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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.109 (2002/04/27)
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 □ ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』
 □ 佐倉統『進化論という考えかた』
 □ 坂本百大・監修『3日でわかる哲学』
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科学と文学、科学と思想。ふだん何気なく使ってしまうこの二分法の起点を探索せ
よ。──たとえば十九世紀転換期の初期ロマン主義(ノヴァーリスやシュレーゲル
など)と化学革命。二十世紀転換期の思想家(マッハやニーチェなど)と進化論や
物理学革命。そして工学革命(遺伝子工学や電子工学など)が進行する二十一世紀
転換期は?
 

●338●ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』
               (浅井健二郎訳,ちくま学芸文庫:2001.10.10)

 パサージュ論を除くベンヤミンの主要な文章のほとんがハンディな文庫本で、そ
れも周到に練られた新訳と詳細かつ懇切で示唆に富んだ訳注・解説つきで読める。
いい時代になった。ちくま学芸文庫版のベンヤミンは、安易な一気読みを許さない
粘度と濃度と深度を備えた奥深い闇を湛えている。(訳注と原注と解説が相互に参
照され引用され言及され本文と対位法をなす叙述の迷宮的な構成。しかも原文その
ものがこれと同様に構成されている。訳本は原本の叙述形式を反復しているのだ。
運動としての本を読むこと。このベンヤミン的な書物!)

 ベンヤミンの博士論文はたぶん二百年以上の長きにわたって政治と表現を含む西
欧精神史の基底をなしたに違いない初期ロマン主義の実質を余すところなく叙述し
きっている。私にはとりわけノヴァーリスの神秘的術語群(累乗、ロマン化、律動、
無限、自己浸透、観察=実験=翻訳、等々)に拮抗する数々のベンヤミン語(叙述
=析出、ロマン主義的メシアニズム、反省媒質、質料的浸透、反省の胚細胞、秘儀、
等々)の光彩が眩しかった。

 その構成は実にシンプルだ。第一部「反省」の末尾で示される「ロマン主義の対
象認識理論の根本命題」──《すなわち、ある存在[本質[ヴェーゼン]]が他の
存在[本質]によって認識されることは、認識されるもの(das Erkenntwerdende)
の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がそ
の認識対象である存在[本質]によって認識されることと、同時に起こる(zusamme
nfallen[一致する、同じものである])。》(112頁)──が、第二部「芸術批評」
での「批評が芸術作品の認識であるという限りにおいて、批評は芸術作品の自己認
識である」(133頁)とか「批評による作品の破壊」(177頁)といったベンヤミン
特有のモティーフへと反復されていく。

 浅井氏が「解説」で書いているように、認識者(=ベンヤミンの思惟ないし批評
理論)がその認識対象(=初期ロマン主義の思惟ないし芸術理論)によって認識さ
れることの「ひとつの姿を、われわれは目撃しているのである」(453頁)。そし
て読者(=認識者)もまた書物(=認識対象)によって認識されている。

《ある対象を認識するときの、そのあらゆる認識と同時に、この対象そのものが本
来的に生成するのだ。というのも認識とは、対象認識の根本命題によれば、認識さ
れるべきものをはじめて、それがAとして認識されるところのそのAにする過程だ
からである。それゆえノヴァーリスはこう述べる。「観察過程は、主観的であると
同時に客観的な過程であり、観念的[イデアール]であると同時に実在的[レアー
ル]な実験である。観察過程がまったく完全であるならば、命題と所産は同時に成
らねばならない。観察される対象がすでにひとつの命題であり、[観察]過程がど
こまでも思考のなかにあるという場合には、その[観察の]結果は……同一の命題、
ただし、より高次の段階における同一の命題であるだろう」。ここに引いた断章の
最後の一文とともに、ノヴァーリスは、自然観察の理論を越えて、精神的な形成物
の観察の理論へと移行する。ここで彼が考えている「命題」とは、芸術作品でもあ
りうるのだ。》(120頁)

《批評は、実験と同じように、理由づけ[動機づけ]を必要としない。批評は、実
際また、芸術作品のなす反省を展開することによって、芸術作品を対象とする実験
を行なうのである。(中略)批評とは、作品それぞれのうちにあるプローザ的核心
の、その叙述[析出[ダールシュテルング]なのである。その際、〈叙述〉(Darst
ellung[析出])という観念は、化学にいう意味[つまり、「析出」という意味]で、
すなわち、他の諸過程を支配下におくある特定の[規定を受けた[ベシュテイムト
]]過程を通じてなんらかの素材[物質的要素、質料[シュトッフ]]を生み出す
こと、と理解されている。》(234-235頁)

 補遺。保坂和志のオフィシャル・サイト[http://www.k-hosaka.com/]に、産経
新聞[2002年2月24日]読書欄掲載の「ベンヤミンと芸術の理念」が載っていた。

《思想書を読んで久しぶりに興奮した。(略)私はベンヤミンのたんなる読みかじ
りで、彼のことをすぐれた小品の書き手ぐらいにしか思っていなかったのだ。しか
しベンヤミンは、世界観、芸術観、認識論……それらが連関し合い一体となった非
常に大きな思想を構想していて、彼の書いたものすべてが、そういう全体と響き合
っているらしいのだ。(略)ドイツ・ロマン主義の言う個々の作品は、制限の中に
こそあるが不完全でも模倣でもない。芸術の無限性とは個々の作品の有限性の中に
しかないのだ。ベンヤミン自身の思想も、その無限の連関を認識することにあるの
だろう。彼自身の仕事が自殺によってまさに有限になってしまったが、科学全盛の
時代の中で、芸術や思考の沈滞を打ち破る鍵はベンヤミンにあるかもしれない。勇
気づけられる。》

●339●佐倉統『進化論という考えかた』(講談社現代新書:2002.3.20)

 本書は二つの部分に分かれている。

 著者はまずダーウィン理論の真髄と現代性──「生物の進化を集団の振る舞いと
して考えること」と「メタ理論としての自然選択説」(あるいは進化理論のアルゴ
リズム的性質)──を指摘する(第1章「進化論の二○世紀」)。次いで現代進化
論の四つの転換のうち動物行動学と社会生物学を「人間」というキーワードで括り
「進化理論による人間観の地殻変動」や言語進化、意識の問題を考察し(第2章「
人の心の進化論」)、続けて「情報」のキーワードのもとで分子生物学と生命情報
論を概観し人工生命やミーム、非生命の歴史にまで説き及ぶ(第3章「生命を情報
としてとらえる」)。

 ここまでが前半で、後半では一転して「科学と思想のインターフェイス」や科学
技術と社会の関係の問題が扱われる。まず自然主義と人間主義をリンクさせるコネ
クターであり科学の成果を使いこなすツールともなる「生物学の哲学」(健全な自
然主義)の必要性とその課題が一般的に論じられ(第4章「ハンバーグのつなぎと
進化論」)、これを受けるかたちで自然科学と人文・社会科学の橋渡しをする「第
三の文化」(ブロックマン)の駆動装置としての進化論の可能性(さまざまな現象
をつなぎ合わせる文脈生成機能=個別現象への意味付与機能=科学技術と社会との
往復運動を橋渡しする物語機能)が展望される(第5章「科学と物語と進化論」)。

 本書の真髄が後半にあることは間違いないのだが、前半と比較して構成にまとま
りがなくやや散漫な印象(この前半と後半のインターフェイスにあいた穴は各章の
扉と本文で一度引用された村上春樹の文章が埋めてくれる)。たとえば「生物学の
哲学」をめぐる叙述は生煮えではないかと思う。でもその分読者への訴求力に富ん
でいる。観賞用の出来合の物語ではなくて読者自身の思索と実践を促す論点や素材
の提供に徹したものと受け止めれば、それはそれで結構面白い。とりわけ物語論、
というよりメタ物語論が刺激的だった。

 補遺。「生物学の哲学」に関連する若干の素材。──木田元氏の『マッハとニー
チェ』に次のくだりが出てくる。

《一八八年にヘッケルが『ゲーテ、ラマルク、ダーウィンの自然観』を書き、ドイ
ツ語圏にダーウィニズムを、それもかなり歪曲し、ダーウィンをゲーテのロマン主
義的な自然哲学やラマルキズムに引き寄せながら紹介している。マッハもニーチェ
も出版されるとすぐこの本を読み、ヘッケルと親交のあったマッハは、進化論を積
極的に作業仮説として採用するし、ニーチェも、ダーウィンやヘッケルにそれなり
に反撥は示すものの、やはりこの時点でその影響としか思えない仕方で「生」の概
念に大きな変更をくわえ、一種の進化論に立って最後期の思想を構築する。彼らが
きわめて似た世界像を描くことになる共通の動機があったのである。》(24頁)

 ここに出てくるマッハとニーチェの「きわめて似た世界像」について、木田氏の
文章を引用しておく。

《…遺稿のうちに残されたニーチェの最後期の思想には、マッハの「現象学」とひ
どく似たところがある。たとえば、この時期のニーチェは生成のそのつどの段階に
ある力の中心に開かれてくる「遠近法的展望」[ペルスペクティヴィスムス]こそ
が世界のすべてであり、その背後に形而上学的世界を想定するのは誤りだと主張し、
いっさいの「背後世界」[ヒンターヴェルト]を否定するが、この「遠近法的展望
」とマッハの「現象」の世界とはほとんど重なり合う。》(23頁)

 木田元氏との対談「『マッハとニーチェ』を読む」での三浦雅士氏の発言。

《フッサールの前にはディルタイとか、また同時代としては『宇宙における人間の
地位』(一九二八年)のシェーラーとか、一連の人たちが「生の哲学」と言ってい
た。これらの哲学者は当時の生物学者たちとかなり密接な関係をもっていたわけで
すね。それがいわゆる哲学的人間学の誕生にもつながる。これはそれこそ木田さん
に教えていただいたことですが、ポルトマンとか、ユクスキュルとか、その後でい
えばローレンツとか、そういった人々は、マッハとニーチェの影響圏にどのように
かかわってくるのでしょうか。

 以前、木田さんから教えていただいたお話を整理すると、二十世紀の思想の潮流
において顕著なのは、世界を「実体」としてではなく「意味」として捉えることで
ある。関係として捉えることである。たとえば、世界とは何かを問うのではなく、
蛸なら蛸、蜘蛛なら蜘蛛にとっての世界とは何かを問うこと、それが動物行動学で
すね。あるいは、未開の心性にとって世界とは何かを問うこと、それが文化人類学
ですね。同じように精神分析があり、科学史があり、美術史がある。二十世紀にお
いて脚光を浴びた学問はすべて実体を問うものではなく意味を問うものであり、関
係を、構造を問うものである。》(『大航海』No.42,211頁)

●340●坂本百大・監修『3日でわかる哲学』(ダイヤモンド社:2002.3.14)

 哲学は鉄棒の逆上がりと似たところがあって、わかってしまうとなぜわからなか
ったのかが皆目わからなくなるし、いったんわからなくなると何がわからないのか
がそもそもわからない。

 養老孟司氏は芸術作品が鑑賞者の脳に引き起こす活動が作者の脳活動に近いほど
鑑賞者にはその作品が「よくわかる」はずだと書いている(『人間科学』,筑摩書
房,174頁)。私は哲学の問題が問題であるためにはそこに「哲覚」とでも名づけ
るしかない言語化不可能な感覚(養老氏によれば言語とは本来そういった主観性=
「クオリア」を排除することで情報の基本的性質としての不変性や共通了解可能性
を確保してきたものなのだから「言語化不可能な感覚」とは畳語にすぎない)が関
与しているに違いないと考えているのだが、そうだとすると感覚には脳内過程が随
伴しているのだから哲学にも養老氏がいう芸術作品と同様の事態がなりたつことに
なって、わかるかどうかは哲学の問題をかかえている人(かかえてしまった人)の
脳活動の様態いかんによることになる。

 だからわかる人は3時間でもわかるだろうしわからない人は3年かけてもわから
ないだろう。そこには「わかる」から偉いとか立派だといった問題はそもそも発生
しない。

 それにしても本書は随分とバイアスのかかった哲学入門書だ。監修者はまえがき
で、科学は再び「諸学の学」すなわち「科学哲学」であろうとしている、と書いて
いる。この編集方針をバイアスというのではない。扱われる科学がかなり生物学に
偏向していることをいうのでもない。それはそれでひとつの見識だと思う。

 執筆陣(江川晃、金森修、河本英夫、高橋昌一郎、田中裕、樽井正義、西脇与作、
成田毅)がいったいどのような読者層を想しているのか疑ってしまうほど唐突に概
念や自説を提示し、しかも信じられないほどに圧縮された字数の中で語っていてろ
くに参考文献も示さない、そのおよそサービス精神の欠けた徹底的な利己的な姿勢
をバイアスと表現したのだ。

 実をいうと私は本書をくさしているのではない。結構面白く読んだし(書かれて
いない部分に)刺激も受けた。3日で分かる? こんな分量で何が書けるのか! 
そんな憤りを覚えながらしかも手抜きをしない潔さ。ベンヤミン流にいえば、本書
はモザイクのように思考細片がつめこまれた現代のトラクタートなのだ。

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