〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.107 (2002/04/14)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』
 □ 細川亮一『ハイデガー入門』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

「ハイデガーとウィトゲンシュタイン」について考えているうち、工学的な知、と
いう語彙が浮かんできました。形而上学的動物(たしか、ショーペンハウアーの言
葉)としての人間にとって、工学的知性はとても重要な機能を果たしているのでは
ないか。(これから先はまだ考えていないので、今日はここまで。)
 

●333●古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書:2002.3)

 澄みきった青空や冴えわたる星空を眺めていて、あるいは見入られながら、私は
ときおり「在る」ことをめぐる不可思議の眩暈にとらわれる。それは森羅万象がか
く「在る」こと、そして純粋に感覚だけになった「私」という抽象物が絶対的な孤
独感にくるまれながらそこに「在る」ことの不可思議感である。あるいは夏の炎天
下、すべてが溶解し形を失いかけた街を影一つとなって歩行するとき、私は「歴史
」というものの実在をめぐるある形容しがたい感覚にとらわれることがある。かつ
て「在り」今は「無い」ものの存在の影、響きの余韻、残像を介して「いま・ここ
」に浸透してくるものの気配。以上、読後の個人的感想。

 著者は「存在は神秘の味がする」と語る。極度にありえないことがありえている
「希有」とこの世ならぬものが実現している「奇跡」が醸し出す存在神秘の味=意
味を味わうこと。無根拠・無目的・無常性という存在の否定性が、そのまま充溢・
輝き・祝祭性といったとほうもなく明るい肯定性(存在神秘)へとつながっている
こと。著者によると、『存在と時間』はハイデガー自身のそのような存在の至高性
をめぐる法外な体験(存在驚愕すなわちタウマゼイン)に基づき、読者の実存変容
(存在神秘への覚醒すなわちエルアイクニス)を促し存在の味=意味へと導く「形
式的指標法」で書かれた書物である。(それは「私は世界の存在に驚く」と書いた
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にもあてはまる評言だ。)プラトンと同
様、ハイデガーの書物は肝心なこと(ハイデガーの思想内容)は何も書いていない。
ハイデガーは読者をある究極地点(存在神秘)へと導く「道」をこしらえただけな
のだ。──プロローグから第二章までに書かれていることのごく大雑把な要約だが、
本書のエッセンスはほぼこれで尽きている。

 以下、世界劇場論のフィルターにかけて『存在と時間』を読み解く第三章(そこ
で著者は‘Zeitlichkeit’に「刻時性」、‘Zeitigung’に「時の実現」という訳
語をあてている)、ハイデガーの根本思想である「存在と無は同一」というテーゼ
を図解し刹那=永遠の理説を通じて存在神秘の証明を目論む第四章、そしてナチズ
ム問題に対するハイデガーの沈黙の意味をめぐる第五章と論考は続く。いずれも面
白く刺激的なものなのだが、それはハイデガー哲学の解説というよりはハイデガー
に託して語られる古東哲明の哲学である。私は何もハイデガー哲学に入門したくて
本書を読んだのではないから、それはそれでいいと思う。それにしても分かりやす
い叙述だ。私はかつてこれほど平易なハイデガー入門書(出門書というべきか)を
読んだ記憶がない。

●334●細川亮一『ハイデガー入門』(ちくま新書:2001.1)

 かつて『存在と時間』を読んで、そこに出てくる「根本感情」や「不安」や「良
心の声」等々のハイデガー語が煩わしくて仕方なかった。いっそ「X」や「φ」や
「#」といった記号で表現してもらえればすっきりするし、結局そこでは何も語ら
れていないことが判明するだろうと思った。『存在と時間』が無内容だとか荒唐無
稽だと言いたいのではない。(ただし、この書物で論じられている事柄は私自身の
哲学の問題とは直接関係するところがないのではないかと漠然と思った、その意味
では私にとって『存在と時間』は無内容だったのかもしれない。)そうではなくて、
この書物は何か名状しがたい根源的なものを立ち上げ読者すなわち私を揺り動かす
不気味な力を漲らせているのだが、それがどこから来てどこへ導こうとするのか皆
目見当がつかなかったのだ。

 古東哲明氏は『ハイデガー=存在神秘の哲学』で、『存在と時間』に出てくる「
世界」や「実存」や「死」や「歴史」といったキーターム、そして「存在」や「時
間」でさえ「形式的指標 die formale Anzeige」であって、直接それを規定したり
定義できる概念ではないと指摘している。そう聞くと何となく腑に落ちるところが
ある。これは誤解かもしれないが、たとえていえば料理のレシピ、あるいはゲーム
のルール書か裏技暴露本のようなもので、要所要所で参照すれば確実にある行為(
もしくは実存変容)を遂行できる手引書(もしくは奥義書)として『存在と時間』
を読むことができるということだ。(ダニエル・デネットは『ダーウィンの危険な
思想』で、ダーウィンの自然選択理論の本質はアルゴリズムであると述べている。
『存在と時間』は実存変容のためのソフト・プログラムを起動させるアルゴリズム
なのかもしれない。)

 このことと関係するのかしないのか私には判然としないのだが、細川氏は本書で、
ハイデガーの「存在」テーゼ(「存在は、存在者を存在者として規定するもの、存
在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である」)
や「意味」テーゼ(「意味とは先持、先視および先概念によって構造づけられた企
投の Woraufhin であり、そこから或るものが或るものとして理解される企投の
Woraufhin である」)に出てくる Woraufhin という言葉に注目している。

《Woraufhin という語は英訳では the upon-which 、あるいは that on the basis
of which と、つまり「それを基礎とするそれ」と訳されている。そして日本語で
も「基盤」などの訳が一般的に使われている。しかしこれは基本的な誤訳・誤解で
ある。Woraufhin という言葉は、auf...hin という前置詞句と関係詞 wo からつく
られ、Woraufhin という語は、auf eywas hin の etwas を指す。auf...hin は「
……へ向けて」という方向を原義としており、評価や行為を導く視点を言い表す。
例えばこの花が白いかどうかでなく、美しいかどうかを見る場合、「この花を美と
いう視点で見る」(diese Blume auf die Schonheit hin sehen)と言う。auf...
hin という前置詞句の間にある die Schonheit(美)が視点を言い表す。美は見る
ことの視点、「視がそれへと目を向け、そこから花が美しいかどうかを見る視点」
である。》(64頁)

 細川氏は本書で一貫して Woraufhin を「それへ向けてのそれ」と理解し、これ
を『存在と時間』における最も基本的で重要な術語の一つであると指摘している。
そして Woraufhin からプラトンのイデア論へ、そしてアリストテレス存在論の核
心的なテーゼ「存在者は多様に語られる、しかし一へ向けて(プロス・ヘン)」に
出てくるプロス・ヘン(一へ向けて)へと遡及していくのである。

 本書の魅力は「はじめに」で予告されている三つのプログラム──すなわち『存
在の時間』をプラトンとアリストテレスの存在への問いを新たに立てる試みとして
解釈すること、ウィトゲンシュタインとハイデガーとの出会いに形而上学の視点か
ら光をあてること(好著『形而上学者ウィトゲンシュタイン』の予告編に相当する
)、そしてハイデガーが哲学者としてナチズムのうちに見たものを神の死と形而上
学から考察すること──が相互の有機的連関のもとに整然と叙述され、さらに「ハ
イデガーを通して」そして「ハイデガーに抗して」のハイデガーからの解放への道
(たとえばアリストテレス『デ・アニマ』の思想史への着目や新たなニーチェ像の
提示の可能性)が展望されることにある。つまり、自らが不要とされる領域まで読
者を案内する潔さにある。

 そして本書の真骨頂は、ハイデガーはドイツ語での表現を大切に考える哲学者だ
から『存在と時間』を翻訳で読んでわかった気にならないでぜひドイツ語で読んで
ほしいと読者に要請し、子供が知らない漢字を読み飛ばして平仮名だけを読むよう
な読み方や「おとぎ話(作り話)」による理解を峻拒する著者の態度にある。その
意味で、本書は毅然たる入門書なのである。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       :http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP:http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓