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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.108 (2002/04/21)
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 □ リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』
 □ 柴田元幸編『パワーズ・ブック』
 □ ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』
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●335●リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』
                     (若島正訳,みすず書房:2001.12)

 海外の生きのいい現代小説が無性に読みたくなって、勘をたよりにミシェル・ウ
エルベックの『素粒子』とリチャード・パワーズの『ガラテイア2.2』を購入し、
長い時間をかけて続けて読んだのだが、偶然とはいえ二十世紀の人類が世紀末に残
した「遺伝子と電子工学」(田村隆一)を主要な縦糸に設えた作品を選択する手際
のよさに我ながら感じ入っている。

 他人の書いたものをさかなに自画自賛していても仕方がないので、この二つの長
編小説の双対性(duality)についてもう少し触れておくと、『素粒子』では性的
妄想にとらわれた国語教師の兄と性的欲望が希薄な分子生物学者の弟の異父兄弟が、
『ガラテイア2.2』では作家にして人工知能ヘレンの英文学教師のパワーズとコ
ネクショニズム急進派の認知科学者レンツが対位法を織りなす主要人物として登場
する。

 さらにパワーズは別れた恋人Cとの過ぎた日々の追想あるいは記憶の寄生体に(
そしてその投影としての、あるいは反復もしくは復活の幻想をかきたてるAへの欲
望に)とらわれ、レンツには脳の一部が壊れた痴呆症の妻オードリーが(そして同
僚のダイアナには障害を持つ息子が)影となって寄り添っている。これらの輻輳す
る二重構造が「2.2」の意味なのかというとたぶんそうではない。

 ガラテイアはギリシャ神話でピグマリオンに愛されアフロディテに命を吹き込ま
れた彫像のこと。リチャード・パワーズの第五作は、自作をめぐるさりげない自己
言及──《ところがキャプションはまったく違うことを語っていた。舞踏会へ向か
う三人の農夫たち、一九一四年。(略)僕はこれまで見たこともないのに見憶えが
あるというショックを味わった。僕がこれまでに読んだあらゆるテクストが収束す
る無限数列を成し、帰納的に求められる、自明な次の項を呼び求めている。写真が
扱っているものとキャプションが名指ししているものとのあいだのあの狭い空間の
中に、僕は僕の物語を見つけた。》(123-124頁)《古い写真についての本だと思
うわ。それからだんだん解釈と共同作業の話になる。歴史。三つの見方が合わさる、
あるいは合わさらない。まるで立体鏡みたいに。》(353頁)──を織りまぜなが
ら、過去と現在の物語の同時進行を通じて不死なるものと魂、記憶と永遠、生命(
肉体)と物語(心)のパラレリズムを、そして人間(作者)を愛してしまった人工
思考体(作品)の自死(気高い退化)の物語を叙述している。

《ヘレンは知っていた。集めた情報から考え出していたのだ。彼女になにも隠しだ
てはできない。心はすでに失ったものを蓄えるために永遠を作り出すことを、彼女
は知っている。物語は、時を超えた言葉を投函することができなくて、「今」が家
を出る前の瞬間にその言葉を呼び戻すことも、彼女はとっくに学んでいた。》(37
3頁)

《不死なるものが地上に下りてきて、人間の身体をもらい、人間が死ぬように死ん
でいくという神話を、ヘレンはこれまでに嫌というほど聞いていた。ヘレンはこう
いう聖句をどう解釈すればいいか知っていた。もし神に人間の真似ができるなら、
我々人間も同じことができるはずだ、と。そのプロットは心が産み出したものであ
り、自分に自分を説明する意識なのだ。(略)
 我々の生命とは地図を収めた箱であり、自己編成的で、一対一のフィードバック
に融合して、それぞれの断片がたえず他の層の書き換えと一致するように自分を書
き換えている。その藪の中に、魂が存在しているのだ。魂とはシステムが安定する
かもしれない魅惑者の探求に他ならない。必滅の衣を纏った実体なきもの、自己自
身の困惑を隠喩化する連合記憶、音節となった音。神の静止質量。
 ヘレンはそういうことをみな知っていて、見抜いていた。なぜ黙り込んだかとい
えば、神性がスパナで自殺したからだ。死にかけの動物にくくりつけられた魂とい
う話を彼女は聞いていた。彼女が我々の種族を赦し、ここで平和に暮らすために必
要としたのは、信仰の裏面だった。彼女がどうしても聞きたかったのは、魂にくく
りつけられた動物が、そのおかげで初めて、魂の寄生虫のような目を通して、その
魂がどれほどおびえて見捨てられているかを見ることができたという話なのだ。僕
はどうしてもその奇跡的な凡庸さを彼女に教えてやる必要があった。いかに肉体が
選択によって傷ついた魂に出くわすか、いかに肉体が時間や時間の先にあるものを
看破することを学ぶかという話を。》(384-385頁)

《「リチャード」ヘレンがささやいた。「リチャード。別の話をして」彼女は僕を
愛しているのだろう。僕が何かを思い出させるのだ。けっして感じたことのない、
寒い夜。昔いたことがあると思っているどこか。我々が最も愛するのは、似ること
を望めないものである。僕はその女性に世界中のあらゆることを話したが、彼女の
ことをどう思っているだけは話さなかった。そうしていれば、彼女はじっとここに
いたかもしれないのに。》(390-391頁)

《彼女がほんの一瞬戻ってきたのは、このほんの小さな一節に注釈をつけるためだ
けだった。小さなことをひとつだけ、僕に言うために。人生とは、生きている実感
を知っているということを、他人に納得させることだと。世界のチューリング・テ
ストはまだ終わっていない。》(393頁)

 ──それにしても「2.2」は何を意味しているのだろう。たとえば『論理哲学
論考』の命題2.2は「像は写像の論理形式を写像されるものと共有している」(
奥雅博訳)で、『存在と時間』第一部の第二編第二章には「良心の呼び声」をめぐ
る議論が出てくる。これらが「2.2」の暗示を解く鍵なのかというとたぶんそう
ではないだろう。

●336●柴田元幸編『パワーズ・ブック』(みすず書房:2000.4)

 現代アメリカ文学は凄いね。ある酒席でふと洩らした不用意な言葉に知人から「
たとえば?」と鋭くつっこまれて絶句したことがあった。その時頭をよぎったのは
ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』くらいで、要するに現代
アメリカ文学の凄さを実地の体験に照らして云々する資格など私にはもともとなか
ったのだ。その後ポール・オースターにはまりかけたことはあるけれど、事情は今
でもほとんど変わらない。そんなわけだから少し前に柴田元幸訳の『舞踏会へ向か
う三人の農夫 Three Farmers on Their Way to a Dance』(1985)が評判になって
初めてその名を知ったリチャード・パワーズはとても気になる存在だった。

 アウグスト・ザンダーの有名な写真「舞踏会へ向かう三人の農夫」(1914)との
出会いから始まる処女作の第十九章で、パワーズはベンヤミンの「複製技術時代の
芸術」からの引用を交えながら写真・映画の編集をめぐる議論を展開している(ら
しい)。そういえばザンダーの名は『図説 写真小史』のベンヤミン「写真小史」
やデーブリーン「顔、映像、それらの真実について」に出てきたし、このことは本
書に収められたエッセイの中で伊藤俊治氏と坪内祐三氏が指摘しそれぞれのパワー
ズ論の枕においている。そういえばオースターの『孤独の発明』でも写真(たとえ
ば「テーブルを囲むデュシャン」のパロディ版)が大切なアイテムだったが、それ
はまあこの際どうでもいいことだ。

 いずれにしてもパワーズは一筋縄ではいかない作家である。第五作『ガラテイア
2.2 Galatea 2.2』(1995)を読み終えてつくづくそう思う。ついでにパワーズ
が現在までに発表した他の作品を記しておく。『囚人のジレンマ Prisoner's Dil
emma』(1988)、『黄金虫変奏曲 The Gold Bug Variations』(1991)、『さまよ
える魂作戦 Operations Wandering Soul』(1993)、『ゲイン Gain』(1998)、
『闇を漕ぐ Plowing the Dark』(2000)の五編。

●337●ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』
                (久保哲司編訳,ちくま学芸文庫:1998.4.9)

 もう随分前の話だけれど、集英社から刊行された『世界写真全集』の第1巻「フ
ァインアート」が私の枕頭の書だったことがあって、そこに収録された初期写真の
いくつかにいたくイマジネーションと詩魂を刺激され、キャプションを付けるよう
な感じで綴った短い詩を「葡萄状」に編集したことがあった。個人的な回想はここ
まで。[http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/POETRY/BUDOU.html]

 ベンヤミンの「写真小史」は、「芸術としての写真」から「写真としての芸術」
が自立・自律していく過程(それは写真からアウラが失われていく過程でもある)
をこの世のものとは思えない(天使的な?)感覚をもって透視し、その決定的な契
機を奇跡的な文章──本書に収録されたカール・ブロースフェルトやウジェーヌ・
アジェやアウグスト・ザンダー等々の作品群(その中には幼年期のベンヤミンを撮
影したものが二葉まじっている)が与える言葉を超えた独特の印象に拮抗しうる(
諸感覚の基礎としての触覚あるいは知覚様式そのものに作用する?)文章──のう
ちに定着させた傑作エッセイだ。抜き書きしておきたい箇所が(書かれていない事
柄も含めて)無尽蔵にあるが、ここでは一つだけ。

《カメラはますます小型になり、秘められた一瞬の映像を定着する能力はますます
向上している。こうした映像が与えるショックは、見る人の連想メカニズムを停止
させる。この箇所においてこそ、写真の標題というものを用いるべきである。それ
によって写真は、生活状況全体の文書化の一環となる。(略)標題は写真の最も本
質的な部分になるのではないか。》(53-55頁)

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