができない、つまり脳に関する知識
がいくら増えてもわれわれの理解したいことに関して先行的理解は不要にならない
のであって、これは脳が常に変化しているダイナミックなシステムであることから
くる必然なのだ(48-49頁)。

 かつて『カオス的脳観』で脳の解釈学を先行的理解の連続変化と収束による理解
への到達という図式で説明したが、先行的理解はある時突然、不連続に変化するし
それは収束する必然性を持たない、だから『カオス的脳観』の中の解釈学的循環の
部分は誤りであった。脳がダイナミックに変化して脳研究が解釈学的になるという
観点を補強する事実が最近みつかっている、すなわち成長した脳でもニューロンの
再生がおこるというアダルト・ニューロジェネシスの発見だ(50頁)。

 ニューロン再生の事実は、脳のニューラルネットが実にダイナミックに、時に大
規模に再組織化されることでニューロンによる情報表現の多様性がおこるという仮
説を支持しているのだ。(中略)何が情報単位になるかはあらかじめ決まっていな
い、と考える方が妥当なのだ。そういった一筋縄ではいかないものを脳科学者は相
手にしているのだ(52頁)。

《つまりだ、私が言いたいのは、相互作用する相手との関係の中でなければそのも
のの性質、表現、行為は決まらないということなのだ。その関係の構築の裏打ちを
していると思われるものがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。そ
の関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏
[『内在物理学』]、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、インター
フェイスにおいてのもわれわれはリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、ア
クチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中で何かをし
なければならないもの全てが出会う必然だ。
 脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立
場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえ
ないのだよ。》(54-55頁)

 ──ここに出てくる「内在的な立場」という言葉はハイデガーの「世界内存在」
やその発想に影響を与えたユクスキュルの「環境世界」を連想させるのだが、ここ
では次の二点を指摘するだけで止める。

 その一。パースの言葉。《ところで、われわれが何かを理解しようと試みるとき
──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわ
れが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っていると
いう想定が前提されている。少なくともわれわれは、そのようになっていてほしい
という希望をもっている。》(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』,岩波文庫,254頁)

 その二。ベンヤミンによる「ロマン主義の対象認識理論の根本命題」。《すなわ
ち、ある存在[本質]が他の存在[本質]によって認識されることは、認識される
ものの自己認識、認識する者の自己認識、および、認識する者がその認識対象であ
る存在[本質]によって認識されることと、同時に起こる[一致する、同じもので
ある]。》(浅井健二郎訳『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』,ちく
ま学芸文庫,112頁)

 余談。ヴィンフリート・メニングハウスは『無限の二重化──ロマン主義・ベン
ヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』(法政大学出版局)で、ノヴァーリ
スやシュレーゲルの「学説」とルーマンのシステム理論とを比較している。

【理論‐実験‐工学的構成と脳の物語】

 木偶の坊博士は自然科学の対象の中には理論と実験の組みだけでは理解できない
領域が存在する、このような領域を理解するには、たとえば脳を理解するためにロ
ボットを構成するなど、「理論、実験、工学的構成」の三つ組みが必要だと述べて
いる(32頁)。このことを詳しく述べた文章を津田氏の旧著から引用しておく。

《…著者は工学的応用は脳研究にとっても重要だということを言いたい。まず,解
釈学的立場に立てば,脳のモデルはそれがいかに生物学的基盤をもとうとも脳のメ
タファーである,ということを強調しておこう。その意味では局所的な脳機能をシ
ミュレートする工学機械も脳のメタファーモデルとして同一に扱うべきである。

 さらに,脳の解釈学を進めていく過程で得られる‘もっともらしい’物語をより
もっともらしくしていく実験事実の一つとして,このような工学的知能機械を考え
ることもできる。‘実際になんらかの働きをするもの’を作ってみせることは,実
験や内省と同じ程度に‘脳がしていること’に対して多くのヒントを与えてくれる。
工学的応用は,このように脳の物語に対するシナリオを書く際の一つの事実関係の
はっきりした材料として使われるとき,大変有効になるであろう。

 さらに,‘もっともらしい’物語やそのシナリオ自体は実験的検証を受けること
ができない,という点を指摘することは重要である。実験科学は物語やシナリオを
検証する方法を与えてはいない。実験科学が与えているのは,シナリオを構成する
個別事象の検証方法である。工学的応用を考えることは,たとえ作られた工学機械
が限られた狭い範囲でしか働かないにしても,物語とそのシナリオの検証に役立て
ることができるという点で重要になるのである。もちろん,検証そのものはならな
いのだが,それに役立てることはできる。自然科学とは違って工学だけがデザイン
という概念をもっているのである。著者は現在の人工知能およびその研究方法を批
判してきたが,人工知能研究が画期的であったのは,人の認知活動を理解するため
の‘もっともらしい’物語のシナリオ作りに,それが結果ではなく,態度によって
貢献してきたからにほかならない。物語やシナリオ自体に直接なんらかの批判を加
えられる立場にあるのがデザインの概念をもつ工学であると思うのである。このよ
うに,脳の解釈学を押し進めていくと,従来の実験科学の方法論だけでは不十分で
あり,工学を射程にいれなければならないことが理解されるであろう。》(『カオ
ス的脳観念』,サイエンス社,199-201頁)

 余談。『大航海』(No.42)に斎藤環氏と東浩紀氏の対談「工学化する社会/動
物化する人間」が掲載されていて、君のいう「工学」を定義せよと斎藤に迫られた
東が「工学は定義がない学だと思う。…工学部の誕生は産業革命と結びついている。
…Aという入力があるとBと出力される。その記号のセリーだけで世界の様態を捉
え、操作する。そんなところに神や理念はいらない」と応じている。「操作といわ
れると分かるね。でも、いまの文脈で言うなら精神分析も「精神分析学」ではない。
否定神学だから、神もいらない。(笑)治ればいいと考えているから、ツボ治療で
も催眠でも取り込んでいく。まさに工学的な操作ですね」と斎藤。

【リアリティとアクチュアリティとヴァーチャリティ】

 これは津田氏の「方法」とは直接関係がない話題(強いて言えば「モデルのリア
リティ」をめぐる議論に関係がありそうなのだが、このあたりのことは今後の宿題
)。──『ダイナミックな脳』には再々にわたって木村敏由来の「リアリティ」(
客観的に理解されうる感覚の一種)と「アクチュアリティ」(行為、行動に関係し
た感覚に基づく個人的経験)の区別が出てくる。《これを借りれば、脳は新しいア
クチュアリティを不断に創造していると言ってもよい。》(23頁)

 私は津田氏が参考文献に掲げる木村氏の『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研
究所,1998年)を読んでいないので詳しいことは分からないのだけれど、中村雄二
郎・木村敏共同監修の『講座生命』の第五巻(河合文化教育研究所,2001年)に掲
載されていた斎藤慶典氏の「「アクチュアリティ」の/と場所──中村・木村対談
に寄せて」がとても面白かった。

 斎藤氏の要約によるとラテン語の res[事物・対象]に由来するリアリティは「
現象するもの(ノエマ)」に、actio[行為・作用]に由来するアクチュアリティ
は現象させる「作用(ノエシス)」にかかわり、通常コインの裏表のようにぴった
りと重なり合って私たちの世界の現実感を構成している。そして何らかの事情でこ
れらが解離しリアリティの枠組みだけが残ってアクチュアリティが脱落してしまっ
た事態が離人症の中核をなす。つまり木村氏はこの現実の「現実感」(ありありと
した感じ)の座をアクチュアリティに求めているわけだが、斎藤氏はそこに違和感
を覚える。

 というのも「私には〜と思われる」(デカルト『省察』第二)という「現象」の
基本型式は「現象する」という事態が「現象する何ものか」と「現象がそれに対し
て現象するところのもの」(フッサールはこれを「私」=「行為主体」と等置する
)の二項を不可欠の契機として含んでいる。ここで注意しなければならないのは「
現象がそれに対して現象するところのもの」(私)と「現象するものを現象するも
のとして構成するはたらき」(ノエシス)が同じものなのかどうか、すなわち「は
たしてノエシスは私の作用(はたらき)なのか」ということだ。木村氏の議論は「
私」にかかわる問題と「ノエシス」にかかわる問題の混在させているのではないか。
これが斎藤氏の違和感の淵源である。

《念のために付け加えれば、この両者は私たちの現実においては確かにある地点で
交差するのだが、にもかかわらずそのことは両者をただちに等置してよいことを意
味しないし、むしろ各々の異なる由来に眼を凝らすことのみが両者が交差する地点
で何が起こっているのかをはじめて明らかにしてくれると言いたいのである。》(
68頁)

 斎藤氏はここで「私」(作用の遂行者)の構成にかかわる問題(アクチュアリテ
ィの問題)と「ノエシス」(作用)そのものにかかわる問題とを区分する。以下荒
々しく端折ってしまうと、前者の問題に関して斎藤氏はメルロ=ポンティや中村雄
二郎の「制度化」の問題を、後者の問題に関して「場所」(ヴィルチュアリテとい
う場所)の問題を持ち出している。

 まず前者の「私」をめぐる問題について。現象するものに「ありありとした」感
じをもちうるか否かは現象を構成する制度の中でどれだけ自由にその制度を使いこ
なせるか、どれだけ実践(プラクシス)の能力が身についているかにかかっている。
木村氏の論点とはリアリティはアクチュアリティに基づけられていること、「もの
」のリアリティは行為遂行者の「行為的関与の遂行感」に基づくことにほかならな
い。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の要諦を語る言葉(「言語の意味とは、
言語におけるその使用である」:『哲学探究』43)をもじるならば、「もの」の「
現実感」とは「もの」におけるその「遂行」にほかならないのである。

 これに対して後者の「ノエシスそのものの問題」においては現象することの内部
に位置する「感じ」を云々する余地はない。木村氏は「自己クオリティ」(クオリ
ア)という概念を提起してこの問題を考えようとしているが、問題のこの次元(ノ
エシスそのもの、現象の現象すること「そのこと」を問う次元)においてクオリア
の成り立つ余地はないと斎藤氏は言う。

《…感ずること(現象すること)それ自体の自己受容は……いかなる意味でも感じ
ないことの対比の中で、すなわち世界がいかなる意味でも「現象しないこと」との
対比の中でかろうじて思考されうる、と言わねばならない。そして、世界がいかな
る意味でも現象しないことを私たちは経験したことはないのだから……それにいか
なる感情をも付与することはできず、そうであれば、それと鋭い対比をなすはずの
「現象すること」そのこと──すなわちその自己受容──にもいかなる意味でも感
情の生ずる余地はないのである。》(78-79頁)

 斎藤氏は「いかなる意味でも感情をともないえない「感じられること(se sentir
)」とはいったい何か」と問い、それはハイデガーの「根本感情」や「根本情態性」
にあるいはなぞらえることができるかもしれないが、いくらハイデガーがそれを特
定の感情ではないと断っても「不安」や「驚き」や「退屈」などと名指してしまっ
たとたん私たちはそれを特定の感情として以外に理解するすべをもたず、まして現
存在(という名の「私」)の根本感情などとされてしまうとそれは完全に「私」の
もとに回収されてしまうしかないと言う。

《いずれにしても、世界のすべてを現象へともたらすこのはたらきが受容されるこ
とがもしあるとすれば、それは、それ自体としてはまったく何の実質ももたない(
この意味で「空」であると言ってもよい)このはたらきが、世界の「無」(何も現
象しないこと)との鋭い対比の中で浮かび上がったその瞬間を措いてほかにはあり
えないように思われる。そのときすべてが現象するのである(「無」との対比で言
えば、そのときすべてが「存在」するのである)。すなわちそれは、現象すること
(存在すること)の受容であり、現象すること(存在すること)を被ること(passion
あるいは leiden、だがそれは「感情」ではないのだ)であり、かくして現象する
こと(存在すること)の贈与なのである。私が「場所」の名のもとに考えてみたい
ことは、このようにして世界が──すなわちすべてが──現象(あるいは存在)へ
と与えられること、〈現象(存在)の贈与〉としての〈現象(存在)を被ること〉、
すなわち、世界が〈そこにおいてすべてが現象する場所〉として開かれることにほ
かならない。(略)

 先に私は現象を贈与するこの「はたらき」を、「それ自体としては何の実質もも
たない」と述べ、それをかりに「空」とも形容した。この「空」は、それが「無」
と鋭い対比をなすかぎりで、何もないことすなわち空虚の謂いではない。むしろ、
それこそがすべてを現象へともたらすという意味で、それはある種の充満、充実な
のである。作用の自己受容をめぐる思考をあらためてこうした「はたらき」そのも
のへと向かわしめるためには、いまやアクチュアリティではなく、むしろ本来それ
と対をなす反対概念であるヴァーチャリティを思考の圏内に導き入れることが必要
であるように思われる。ヴァーチャリティすなわちヴィルチュアリテ(virtualite'
)とは、顕在性(actualite')へと向かう方向性(傾向)を有していながらそれ自
体は決して顕在化しないもの、だからそれなくしてはいかなる顕在性もありえない
であろうところのもの、この意味での「潜在性(潜勢態)」のことである。それは、
絶えず顕在化しようとするある種の効力(virtu)、すなわち力(vis)をその本質
としている。先に「ある種の充満」「充実」と述べたゆえんである。》(79-81頁)

 長々と引用してしまった。ほんとうはここからが面白くなるのだが以下駆け足で
要約すると、斎藤氏はここに出てきたヴィルチュアリテ(「空」)の概念を「生命
」との密接な関連の下で語ったベルクソン=ドゥルーズ流の使用法から「およそ存
在しうるかぎりでのすべてのものの生成」をめぐる問題次元へと拡張し、量子力学
が導入した「実在」についての新たな考えをも視野に入れる。

 すなわち論理的な意味における「可能性」とは異なりアリストテレス哲学におけ
る「デュナミス」や「ポテンティア」にもつながる「趨勢・力」のごときもの、確
率のように数学的にしか表現できないもの、もはや「もの」と「力」の区別ができ
ない次元での「実在」──「可能的なものから現実的なものへの移行において生ず
る」「非連続」(ハイゼンベルク)に基づいて、つまり「観測」(何ものかを見る
こと=何ものかが現象すること)という「亀裂」を通じて「図」として浮かび上が
ったアクチュアリティの背後に「地」として退くという仕方で私たちの前に姿を現
す状態関数(いくつかの潜在状態が重なり合うシュレーディンガーの波動関数)と
してのヴィルチュアリテ(86頁)──へとヴィルチュアリテの概念を拡張し、プラ
トンの「コーラ」やアナクシマンドロスの「ト・アペイロン」(無限定なもの)に
まで遡るのである。

《もし私たちの現実においてこれ以上遡ることのできない、この意味で「根源的な
」事態があるとすれば…それはこの「亀裂」の生起を措いてほかにはないのではな
いか。そしてこの亀裂を身を以って生きることですべてを現象へと──すなわち「
現実」へと──もたらすものこそ、「現象がそれに対して現象するもの」であるか
ぎりでの「私」なのである。この私の下で、アクチュアリティとヴィルチュアリテ
が交差するのである。「現象すること」の不可欠の媒体としての私である。そして
そこに、「場所」が開かれるのである。》(86頁)

 ──実に面白い。まずリアリティとアクチュアリティをめぐる議論は先に引用し
たパースやベンヤミンの議論を想起させる。(ついでにデカルトの『省察』と『方
法序説』の関係まで示唆してくれる。──デーモンとの格闘=懐疑の果てに出てく
る「省察」=「私には〜と思われる」。「方法」としてのデカルトの旅と『ダイナ
ミックな脳』における「カオス的遍歴」=不連性をもった解釈学的循環。)そして
「はたらき」と工学的構成。アクチュアリティを創り出す器官(脳という複雑シス
テム)における「観測」とヴィルチュアリテ。このように斎藤氏の議論は津田氏の
議論に重ね合わさっていく。

 長くなりついでに付記しておくと、私はヴィルチュアリテからアクチュアリティ
への変換が「倫理」もしくは「…がある」に、可能性からリアリティへの変換が「
論理」もしくは「…である」に関係するのではないかと考えている。(ここに出て
くる倫理や論理は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をめぐる細川亮一氏
の議論を踏まえている。)──それでは斎藤氏がいう「無」をどのように位置づけ
ればいいのか。思案中の解をガタリの『分裂分析的地図作成法』を念頭において図
示しておく(「空=ヴィルチュアリテ」「実=アクチュアリティ」「虚=論理的可
能性・イマジナリーなもの」「現=リアリティ」)。

          ┌──――─┬─――──┐
          │実(知覚)│空(想起)│
    ┌─――──┼――───┼─――──┤
    │  虚  │  妄  │  無  │
    ├――───┼──――─┼─――──┤
    │  現  │  色  │  夢  │
    └──――─┴─――──┴───―─┘

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