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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.106 (2002/04/07)
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 □ 青柳いづみこ『水の音楽』
 □ 細川俊夫『魂のランドスケープ』
 □ 中川真『平安京・音の宇宙』
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『事典 哲学の木』(講談社)の「音」の項を高橋悠治さんが担当していて、そこ
に「響と余韻」という文章があります。

──東アジアの生活には竹がある。竹筒の空洞から外にのがれ出る響がひとつの空
間をひらき、その波紋が呼び起こす余韻がひとつの時間を立ち上げる。竹のかるく
こもった響きは、すぐ消える。

 やがて青銅の鼓や銅鐸に、響と余韻が移され、
 長く引き延ばされた響と、
 ぶつかりあってひろがる余韻が、
 宮廷や神事の儀式をかざる時代には、
 切り開かれた森から見える空や、
 農耕のゆるやかな周期と暦をもつ時間が、
 人びとの生活を支配するようになる。

 ここから「天」の形而上学まではほんの一歩。
 

●330●青柳いづみこ『水の音楽』(みすず書房:2001.9)

 青柳いづみこの指先が紡ぎだす文章は美しい。北欧神話の海の女神ラーンのよう
に「網をはり」、人魚伝説のルーツとなったセイレーンのように「ひきずりこむ」
その言葉は、水の精をめぐる物語世界やドラマへ、そして水の音楽とピアニズムの
分析へと読者を誘惑する。

 「女が子宮で考える、とよくいわれるのと同じ意味で、ピアニストもまた、指先
で考える動物といえばいえよう」(プロローグ)。ピアニスト青柳いづみこの思索
は、モーリス・ラヴェルのピアノのための組曲『夜のガスパール』第一曲の「オン
ディーヌ」とドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』のヒロイン・メリザ
ンドとを結ぶ想像力の源流をたどっていく。

《水は本来抽象的なものである。水はどんな形でもとることができるが、そのどれ
でもない。それは、ピアノの音についてもいえる。ピアノは、イマジネーション次
第でオーケストラのいかなる楽器にも擬せられるが、実は何でもない。
 水は、ピアノに似ているのである。その証拠に、水をテーマにした歌曲の水の描
写の部分は、いつも伴奏のピアノが受けもつではないか。
 メリザンドのようなオンディーヌとは、つまりそういうことなのらしかった。留
学生は、何より水を弾きたかったのだ。「出かけていく女」オンディーヌは水の擬
人化としての水の精であり、「何もしない女」メリザンドは、擬人化される前の水
の象徴だった。メリザンドとオンディーヌは、彼女の中では、水によってつながっ
ていたのである。》(エピローグ)

 随所に織り込まれたギュスターヴ・モローやフェルナン・クノップフやロセッテ
ィのモノクロのタブローがイマジナリーな音の世界を沈黙のうちに指し示し、読み
終えた時、私は音楽への飢渇感にさいなまれている自分に気づいた。このような読
後感は、今泉文子『ロマン主義の誕生』(平凡社)や丹羽隆子『はじめてのギリシ
ア悲劇』(講談社現代新書)以来ことだ。

●331●細川俊夫『魂のランドスケープ』(岩波書店:1997)

 とても美しい書物だ。それは外観や形態の美しさではないし、内面的とか精神的
といった形容詞で飾られる美しさでもない。なんといえばいいのだろう、たとえば
「心根=心音」の美しさとでも? たとえば次の文章。

《ぼくは最近、音楽の梵鐘様式というものを考えて、作曲するようになった。歌う
こと、音楽することは、除夜の鐘を、祈りを込めてひとつひとつ、撞くような行為
ではないだろうか。ひとつの音に、梵鐘のようなシンプルで、しかも深みと複雑性
を持たせたい。
 仏教に「一音成仏」という言葉がある。ひとつの音で、仏と一つに成る。ひとつ
の音を聴くことで、世界と一体化する。尺八奏者の一吹きの音が、宇宙の根源から
のエネルギーに触れる。梵鐘のひとつの響きを打つ。そしてそれを聴くことで、宇
宙の根源の力の内に入っていく。
 笙のひとつの響きを、梵鐘のように考える。そしてオーケストラはその笙の響き
を生み出す背景の自然であり、宇宙である。笙の静かな一吹きの響きが、背景のオ
ーケストラに余韻を与える。そのこだまを受けて再び笙がエコーを返す。背景の間
の持続的な静かな響きは、母胎の響きであり、そこから笙の響きが立ち上がってく
る。そして背景に再び還っていく。そのこだまが、幾層にも時間のずれを持って、
世界に響き渡る。
 全体は深い静けさに包まれている。ピアニッシモよりも、かすかな遠い響き。そ
のほとんど聴こえないような可聴域の限界の響きが、人を遠い記憶の世界、聴くこ
との始源の世界へ連れ出す。》

 武満徹亡き後、私は細川俊夫の「文章」に惹かれ続けている。

●332●中川真『平安京・音の宇宙』(平凡社:1992)

 著者によれば、京都大原は九世紀以来千年以上にわたって「声明」の中心地とし
て栄えた。この地が古来「魚山」と呼ばれるのも、中国における声明の中心地の名
を借りてのこと。

《正月二日、三日に営まれる修正会「阿弥陀悔過[けか]」は音楽法要とでもいう
べきもので、声明は荘厳でありながら、官能的といえるほどの魅惑的な旋律を堂内
に響かせる。声明や雅楽の音は、中世においてもおそらく一年中、大原の里を包ん
でいたはずである。》

 この豊穣な、香りたつ音が織り込まれたような書物の第2章「平安京・音のコス
モス」からの抜き書き。

《「それにね、中川さん」と、天納師[引用者註:実光院住職]はことばの切れ目
を埋めるように、大原にある意味深い音の配置について語ってくれた。「勝林院の
鐘(平安朝鋳造)の音は『平調』に調律してあるんですよ。勝林院は阿弥陀如来、
つまり回向の仏さまでしょ。ですから木の葉の落ちる秋の物悲しい音(平調)がす
る。来迎院の鐘(一四三五年鋳造)の音は『双調』です。薬師如来で、祈願の仏さ
ま。若葉のもえ出る春の歓びの音なんですよ」。季節や仏の意味体系と緊密な関係
をもちながら、鐘の音が鳴っているというのである。呂律の川のせせらぎと声明、
梵鐘の音の混ざりあった豊かな音の世界。そして一方では建礼門院が聴いた、喩え
ようもなく虚ろな音の世界[引用者註:『平家物語』「灌頂巻」]。大原の音風景
は濃密で重層的な気配を宿しながら、私に謎を投げかけ始めた。》

 こうして中川氏は、平安時代から近世初期にかけて鋳造された京都の梵鐘(三十
二体あるという)の音高調査に乗り出す。その結果、平安京の音(梵鐘)は、五行
思想による中世の音楽理論を体系化した『管弦音義』(一三○三年)の「音の宇宙
論」とほぼ照応していることが見出されたという。

 以下、「鬼の声・都市の闇」「利休が聴いた音」「王宮〈音〉都市論」等々、刺
激的な論考が続く。その内容については実地にあたっていただくとして、次の一文
だけはぜひここに引用しておきたい。

《以上のように[引用者註:梵鐘の響きや祗園囃子の鉦などの]金属音は、強大な
音量と倍音を含む特殊な音色を媒体として、人間と超越者との霊的な交信を促し、
超自然力を至現する様々な文化事象のなかに、連綿と生き続けてきたのである。思
い起こせば、カトリックのミサも、聖体拝領に際してベルが鳴らされるではないか。
(略)だが留意すべきは、金属のすぐれた精錬技術は、南方からの渡来人によって
もたらされたということである。おそらく彼らは技術とともに思想をももち込んで
きたのである。ということは、祗園囃子の音の意味を考えるのに、日本という狭い
枠のなかだけに閉じこもっていては、本来の姿を見失ってしまうことになる。する
と私たちの視野の前には、アジアという広大な地平が開けてくる。》

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